侯爵令息の疲労。
※ゲオルク・ツー・アイゲル視点です。
フランメの南南西に位置する、小さな港町ガルネーレ。
海岸線を一望できる小高い丘に建てられた屋敷の一室で、僕――ゲオルク・ツー・アイゲルは詰めていた息を吐き出した。
街の代表者と、船員、それから僕を交えての話し合いは、三時間弱にも及んだ。
会議には慣れたつもりでいたが、商人や貴族を相手にするのとは訳が違う。冷静さを欠いた町民達との議論とも呼べぬ会合は、多大な忍耐力を必要とした。
彼等は他国の王族を蔑ろにした事実を、なんとか正当化しようと躍起になっている。
家族を護ろうとしただけだと情に訴え、館や治療道具を提供した事を盾にとり、最終的には王女殿下が本物であるかを探ろうとした。
優位に立とうと必死なのだろうが、愚策にも程がある。フランメには侮辱罪がないのかと慇懃無礼な態度で問いかけてやれば、顔を真っ青にして黙り込んだ。
相手の戦意を挫いてからの交渉は、比較的やりやすかったように思う。
王都に早馬を出し、許可のない入港の報告と、緊急事態による特別措置の適用申請。怪我人の保護。それから海賊の残党の討伐を依頼。
王女殿下の存在は、秘匿する方向性で話をつけた。
お忍びの旅であるという真実を織り交ぜながら、外交関係への影響を踏まえ、説得という名の脅しをする。フランメ王国の中枢にマリー様の存在を知られて困るのは、王女殿下を不当に扱った彼等の方だ。
殆どの人間が自分らの不利を悟り、異議は唱えなかった。
残りも、アイゲル侯爵家及び大商人ユリウス・ツー・アイゲルの方から、礼を尽くす旨を伝えれば大人しくなった。
「疲れたな……」
僕の口から零れ落ちた弱音は、室内の喧騒に紛れて消える。
誰にも聞かれなかったようだが、己の失態を自覚して、僕は表情を引き締めた。交渉が終わってすぐに気を抜くなど、許されぬ愚行だ。叔父のユリウスに見られたら、笑顔で嫌味を言われただろうな。
席を立ち、室内を見渡してから咳払いを一つ。意識をこちらに向けた数人に、退室する旨を伝えてから部屋を出た。
やるべき事は山のようにあるが、まずはベールマー殿の容態を見に行った方がいいか。付き添いを別の人間に交代してもらって、ミハイルも休ませたい。
マリー様がお目覚めなら、軽い食事を用意してもらおう。お話しするのは、それからでいい。
今後の事は、ゆっくりと話し合うべきだ。そう、努めて冷静に。
僕は己にそう言い聞かせた。
マリー様をフランメに保護して貰い、ネーベルへと送り届けて貰うのが最善だと理解している。
だが、それはあくまで僕の判断だ。
マリー様の目的を僕は直接聞いてはいないが、観光目的でフランメへ来たのではない事くらいは分かる。何も聞かないうちにマリー様の覚悟を、僕がこの手で無に帰すのは躊躇われた。
だからと言って、あの方が危険に晒される事態をみすみす看過する事は出来ない。
堂々巡りとなる己の思考に嫌気がさす。腹の中に蟠る感情を吐き出すように、僕は二度目の溜息を吐き出した。
「あの、ゲオルク様」
高い少女の声に、呼び止められた。
肩越しに振り返ると、細身の少女が立っている。年の頃は十五前後。波打つストロベリーブロンドと、目尻の下がった青灰色の瞳に、見覚えがあるような気がした。名前を呼ばれたのだから、知り合いである可能性は高い。
叔父に鍛えられたお陰か、生来の才能か。人の顔を覚えるのは得意な方だと自負していたが、何故か記憶が上手く引き出せない。
しかしご婦人に対して、どこでお会いしたのかを訊ねるのは、あまりに無作法というものだろう。
困った時は笑って誤魔化せという叔父の教えに倣い、薄笑いを貼り付ける。
しかし少女は、誤魔化されてはくれなかった。
「グラーツ男爵家長女、フローラ・フォン・グラーツでございます」
苦笑を浮かべた後、フローラ嬢はスカートを軽く摘み、膝を曲げて挨拶を述べた。
大叔母がアイゲル家に縁のある方だという辺りで、フローラ嬢をどこで見たのかを思い出す。一年ほど前に、彼女の大叔母――メーリヒ夫人を訪ねた際に会った少女が、目の前のフローラ嬢だった。
なるほど、思い出せないわけだ。
表情が、全く違う。
唖然としつつ、そう心の中で呟いた。
僕は侯爵家の跡継ぎという立場と、母似の容姿のせいか、年頃の少女に囲まれる機会は多い。しかし嬉しいと感じた事は一度もない。
令嬢らは皆、控え目を装い淑やかに振る舞う。しかし、騙されてはいけない。目は獲物を狙う肉食獣のそれだ。しかも表面上は仲良くしつつも、無邪気なふりで互いを貶め合う。女同士の戦いは苛烈だ。
可愛いと思うよりさきに、恐怖を感じる。叔父には情けないと溜め息混じりに切り捨てられたが。
フローラ嬢も平たく言ってしまえば、そういった、よくいる令嬢の一人だった。
傲慢さが透けて見える笑顔と口調に、夫になる人間は苦労しそうだと、どうでもいい感想を抱いたのを思い出す。
しかし今のフローラ嬢の苦笑いを見ても、不快な気分にはならない。細い体を包む、シンプルなライトグリーンのドレスも相まって、ごく普通の少女に見えた。
清々しい顔付きは、まるで憑き物が落ちたかのようだ。
まるで別人だな。
彼女は僕をじっと見つめていたかと思うと、クスクスと肩を震わせて、密やかな笑いを零した。
「フローラ嬢? 僕の顔になにか?」
ゴミでもついているだろうかと頬を擦れば、フローラ嬢の笑みは深くなる。母親が幼子の失敗を見守るような、慈愛の篭った眼差しだった。
「いいえ。ただ……貴方様は、意外と表情に感情が出る方なのですね」
「え?」
「『まるで別人だ』」
「!?」
「そう、お顔に書いてありましてよ」
思わず口を押さえた僕を見て、フローラ嬢は得意顔で言った。
鉄仮面と揶揄される僕の表情筋は、どうやら緩い部類だったらしい。帰ったら叔父に鍛えてもらおうと、項垂れつつ僕は誓った。
「歩きながら、少しお話をしても?」
年下の少女に出来の悪い弟を見るような目で見られ、格好付かない僕は、軽く肩を竦めてから頷く。
長い廊下を並んで歩きながら、話を続ける。といっても共通の話題は少ない。メーリヒ夫人や僕の母の健康面の話などだ。
「フローラ嬢は、フランメへどのような御用で?」
話が途切れかけたので、僕は当たり障りのない話題を振る。
「……それは」
しかしフローラ嬢は口籠り、俯く。
観光目的だと返ってくるとばかり思っていたのに、どうやら僕は読み違えたらしい。フローラ嬢の柳眉が哀しげに下がるのを見て、僕は己の失敗を悟った。
しかし取り返そうにも、一旦口に出してしまった言葉は元には戻せない。
どうするべきかと思案していると、フローラ嬢は取り繕ったような笑顔を浮かべた。
「……ゲオルク様は? ゲオルク様は、どのようなご用事があって、フランメへいらしたのです?」
質問を返す事で、フローラ嬢は気まずい空気を変えてくれた。
気遣いに感謝しながら、僕は正直に答える。
「あるものを探しに」
「捜し物ですか? それはご商売の……、不躾な質問をしてしまって、申し訳ありません」
フローラ嬢は問いを口に出そうとして、取り下げた。あるもの、と伏せた意図を理解してくれたらしい。
「いいえ。ただ、僕自身の捜し物ではないので、詳しくはお教え出来ません」
「別の方のために……フランメまで?」
驚きの表情を浮かべるフローラ嬢を見て、自分の行動の特殊さを改めて思い知った気がした。誰かへの好意や善意を理由にするには、フランメは遠すぎる。
他人のそんな行動を第三者の目線で見ていたとしたら、僕だって驚く。ご苦労なことだと、呆れただろう。
でも、しょうがないじゃないか。
なにか、して差し上げたいんだ。
「呆れましたか?」
苦笑を浮かべると、フローラ嬢は言葉に詰まった。僕の顔を見上げた彼女は、数秒躊躇ってから、頭を振る。
「とても大切にされている方のため、なんですね」
「!」
「お顔を見れば、分かります」
咄嗟に口元を手で覆う。
ジワジワと顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。自覚はあったものの、人に指摘されるのは、どうにも面映い。
数時間前に見たあの方の泣き顔を思い出せば、余計に気恥ずかしくなってくる。
ああ、そういえば、随分な醜態を晒してしまったんだった。気の利いた言葉一つ言えず、真っ赤な顔で吃るだけの情けない男を見て、あの方はどう思っただろう。忘れてくれればと思うが、そう都合よくはいかないだろうな。
「あまり見ないで下さい」
視線に堪えきれずに情けない声で呟けば、フローラ嬢は笑った。控え目に喉を鳴らしながら、楽しそうに。でも何故か、灰青の瞳は少しだけ寂しそうに見えた。
「……フローラ嬢?」
如何されましたか。そう続くはずだった僕の言葉は、大きな音によって阻まれた。ガラス製のなにかが、割れたような音だった。
僕とフローラ嬢は、同時に同じ方向を向く。
「確かあそこは、王女殿下が……」
「!」
廊下の突き当りにある角部屋の扉を凝視しながら、フローラ嬢が呟く。僕はその言葉を聞くと同時に走り出した。
ドアノブに手をかけて、勢いのまま乗り込もうとした僕は動きを止める。女性……しかも王女殿下がお休みになっている部屋に押し入るなど失礼過ぎるだろう。だがもし、緊急事態だったら。
躊躇したのは、数秒だった。
「失礼致します!!」
扉を大きく開け放つ。
想像していたような暴漢の姿は、室内の何処にもなかった。室内は整然としており、目につく異変といえば、窓際に置かれたウォールナットのチェストの下に散らばるガラスの破片くらいだ。
濡れたラグやガラス片に混ざる青い花から察するに、花瓶が落ちて割れたのだろう。揺れるカーテンに巻き込まれたのかもしれない。
安堵の息を吐き出しかけた僕は、ぐるりと部屋を見渡して、もう一つの異変に気付いた。どこにも、かの人の姿がないのだ。ソファーの上に載っているのは、薄手の毛布だけ。眠っている筈の彼女はいない。
「……マリー様?」
僕の呼びかけに、応える人はいない。
開け放たれた窓から流れ込む潮風が、カーテンを舞い上がらせるのを眺めながら、僕は呆然と立ち尽くしていた。
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