子爵令嬢の回顧。
一部内容を訂正致しましたm(_ _)m
※ビアンカ・フォン・ディーボルト視点です。
屋敷内は、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
治療を終えた怪我人も、看病した人も、殆どが気を失ったように眠っている。船員の何人かと、貴族のお坊ちゃんは、街の人間と話し合いをしているようだ。
私も疲れてはいたが、眠る気にはなれなかった。
顔を洗ってから、屋敷内を彷徨く。いつの間にか、とある部屋の前に立っていた。
「…………」
無言で扉を眺めていた私は、数度躊躇ってからノックする。
すぐに中から、控え目な声が返って来た。
ノブに手をかけるが、中々回せない。錆付きなどの物理的理由ではなく、私の心の弱さのせいだ。深呼吸をしてから力を込める。扉は軋んだ音をたてて開いた。
据え置かれたベッドには、つい数時間前まで生死の境を彷徨っていた男が眠っている。そしてその隣には付き添いの青年の姿。簡素な椅子に腰掛けた彼の膝には、分厚い本が乗っていた。おそらく、暇つぶしにと誰かが差し入れたものだろう。
顔をあげた青年は、とくに驚いた様子もなく、私を呼んだ。
「ビアンカ姉さん」
「少し、話をしてもいい?」
躊躇いがちに訊ねる。すると、私の弟――ミハイル・フォン・ディーボルトは、控え目な笑顔を浮かべて頷いた。
後ろ手に扉を閉めて、中へと入る。クラウスの眠っているベッドの足元、空いているスペースに腰掛けると、ミハイルは困ったように眉を下げた。
「姉さん」
今度は、諌めるような声で呼ばれた。それを手振りで制す。
「大丈夫。ちょっとやそっとじゃ起きないわよ」
枯渇寸前まで体力気力共に使い果たしたのだから、丸一日は起きないだろう。寧ろ目を覚ましたら驚きだ。
ミハイルも同意見だったのか、それ以上は突っ込まれなかった。
その大人びた顔に、複雑な気持ちになる。寂しいような、嬉しいような、なんとも言えない感覚だ。
昔は顔の半分を覆い隠していた前髪を後ろに流しただけで、かなり印象が変わる。目元の隈と一緒に、小動物めいた怯えた眼差しも消えた。青みがかった黒の瞳は、ただ穏やかな色を湛えている。
「随分、男前になったわね」
しみじみと呟くと、ミハイルは苦笑を浮かべた。
「そんな事ない。オレは大して変わってないよ」
その言葉に、私も苦笑いしそうになった。
変わったわよ。凄く、変わったわ。
自分の意見を、吃らずに言えるようになったじゃない。それに、目を合わせて話しているの、気付いていないの?
ミハイルは容姿だけでなく、内面までもが驚くべき変化を遂げた。
しかし、それを指摘するのは止める。困らせたくない気持ちが五割。残りは、自分の知らない間の変化を素直には認めたくないという、子供っぽい不満の現れだった。
「改めて。久しぶりね、ミハイル」
「うん。久しぶり、姉さん。中々会いに行けなくてごめんね」
「薄情な弟を持って、姉さんは哀しいわ」
わざと茶化して言うが、ミハイルは困り顔を浮かべた。
ミハイルは実家を飛び出してから、一度も帰って来た事はない。大神殿の神官見習いとなってから、ずっとだ。
魔導師として城に上がってからは、色んな制約が付くのは分かる。でも神官見習いの時には、申請さえ出せば一年に一度の里帰りは可能だったはずだ。それをしなかったのは、単純に、ミハイルが実家に帰りたくなかったという事。
仕方ないことだと、理解している。
実家はミハイルにとって、良い思い出のない場所だ。
魔力持ちの子供は、親に疎まれる事が多い。
私達の両親も例に漏れないが、そんなに単純な話ではなかった。
私の父には、愛人がいる。
それも火遊びではなく、少年時代からの恋人。身分さえ高ければ、正妻の座に納まっていたのは、母ではなく彼女の方だっただろう。
同じ敷地内に住む愛人は清らかな少女のような人で、父に愛されているだけでなく、使用人達にも慕われていた。
母の居場所は、ディーボルト家にはなかった。
母は、日に日に弱っていった。愛人を妬みながらも、元来の気弱な性格が災いして、内に溜め込む事しか出来なかったせいだろう。
味方は実家から連れてきた侍女数人だけ。半ば寝たきりのようになり、自分の部屋に閉じこもる生活。そんな彼女の転機は、妊娠だった。
愛人には息子が一人いる。正妻である母に中々子が出来なかった為に、養子として迎え入れられたが、それでも元は庶子だ。親戚知人の中には、愛人の息子が長男として迎え入れられる事に眉を顰める者も多かった。
あからさまに距離を置く者もおり、孤立しかかった父は焦った事だろう。
そんな折の、母の妊娠。
父は母を気にかけるようになった。
生まれたのは女である私だったが、父は母の元へ通うようになった。否、この言い方はおかしいか。正妻である母の元に、戻ってきたのだ。
そして翌年、ミハイルが生まれた。待望の嫡男の誕生に、父も使用人達も喜んだ。
おそらく、母が一番幸せだった時間だろう。
しかし、幸福は長くは続かなかった。
父を奪われて哀しみにくれた愛人が、心を病み始めた。元々愛していた女を見捨てる事が出来ず、父は愛人に付きっきりになってしまった。
かといって母も放置出来ずに、たまに現れてはご機嫌をとっていく。どっち付かずの父の姿は、幼心にも汚いものに思えた。私の男嫌いは、この辺りに起因しているのかもしれない。
私は父に代わり、母と弟を守ろうと決意した。
特に弟は、目の中に入れても痛くないほどに可愛がった。
母は寝込む事も多かったので、ミハイルの一番傍にいたのは私。
だから彼の持つ能力に、一番先に気付いたのは私だった。
確か、私が六歳になった年の春。
庭で遊んでいた私は、薔薇の棘で怪我をした。指から流れる血を見て、泣き出したのは私ではなくミハイルだった。
ミハイルは、私の手を両手で包み込んだ。舌っ足らずな声で、『痛いの痛いの飛んでけ』と繰り返す。必死な様子が可愛くて、嬉しくて。
治ったよと、私は笑ってみせるつもりだった。でも、出来なかった。
傷口がないのだ。
血の跡は残っているのに、その下の傷が、跡形もなく消えていた。
意味が分からなかった。別の指かとも思った。
しかし全ての指を見ても、怪我はない。
血が滴る程の傷が一瞬で消える。それが異常である事は、幼くても分かった。
ミハイルがやったのかと、私は聞いた。
試しに別の指を、もう一度棘で刺す。治してくれとミハイルに頼むと、彼は傷を消し去った。見間違いでも勘違いでもなかった。
私は不安そうな顔をしたミハイルを抱きしめて、笑顔でお礼を言った。それから、人前で力を使わないように約束させた。
それから数年、ミハイルの能力が発覚する事はなかった。
たまに顔を出す父と、母との間を、彼は必死に取り持とうとしていた。壊れかけた夫婦を繋ぎ止められるのは自分だけだと、知っていたからかもしれない。
ぎこちない会話を必死で膨らませ、ニコニコと笑顔を浮かべる。気弱でおとなしいミハイルにとっては、大変な事だっただろう。
そんな中、母が怪我をした。私と同じく、バラの棘で指を刺したのだ。
その後のミハイルの行動を、私は責められない。
彼はたぶん、笑って欲しかったんだ。
私が、ありがとうって笑ったみたいに、母が、父が、笑ってくれると思ったんだ。
しかし指を治したミハイルに向けられたのは、恐怖と嫌悪と、糾弾だった。
父はミハイルを化物と罵り、自分の子ではないと言った。
化物と交わって出来た子だろうと母を貶め、責めた。
母はミハイルに怯え、部屋から出てこなくなった。
泣き叫び、狂い、やがて母は衰弱死した。
残されたミハイルは、自分を責めた。
幼い子供が床に頭を擦り付けて、私に詫びたのだ。母を奪った事を、父を遠ざけた事を。
ミハイルのせいではない。優しい彼の、どこに罪があるというのだ。
ミハイルは、皆に笑って欲しかっただけ。ありがとうと言って欲しかっただけなのに。
でも私が何度ミハイルのせいではないと言っても、彼の心には響かなかった。
ミハイルは周囲の視線から隠れるように、前髪を伸ばし、背を丸めて歩くようになった。家から殆ど出ず、使用人とも口を利かない。会話するのは私だけだ。
父は世間体を気にして、ミハイルと私を屋敷から追い出す事はなかった。
だが一切近づこうとはせず、家庭教師もつけなかった。お陰で貴族としては風変わりな育ち方をしてしまったが、その辺りは気にしていない。
どうせ、そう遠くない内に、家は出るつもりだ。
結婚相手もいないことだし、修道女にでもなろうと思う。
私にすら相談せずに、ミハイルが家を出た時はショックだったけれど、結果的には良かったのだろう。
今、目の前にいるミハイルを見て、そう確信する。
「ねぇ、ミハイル」
「ん? どうしたの」
「後悔はしてない?」
何を、とは言わなかった。
でもきっと、問うた意味はキチンと伝わっている。
ミハイルは、クラウスを助けるために力を使った。
ずっと秘密にしてきた力。繋ぎ止めようとした両親の仲を壊した、トラウマともいうべき能力。
ソレを使うのは、きっと、とてつもない苦痛を伴った事だろう。
実の親に化物と呼ばれた傷は、たぶん癒えてはいない。
だというのに。
ミハイルは、ふと息を吐くように笑った。優しい目で、なんの気負いもなく、笑ったのだ。
「姉さんは、王女様と話した?」
ねえミハイル。
いつの間に、こんな風に笑えるようになったの?
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