護衛騎士の祈り。
※クラウス視点です。
ばしゃり、と返り血が頬を汚す。
拭う手の甲も血に塗れ、最早あまり意味をなさない。ぬるりとした感触と共に濃い血臭が漂うが、気にならない程度には鼻も馬鹿になりかけていた。
獣のように荒い自分の呼吸音と、鼓動が煩い。
腕が重く、頭もぼんやりとしてきた。だというのに瞳は、獲物を探るように自然と動く。
これでは本当に獣だと、自嘲めいた笑いが浮かんだ。
護衛に向いていない。そう言われたのは、実は初めてではない。
罵倒の一つとして言われた事もある。陰口として、という場合もあった。けれど、それだけではない。
気を許した、数少ない友に。尊敬出来る年長者に。
お前の戦い方では、敵を全滅させる事は出来ても、護衛対象は最後まで生き残れはしないだろうと。護るより殺す事に重点を置く人間に、誰が命を預けられるものか、と。
今思えば、オレの事を思ってくれたからこその苦言だった。しかし、それら全てをオレは聞き流した。
彼等の言葉を気にするようになったのは、ローゼマリー様の護衛となってからだ。
ローゼマリー様を護る事は、オレの中で職務以上の意味を持つ。向かないからと言って他人に譲るなど、とんでもない。
考えたオレは、ならば、ローゼマリー様を護る事だけに全神経を集中させようと思った。
片時も目を離さず、傍を離れず。あの方以外の全てのものから、目を逸らして。
そうしていれば、護れるのだと。愚かなオレは信じていた。
結果、オレに下された評価は、以前と全く変わらなかった。当然だ。
オレは、何も分かっちゃいなかった。
友や上司の心配も、ローゼマリー様の気持ちも、何も。
そして今も、分からない。
どうすれば、護れる? どうすれば、ローゼマリー様の護衛として胸を張れる?
どうすればあの方は、笑って下さる?
「っ、しんどいわー」
とん、と背がぶつかる。その小さな衝撃に、オレの意識は現実へと引き戻された。
「年かしら」
背中合わせで戦っていたヴォルフは、肩で息をしながら、喉の奥で笑う。
「そんな年齢じゃないだろう」
「少なくとも、アンタよりは年上よ。……たぶんね」
軽口を叩きながら、周囲を見渡す。
立っている人間のほとんどが、息も絶え絶えの状態だった。味方である船員の多くは、戦い慣れてはおらず、疲労の色が濃い。まともに動けているのは、オレとヴォルフ、それと外套を纏った男だけ。
敵側の海賊達も、かなり人数が減ってきた。士気もさほど高くはないように見える。
商船相手に、まさか苦戦を強いられるとは思ってもみなかったのだろう。
もうひと押しすれば、尻尾を巻いて逃げ出すだろうか。
そう考えながら、隣にある海賊船へと視線を向ける。そこでオレは、目を瞠った。
数人の海賊が、渡し板を海へと蹴落とし、船を離脱させようとしている。いくらガレー船とはいえ、数人の漕手ではまともに進みはしなかったが、それでもゆっくりと動き出していた。気付いた海賊の何人かは、慌てて飛び移ろうとして海へと落ちる。
その光景を眺め、ヴォルフの眉間に深いシワが刻まれた。
「帰るのは構わないけど、ちゃんと回収して欲しかったわー」
「大人しく投降すると思うか」
取り残された海賊へと視線を向けながら、問う。
ヴォルフは即座に否と首を横に振った。
「する訳ないわね。海賊は、捕まったら縛り首が基本だから」
オレも同意見だった。
案の定、海賊達は戦意喪失どころか、手負いの獣のようにギラついた目で周囲を睥睨している。
厄介だ、と胸中で呟く。
追い詰められた人間は何を仕出かすのか、想像がつかない。
捕まえるなんて、生温い事を考えるのは止めた方が賢明だろう。
目を眇めて見据える先、海賊の一人が動く。
男が向かった方向を理解し、オレは咄嗟に駆け出した。
行かせない。そっちには行かせてたまるか。
しかしオレが男に追い付くよりも先に、視界の隅で別の海賊が動く。怪我を負い、呻いている船員に手を伸ばす。
迷う余地なんて、ない。ない筈だった。
だが、オレの足は意志を無視して方向を変える。何をしているんだ、オレは。あの方以上に、優先すべきことなんてないのに。
自分自身の行動に戸惑いながら、船員の首を掴む海賊の手を、斬り落とす。
悲鳴をあげて転げ回る男に構わずに今度こそ、階下へ向かう海賊の背を追った。しかし、死に物狂いで抵抗を始めた別の海賊が立ち塞がる。
苛立ちに歯を噛み締めながら、斬り結ぶ。
自分の馬鹿さ加減に、吐き気がした。悩んで、迷って、欲張って全てを手に入れようとして、取りこぼすかもしれないなんて。しかも、世界で一番、大切な方を。
死んでも許されない愚行だ。
だが、それならどうすれば良かったと、頭の中で別の声が叫ぶ。
船員を見殺しにして、またあの方の命だけを護るのでは、同じことの繰り返しだろうと。
奥歯が砕けそうな程噛み締めたオレの脳裏に浮かぶのは、遥か先を歩く男の顔。
団長、貴方ならこんな葛藤はしないのか。いとも簡単に両方選び取ってみせるのか。
――オレの弱さが、あの方を危険に晒すのか。
「邪魔すんじゃねえよクソが!!」
咆哮と共に、目の前に立ち塞がっていた海賊が消えた。横から強烈な蹴りを食らった海賊は、船の縁にぶつかるほど吹っ飛んだ。
何が起こったと目を丸くしたオレの前に立つのは、肩で息をするヴォルフだった。さっきの凄みのある恫喝は、まさかこの男のものか。
「なにボサッと突っ立ってんのよ! さっさと助けに行きなさい!」
乱暴に、背を押された。
「私は戦うのが本職じゃないのよ。アンタみたいには、あの子を護ってあげられないわ。ここは食い止めるから早く行ってあげて!」
「っ、恩に着る!」
ヴォルフに背を向けて、駆け出す。
幅の狭い階段に苛立ちながらも下りた先に、海賊の背を見つけた。
まだ部屋には入っていないようだと安堵しかけたが、男を通り越した先に見えた小さな影に、息が止まりかけた。
全身の血が引く。心臓が痛いくらいに脈打って、全ての音が遠ざかる。
見間違いであってくれと願うのと同時に頭の隅で、ローゼマリー様を別の誰かと間違える訳がないと冷静な自分が告げた。
一歩、一歩。近付くにつれ、予想は確信へと変わる。真っ青な顔で震えながらも、誰かを庇うように立つ姿は、哀しいほどに美しい。
床板を蹴る自分の足が、もどかしい程に遅く感じる。
海賊が剣を振り上げる動作が、やけにゆっくりと網膜に焼き付く。
海賊の肩越し、こちらの存在に気付いたローゼマリー様と、目がかち合った。純粋な驚きの中に、安堵が混ざっていたような気がしたのはただの願望だろうか。
「目を閉じろっ!!」
叫ぶのと同時に、ローゼマリー様が目をきつく瞑る。その信頼に、オレがどれほど歓喜しているか、貴方は知らないだろう。
背後からぶつかるように、海賊の心臓を一突きにする。
肉を断つ感触と共に、短い悲鳴が海賊の口から洩れた。人が発したとは思えない、獣じみた声だった。ああ、しまった。耳も塞げと言えば良かった。まず抱いた感想といえば、それだった。
ああ、オレの大切なひと、唯一の方。団長のように上手く助けられなくて、ごめんなさい。
弛緩した体が、どしゃりと床へと崩れ落ちる。
遮るものがなくなった視界に、ローゼマリー様だけが映る。
顔色は、さっきよりも悪い。体は小刻みに震えている。あの悲鳴を聞けば、何が起こったかなんて見なくても分かるだろう。それでも、オレの言い付け通りに目を閉じたままのローゼマリー様に、胸が軋むような感覚を覚える。
少しでも安心させたくて、手を伸ばす。
でも、血塗れの自分の手に気づいて、途中で握り込んだ。触れたら駄目だ。汚してしまう。
「……ロ、」
ローゼマリー様、そう呼びかけようとした声は途中で途切れた。
ここで呼んではいけないと、理解したからじゃない。部屋から出てきたビアンカ・フォン・ディーボルトに気付いたからでもない。
「っひっ……!! いやぁあああああああっ!!」
響き渡る絶叫に、遮られたのだ。
ローゼマリー様に庇われていた女は、足元の死体に気付き、悲鳴を上げた。ビクリ、と跳ねたローゼマリー様は、慌てて女を振り返る。
しかしローゼマリー様が止める間もなく、女は駆け出す。度重なる恐怖に耐えきれなくなったのだろう。その場から逃げなくては、と本能が命ずるままに走り出したであろう彼女は、事もあろうに階段を駆け上がって行った。
待ってと、制止の声がかかる。しかし女の耳には届かない。
オレは舌打ちして、女を追った。
甲板に出たところで腕を掴み、下へと引き戻そうとする。しかし、女は錯乱して抵抗した。離せと、喚いて身を捩る。
このままでは、共に階段を転がり落ちる事になる。どうする、と悩んだオレの耳に、ヒュン、と乾いた音が届いた。
それから後のことは、よく覚えていない。
たぶん、反射のようなものだったのだろう。気がついたら、女に覆いかぶさるように動いていた。
ドス、という鈍い音と衝撃が背中に伝わる。
一拍、遅れてやってきたのは痛みというより抉るような熱さ。
「クラウスッ!!」
見開いた目に、駆け寄ってくるローゼマリー様の泣きそうな顔が映る。
兄さんと呼べ。そう訂正しなければいけない場面だというのに、オレの顔は場違いにも緩む。貴方に名前を呼んで貰えるのは、随分久しぶりな気がした。
「クラウスっ、クラウス……っ!!」
どうか泣かないで下さい。
オレは、貴方には笑って欲しいんだ。
たとえ、何があっても。
.




