転生王女の変事。(2)
「……ま」
遠く、誰かが呼ぶ声がする。
「……マリー様」
低い声と揺り起こす手が、私の意識を引き上げる。
眠気に引き摺られ、くっつきそうになる瞼をなんとか押し上げると、真剣な顔をしたクラウスがいた。
「……?」
目を擦りながら、身を起こす。
辺りはまだ暗く、空気は冷えて、湿り気を帯びていた。もしかしたら、霧が出ているのかもしれない。
「くら、」
クラウス、と呼ぶ前に彼の掌が私の口を覆う。
目を丸くする私の耳元に口を寄せ、お静かに、と潜めた声で囁いた。彼の表情の険しさと、声の真剣さに、私の眠気は一気に吹っ飛ぶ。
クラウスと視線を合わせ、無言のまま頷くと、彼は私の口から手を離した。
「先程、上で音がしました。確認して参りますので、ここでお待ちを」
なんの音なのかは分からない。でも、嫌な予感がする。
言葉に出来ない不安を抱えたまま、唇を噛み締める私を見て、クラウスはベッドサイドに跪く。下から見上げてくる彼は、私の両手を掬い上げ、何かを持たせた。
「っ……」
受け取ったものを視認して、私は息を詰める。
手の中でズシリとした重みを主張するのは、短剣だった。
「護身用にお持ち下さい」
一体、今、何が起こっているのか。クラウスは何を恐れていたのか。問うべきだと分かっているのに、声が喉の奥に貼り付いて出てこない。
差し迫っている危機の正体も分からないまま、私の本能が頭の中で警鐘を鳴り響かせている。
怖い。怖くて、たまらない。
小刻みに震えだした私の両手を、クラウスは包み込む。
翠の瞳が、至近距離で私を映した。
「マリー」
「……、クラ、ウス」
兄さん、と一瞬呼びそうになった。
だってクラウスが、兄の顔で笑うから。
「お前はオレが護る。だから、安心していい」
ぽんぽん、と大きな手が頭を撫でる。
突然、兄モードへとシフトチェンジしたクラウスに、私は目を丸くした。
「クラウス?」
「上を見てくるから、ここで大人しく待っていろ。もし怖かったら、ビアンカさんのところへ行っていればいい。おかしな女だが、お前の害にはならないだろうからな」
真面目くさった顔で、なんて事をいうのか。
唖然とした顔の私を見て、クラウスは優しく目を細めた。
「大丈夫だから。信じて待っててくれ」
「!」
クラウスの意図が、ようやく理解出来た。たぶん彼は、私の緊張を解してくれたんだ。
確かに効果はあった。驚きが、恐怖を僅かばかり遠ざけてくれたから。
ぎゅ、と短剣を握り直した私に、クラウスは満足そうに頷く。
「行ってくる」
踵を返した彼を見送り、私は扉に耳を押し当て、息を殺した。
「…………」
聞こえてくるのは、波の音と、木が軋む音。
それから煩いくらい早鐘を打つ心臓の音だけ。
短剣を握りしめた手に汗が滲む。たった数秒が、数分にも数時間にも感じられる緊張が続いた。
どれくらい、経っただろうか。
唐突に、何かがぶつかるような大きな音が鳴った。同時にグラリと、大きく船が揺れる。バランスを崩して、床に尻もちをついた。眼前で扉が開く。
冷たい空気が一気に室内へと流れ込み、何かを打ち鳴らす金属音が響く。次いでクラウスの大声が船内に木霊した。
「敵襲ーっ!!」
「!!」
何度も叫びは繰り返される。
やがて船内は騒然とし始め、あちこちで扉が開き、人が転がり出てきた。
「海賊か!?」
「おい起きろ!! 敵襲だ!!」
ガンガン、と扉を乱暴に叩く音が鳴る。荒い足音と共に、上半身裸の船員達が駆け抜けていく。
私は呆然としながら、彼等の言葉を頭の中で繰り返した。
海賊、敵襲。物騒な言葉は、実感を伴わずにただ言葉の羅列として処理される。脳みそは理解を拒んで、上手く働かない。けれど正直な体は、小刻みに震えていた。
「……っ、」
扉、閉めなきゃ。
キィ、と乾いた音をたてて揺れるドアを見つめて、足に力を込める。
しかし膝が笑って、立ち上がることすら儘ならない。
そうしている間にも、喧騒は大きくなった。
怒号、悲鳴、鋼がぶつかり合う音。恐ろしくて耳を塞ぎたいのに、さっきから体は全く言うことを聞かない。
床を這ってドアに手を伸ばす。
そして指先が届く、その直前。
大きな影が覆いかぶさり、私は乾いた悲鳴を洩らした。
「ひっ、」
「マリーちゃん! 無事ね!?」
抱き竦められた腕の中、私は目を大きく見開く。
覚えのある感触と匂い。良かった、と吐息と共に吐き出された囁きは、私の知る人の声で。
私は詰めていた息を、細く吐き出した。
「ビアンカ、さん……」
「ちょっと、感動の対面は後にして頂戴! 扉閉めるわよ!」
ビアンカ姐さんの後から部屋へと入ってきたヴォルフさんは、慌てて扉を締める。
「マリーちゃん、怪我はない?」
ビアンカ姐さんは、私の頬を両手で包み覗き込む。
辺りが暗いためか、指で辿って傷を確認するビアンカ姐さんに、私は焦りながら頷いた。
「だ、だいじょうぶ、です」
「そう、良かった。ところで、貴方のお兄さんは……」
「兄は、上に」
「は!?」
ビアンカ姐さんは、ぎょっと目を剥く。
しかしヴォルフさんは驚く様子も見せず、頷いた。
「ああ、アンタのお兄ちゃん、身のこなしからして只者じゃなかったものね。騎士団かなにかに所属しているんじゃない?」
そこまで分かってしまうものかと、私は驚きを隠せなかった。
「敵が一向に下りてこないのも、お兄ちゃんの頑張りのお陰かしら」
扉に耳を押し当て、外の様子を窺う姿勢のまま、彼は言う。
確かに、上では物騒な音が絶えず鳴り響いているが、階段を下りてくる様子がない。クラウスが戦ってくれている事は明白だが、どの位の戦力差があるのだろうか。
押されてはいないか。一人で無茶をしていないか。
そう考えるだけで、心臓と胃が重い痛みを訴える。護られているだけの自分が歯痒いが、出ていったところで足手まといなだけだ。寧ろ、クラウスを余計に危険に晒してしまうだろう。
唇を噛み締めた私を、ヴォルフさんは興味深そうに眺める。
「……心配?」
「……当たり前です」
なぜ、そんな当然のことを聞くのか。
眉根を顰めて彼を見上げると、温度のない目とかち合う。まるで心の奥底を見透かそうとするような瞳に晒され、体が跳ねる。
訳が分からず混乱している私を放置し、彼は扉へと手をかける。
一瞬、間をあけて、階段を何かが転がり落ちてくる派手な音がした。次いで、聞こえてきたのは呻き声。
怪我人が出たのだと、察した私は青褪める。
しかし一歩踏み出した私は、ビアンカ姐さんに抱き止められた。敵かもしれないわ、と潜めた声で彼女は囁く。
慌てて口を両手で塞いだ私を見てから、ヴォルフさんは扉に耳を押し当てた。暫しの時間をあけ、彼は扉をそっと開ける。
私達を部屋に残し、ヴォルフさんは廊下へと出る。
戻ってきた彼の肩に担がれているのは、見覚えのある人だった。
「クルトさんっ!」
クルトさんは、厨房担当の船員で、私にもよくしてくれた人だ。普段、人懐こい笑顔を浮かべる彼の顔は青褪め、苦痛に歪んでいる。
まさか斬られたのだろうかと全身を見渡した私は、彼が押さえている左腕が、おかしな方向へと曲がっている事に気付いた。
「骨が折れてるわね」
冷静なヴォルフさんの言葉が、遠く感じる。
「なにか当てる物……マリー、アンタ、処置は出来る?」
「……、」
「……マリー!」
「えっ、」
呆けている私を、ヴォルフさんが叱咤するように呼ぶ。震えて動けない私を見て、彼は溜息を吐き出した。
「……もういいわ。動けないなら、せめて邪魔にならないように、横にどいていなさい」
「!」
「そっちの姐さんは、怖がるような玉じゃないわね? 手伝って」
「分かったわ」
失望された。言われずとも分かった。
でもその時の私は、それを哀しいとか悔しいとか、思う余裕もなくて。なにもしなくていいと言われた事に、一瞬、安堵さえした。
そして、そのすぐ後に、己への嫌悪感が込み上げてきた。
クラウスが、戦っているのに。船員さんが、戦っているのに。
ヴォルフさんが、ビアンカ姐さんが、皆が頑張っているというのに。
たった一人、恐怖にふるえて隅っこに蹲っているつもりか。
そんな事をするために、私は旅に出たの?
「っ、ぐ……っ」
クルトさんが、苦しげに呻く。
額には、痛みのためか汗が浮かんでいた。拭おうと伸ばした手は、途中でクルトさんに掴まれる。
縋るような、力だった。
「……っ」
自分の不甲斐なさに、涙が滲んだ。
しっかりしろ、ローゼマリー。
アンタは何の為に、立ち上がった。歩き出した。何がしたくて、平穏が約束されている城を飛び出した?
目の前に、苦しんでいる人がいるのに。
助けを求めている人がいるというのに。
それを無視して蹲っているような女に、世界なんか救える筈ないだろう!
クルトさんの手を外し、己の両頬に手をあてる。一呼吸置いて、勢い良く振り上げた。
パァン、と大きな音が部屋に鳴り響く。
「えっ!?」
「ちょ、……」
思いっきり張った両頬が、熱を主張し始める。
涙でぼやけた視界とは裏腹に、頭はすっきりと冴え渡った。ぐい、と手の甲で目元を拭い、立ち上がる。
「処置を手伝います」
「アンタ……」
唖然としているヴォルフさんの返事も待たず、私はシーツへと手を伸ばす。ナイフで引き裂いていると、彼は私を呼んだ。
「処置は、出来る?」
さっきと同じ言葉だ。
今度こそ私は、しっかりと頷いた。
「実践ははじめてですが、知識ならあります」
「そう。なら任せたわ」
ヴォルフさんは、添え木代わりに使えと、自分のナイフの鞘を私に投げ渡した。
焦りながらキャッチする。
「え、でも」
「アンタは出来ないことを請け負う子じゃないわ。出来るって言ったんだから、出来るわね」
それは問いではなかった。
鋭い瞳で見据えられ、息が詰まりそうになる。が、堪えてゴクリと嚥下した。
「はい」
甘えは、もう捨てよう。
今出来ることを全力でやらなければ、私は絶対に後悔する。
硬い表情で肯定した私に、ヴォルフさんは今日初めての笑顔を見せた。
「宜しい。……なら、アンタのお兄ちゃんの援護は私に任せなさい」
「……え?」
意味が分からず問い返すが、その頃にはもうヴォルフさんは、扉に手をかけている。
「ヴォルフさんっ!?」
「良い子で待ってなさいよ」
肩越しに振り返って投げキッスを寄越したヴォルフさんは、そのまま階段を駆け上がっていった。
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