第一王子の憂慮。
※第一王子、クリストフ視点です。
鏡に向かい、クラヴァットの位置を直す。
髪や服の乱れがないか確認し終えたあと、己の顔を眺めて溜息を零した。
青白い顔色や目付きの悪さは元からだが、薄っすらと出来た隈のせいで、いつにも増して不健康そうに見える。
不調が顔に出るようでは、為政者など勤まらない。精進しろと冷めた目で吐き捨てる父の幻が脳裏にちらつき、気分は更に悪くなった。
鏡から目を逸らし、窓の外へと視線を移す。
雲一つない青空に、眩いばかりの朝陽が輝いている。風も穏やかで、きっと海も凪いでいるだろう。そう胸中で呟けば、昨夜、この部屋を訪れた妹の顔が思い浮かんだ。
久しぶりに会ったローゼは背が伸びて、少し大人びたように思う。しかし私にとっては、まだまだ小さな可愛い妹。
その妹が遠い国へと旅立つ。しかも、彼女自身は身を守る術を持たないというのに、供はたった一人だけ。私の方が不安で、おかしくなりそうだった。
どこにも行くな。私の手の届くところに居て欲しいと、何度言いかけたことか。
しかし、そんな事は言えない。言えるはずもなかった。
明朝、出立します。そう告げたローゼの目に、不安はあれど迷いはなかった。それなのに、私が邪魔をしてどうする。
彼女の成長を妨げるのは本意ではない。
私がすべきは、過保護に囲い込む事ではなく、物分りの良い兄の顔で、行って来いと送り出す事だけだった。
その結果、悪い想像ばかりが頭を占め、一睡も出来ずに隈を作るという体たらく。
自分が情けなくて、溜息も出るというものだ。
「……さて」
目を伏せ、一度だけ頭を振る。
いつまでも、感傷に浸っている時間はない。気持ちを切り替え、仕事を始めよう。
自室に持ち帰っていた書類を取りに、テーブルへと近付く。
伸ばしかけて、ふと手を止める。一拍間をあけた後、横に置いてある本を取った。開くと、間に紙が挟まれている。
昨日、妹が訪ねて来た時に、咄嗟に挟んだままだった。
四つ折りになった紙を開く。
丁寧な文字で書き綴られているソレは、弟から届いた手紙。隣国に留学してからは、定期的に来る。但しローゼ宛に届く、季節の挨拶を織り交ぜた私信とは違い、完全に報告書だが。
いつもは一月に一度。だが、今回は前回とさして間を置かずに届いた。つまり、早急に知らせたい事があったという事だ。
内容は、ヴィントにラプターの第一王女が来るというもの。
名目は留学。しかし、本当の目的はヴィントの第一王子だろう。手を替え品を替え、ヴィントへの接触を図ってきたラプターだが、とうとう自国の王女を送り込んできたようだ。
国同士の繋がりを作るには、婚姻は単純だが有益な手といえる。
ヴィントがどう動くかは、まだ分からない。
だが動きがあってからでは遅いのだ。我が国とヴィントが同盟関係にあるとはいえ、不安の芽は摘んでおかねばなるまい。
国王は、何らかの手を講じる。
そしてその一つに、おそらくローゼとヴィントの王子の婚姻も入るだろう。今はまだ可能性の域を出ないが、決まってしまえばローゼに拒否権はない。
私が守る事も出来るが、それでは駄目だ。
あの子の未来を潰す事になる上に、根本的な解決にはならない。状況を変えたいのならば、ローゼ自身が動かなくては。
幼い王女に、酷な話だと思う。
だが生半可な覚悟では、父の意志を変える事など不可能だ。
隣国との繋ぎだけのために、手放してしまうのは惜しい。そう国王に思わせるだけの、実績と可能性を示す事が出来れば――。
コンコン
扉が二度鳴り、私は我に返る。
手紙を本に挟み、棚へと戻す。そして当初の目的であった書類を掴み、ドアへと向かった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
外で待っていたレオンハルトに挨拶した私は、彼の顔を見て、軽く目を瞠る。
さっき鏡で見た自分の顔にあったものと同じものを、レオンハルトの目元にも見つけたからだ。
レオンハルトの切れ長な目の下に隈が出来ている。といっても、良く見なければ分からない極薄いものだが。
軟弱な私と違い、レオンハルトが一日、二日の睡眠不足で隈を作るとは思えない。
「レオンハルト」
「はい」
「忙しいのか?」
己の目元を人差し指で撫でてから、レオンハルトに問う。私が言いたい事を理解したらしい彼は、苦笑を浮かべた。
「お恥ずかしながら、私事で仕事を溜めてしまいまして」
その言葉に私は再度、目を見開く。
レオンハルトが、私用を優先して仕事を後回しにするなど有り得ない。
確かに近衛騎士団長という要職にあるのだから、仕事は山のようにあるだろう。しかし、それを涼しい顔で片付けてしまうのが彼だ。
何か予定外の事でもなければ。そこまで考えて思い至る。
今日が、何の日か。
「……無事、旅立ったか?」
「…………はい」
暫しの無言の後、レオンハルトは頷く。
泰然たる態度を崩さない常とは違い、悪戯が見つかってしまった子供の如く、きまり悪そうな顔で。
どうやら私の予想は、当たっているらしい。
レオンハルトが仕事を徹夜で片付けてでも、優先したかった私事。
それが、あの子の……ローゼの見送りだとするならば、彼女にとっては、これ以上ない餞と言えよう。
良かったな、ローゼ。
今は海の上にいる妹の顔を思い浮かべ、胸中で呟く。
これからの彼女の旅路を思えば不安は尽きないが、笑顔で旅立ったのだろうと思うだけで、少しは気持ちが楽になった。
どうか一日も早く、無事、私の元へ帰って来るように。
不甲斐ない兄は、ずっと願っているよ。




