転生王女の依頼。
バサリ、と乾いた音をたててテーブルの上に地図が広げられた。
白い手袋を嵌めたレオンハルト様の手が、折り目を均すように紙の上を滑る。
温室に隣接された休憩室に、今いるのは私とレオンハルト様の二人だけ。
魔導師二人は鍛錬中。護衛であるクラウスには、資料を集めて来て欲しいとお使いを頼んである。
最近はレオンハルト様に護衛をお願いする事も多いが、クラウスが一々突っかかる事もなくなった。
説得の成果だ。放置プレイに快感を見出しているのではないと信じたい。
「姫君」
促すような視線を受け、私は地図を覗き込む。
大陸全土が載っている地図ではなく、ネーベル国……しかも東側半分のみを拡大した地図だ。
今回の話し合いで必要なのは、ラプターとネーベルの国境付近のみ。
ラプターと隣接する北東部分へと私は視線を向ける。しかし、その瞬間、何故か視界は黒く塗り潰された。
「!」
驚いたのは、ほんの一瞬。
すぐに私と地図とを隔てる影の正体に気付き、私は溜息を吐き出した。黒い固まりに手を伸ばすと、上質なベルベットのような感触が指先に伝わる。
「ネーロ」
低い声で、影もとい私の愛猫を呼ぶ。
しかしネロは全く動じず、呑気な鳴き声で返事をしながら私を振り返る。見上げてくるサファイアの瞳は、好奇心に輝いていた。
怪我が完全に治って自由に動き回れるようになったネロは、毎日のように私の後ろを付いて回る。元々、好奇心旺盛な性質なのだろう。初めて行く場所でも全く怯える様子もなく、楽しそうに探索している。
『犬は人に付き猫は家に付く』って言葉があるが、うちの子には当て嵌まらないらしい。もしかしたら、城を大きな家だって認識してる可能性もあるけど。それはそれで凄い。
「テーブルの上に乗っては駄目よ」
テーブルから下ろそうと手を伸ばすと、ネロはスルリと避けた。そのままレオンハルト様の方へと逃げていくネロに、私は焦る。
「ネロ!」
飼い主の焦燥も知らず、ネロはレオンハルト様の手に擦り寄る。驚いたのか、数度瞬いたレオンハルト様は柔らかく目を細め、ネロの顎の下を指先で撫でた。
「人懐っこいですね」
ゴロゴロと機嫌良さげに喉を鳴らすネロに、レオンハルト様は慈愛の眼差しを向ける。なんとも眼福な光景だ。
思わずウットリと見惚れていると、ネロは何を思ったのか、レオンハルト様の肩へと上り始めた。
「おっと」
「ちょ、ネロ!?」
某キツネリスのように、軽やかな足取りで腕から肩へと到達するネロに私は慌てた。
いくら人懐っこいとはいえ、懐きすぎじゃない? そんなとこまで飼い主に似なくてもいいんだよ??
「ごめんなさい、レオン様っ」
「いえ、大丈夫ですよ。小動物には怯えられる事も多いので、寧ろ嬉しいです」
黒いマフラーのように首に巻きつき、すっかり寛いだ体勢のネロの頭を、レオンハルト様は優しく撫でた。
ネロが飽きるまで、このままお預かりしましょうと笑うが、あの懐きっぷりを見る限り、そう簡単に飽きるとも思えない。まさかの愛猫がライバルです。まあオスだけどね。
「では、話の続きに戻りましょう」
ネロを肩に乗せたまま、レオンハルト様は地図を覗き込む。私も同様に、地図へと視線を落とした。
今回の話し合いの議題は、もちろん魔王。
封印されている神殿を探す事を目的としている。
「目標の神殿があるのは、この辺りというお話でしたよね」
そう言ってレオンハルト様の指先が、ラプターとの国境付近で、グルリと大きな円を描く。
「はい。辺境の村の傍にあるはずです」
一口に国境付近と言っても、範囲は広い。
条件に合う村……村外れに朽ちかけた神殿のある場所を探すにも、簡単にはいかない。
国境付近に点在する村を全て調べるには、かなりの時間を必要とする。しかし、薬の捜索も放置する訳にはいかない。
「幾つか候補を絞り出すにしても、ある程度までは誰かの手を借りざるを得ません」
「そうですね」
同意は示したものの、誰かの手を借りるにしても、心当たりなんてない。
しかし行き詰まり悩む私とは違い、レオンハルト様は解決法を用意していた。
「実は、北東の砦を拠点とする国境警備隊の隊長は、オレの古い友人です」
この辺りですね、と地図の右上を指差す。
「行軍演習のついでに調べて貰おうと思うのですが、如何ですか」
「それは……有り難いですが、良いのですか? お仕事の邪魔にはならないでしょうか?」
「ご心配には及びません。あくまで、演習や警備のついでです。……それに、少々気になる事もございますので」
「……?」
気になる事とは何だろう。
視線で問うが、レオンハルト様は答えて下さらなかった。まあ、言わないって事は、今言うべきではない事なんだろう。
必要なら、時期が来ればきっと教えてくれる。そう信じて、それ以上の言及はしなかった。
「では、お願い致します」
深く頭を下げると、レオンハルト様はしっかりと頷いてくれた。
「次に、薬の件ですが……」
レオンハルト様は、そこで言葉を区切る。
漆黒の双眸は気遣わしげな光を浮かべ、私を映した。
薬の捜索に関わるなと拒絶されて落ち込んでいた私を、彼は知っている。帰り道の馬車の中、ずっと黙りこんでいたし。たぶん心配させてしまったのだろうな。
「……ゲオルク様とミハイルは、出立したそうですね」
途切れた言葉の先を引き継ぐ。
薬の捜索のため、二人はフランメ王国へ向かった。
魔導師の見習いであるミハイルには行動制限があるだろうと思っていたが、テオやルッツと違い、ある程度の自由が利く。
攻撃魔法が一切使えないミハイルは、脅威とはみなされないようだ。ローブの色が白と黒とで違うのは、その辺りの色分けも含んでいるらしい。
「置いて行かれてしまいました」
笑いながら茶化すように言うが、レオンハルト様の表情は晴れない。
「姫君……」
「あ、拗ねているんじゃないんです。あと、諦めたわけでもないですよ」
「え?」
沈痛な声で呼ばれ、私は慌てて頭を振る。
否定した私に、レオンハルト様は目を軽く瞠った。
「確かに拒絶されて落ち込んだりもしましたけど。よく考えたら、今更なんですよね」
「今更、ですか?」
「はい。今更です」
戸惑うレオンハルト様の言葉に、私は頷く。
「私が王女である限り、危険から遠ざけられるのは当たり前の事なんです。諦めてしまったら、そこで終わり。譲れないと思うなら、自分から動かなきゃ何も始まらないって、やっと分かりました」
蚊帳の外に置かれたから、何だって言うんだ。
誰かが手を引いてくれるのを待っているんじゃなくて、入りたければ、自分から入っていけばいい話。拒絶される度に立ち止まっていたら、何処にも行けない。
未来を変えたいと願った。
レオンハルト様を諦めないと誓った。
なら、私は強くならなくちゃいけない。
何があっても、前に進めるくらい強く。
「諦めたくないんです。……手伝って、頂けますか?」
緊張に早鐘を打つ胸を押さえながら、レオンハルト様を見上げる。すると彼は、優しく目を細めて微笑んだ。
成長した子供を見るような視線は若干不服ではあるが、温かな笑顔を向けられて嬉しくないはずがない。
「勿論です。その為の協力者ですから、何でも仰って下さらなければ困りますよ」
力強い言葉を貰い、私はほっと安堵の息を零した。
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