転生王女の交渉。
結局、その日はユリウス様達との予定をキャンセルした。泣いたと一目で分かる、充血した目と腫れた目元では、何処にも行けない。
レオンハルト様が、どこぞから調達して来てくれた濡れた布で目元を冷やしながら、大人しく城へと帰った。
そして、その日の夜。
「……これは驚いた」
豪奢なソファーに身を沈めた男は、書類を捲る手を止めて呟いた。人形めいた端正な顔は、言葉とは裏腹に少しも驚いた様子もなく、いつも通りの無表情のまま。
私の頭のてっぺんから爪先まで眺めた後、再び視線は手元の書類へと戻っていった。
「しばらくは私を避けると思っていたが、予想が外れたな」
ぱらり。紙の擦れる乾いた音とともに、男の視線は文字を追う。
仕事中だと言外に示されている気がするが、気にしない。気にしてはいけない。
空気を読むスキルが重要視される国で前世を過ごした身としては、出なおしてきまーすと踵を返して帰りたいところだが、ここで帰っては時間が無為に過ぎるだけ。
私に残された時間には、限りがある。ほんの数分、時間を割いてもらうだけだと己に言い聞かせて、背筋を伸ばした。
「父様にお願いがあって参りました」
告げた瞬間、書類を捲る父様の指先が止まった。
「――お願い?」
冷えた声が、私の言葉を繰り返す。
表情を変えぬままに、纏う空気だけを一変させた父様に、私の背筋までも凍り付きそうだ。率直に言って怖い。
「お前が、私に『お願い』があると?」
何の成果もあげていない小娘が、図々しくも何かを強請るつもりか、と。恐ろしい副音声が聞こえた。
被害妄想ではなく、結構な精度で父様の心情を読めている気がする。
超逃げたい。逃げたいけれど、逃げる訳にはいかない。
今逃げたところで何の解決にもならないし、もう一回、最初から同じ遣り取りを繰り返すなんて御免だ。
引き攣りそうになる表情筋を叱咤し、私は微笑みを浮かべた。
「はい」
「…………」
厚顔にも頷いた私を、父様はじっと見つめる。
薄いブルーの瞳に見据えられ、怯みそうになるが、視線は外さない。無言で十数秒睨み合った後、父様は目を伏せ、ため息を吐き出した。
無造作に投げられた書類が、大理石のテーブルを滑る。向かいの席をさす指が、座れと示していると気付くのに、数秒要した。
シャンパンゴールド色の猫脚ソファーは、座り心地も抜群だ。自分の部屋のものと違い、柔らか過ぎない感触を堪能しつつ、早速本題を口にした。
「先日、父様は鳥を下さると仰いました」
「ああ、言った」
「その鳥をお返しする代わりに、私がある程度自由に出歩けるよう、取り計らって頂きたいのです」
私の言葉に、父様は片眉を跳ね上げる。
「受け取ってもいないものを、取引材料にするとはな」
「っ……」
私は言葉に詰まった。
確かに鳥は未だ、私の手元には来ていない。でも取引に使えるような手持ちの札がないんだから、しょうがないじゃないか。
「見る前から手放して、後悔はしないか」
父様の問いに、私は神妙な顔で頷いた。
正直、鳥を貰っても困る。実物の鳥を飼うには、私の部屋にはネロがいるし。比喩であったとしても、未熟な私の手には、きっと余る。
父様の目として世界を飛び回っていた鳥を、私如きが御する事が出来るとは思えない。
どんなに羽根の美しい鳥でも、どんなに優秀な密偵であっても、私では生かしてあげられない。価値の分からない人間の手に渡るより、父様の元にいた方が幸せだろう。
「父様が『役に立つ』と評価する鳥です。今の私の手に負えるとは思えません」
正直な気持ちを率直に伝えると、父様の目が軽く瞠られた。
肘掛に頬杖をついた父様は、長い足を組む。気怠げな仕草さえも絵になるが、見惚れるような心の余裕はない。
値踏みするような視線を向けられ、居住まいを正した。
「そうか」
父様の返答は、たった一言だった。
それだけ? と心の内で呟き、私は呆気にとられる。怖気づいたのかと侮蔑の目を向けられる覚悟をしていただけに、拍子抜けだ。
「……失望しないのですか?」
「失望とは、期待があって初めて成立する」
「左様ですか!」
拳を握りしめて耐える。
「冗談だ」
真顔で淡々と言う父様に、殺意が湧く。
全く面白くないと真顔で返したい欲求を抑えるのに、とっても苦労した。
「上に立つ者は、身に余る大きな力を、御す覚悟を必要とされる時もある。だが無謀と勇猛は別だ。身の丈を知り、回り道をする者が哂われる道理はなかろう」
小難しい言い方をしているが、ようは『好きにしろ』って事でいいのだろうか。
制限時間は勝手に定められたが、目標を達成する手段や過程は、私の好きにしていいのだろう。
育てているのか、試しているのか。父様の考えは分からないが、呑み込む事にした。
「それで、鳥を戻したとして、だ。お前が自由に出歩ける事に、何か利点があるのか」
相変わらず父様の言葉は切れ味が鋭い。ザックリと胸を抉られつつも、慣れてきた自分が怖いな。
確かに私は役立たずだ。
自分で動くよりも、誰かを頼った方が得策だろう。それこそ、さっき手放したばかりの『鳥』とかを。
でも、自分は全く動かずに誰かに任せきりで、本当にいいのか。
頼るのと丸投げするのでは、全く違うだろう。
「私は父様と違って、伝聞だけで何かを判断する事は出来ません」
私は未熟だ。故に、直接見聞きしたものでなければ、実感が薄い。答えに辿り着くにも、時間がかかる。
未来に起こると分かっていた魔導師誘拐事件でさえ、あのザマだ。
私は、城の中に閉じ籠って、他人への指示だけで何かを為せるほど、器用に出来てはいない。
「自分の足で歩き出さなければ、何も決められない。……私に足りなかったのは、たぶん覚悟なんです」
父様に言われずとも、進むべき道は決まっていたはずだ。阻止したい未来があって、そのためには努力を惜しむつもりはない。
それなのに、成し遂げるべき目標の大きさに眩暈を覚えた。進む道の険しさに、今更になって足が竦んだ。
誰かに押し付けようなんて、思ってなかったつもりだった。
でもきっと、甘えはあったんだ。
ルッツとテオの誘拐事件の時のように、私が失敗しても、誰かが何とかしてくれるって、心の隅っこで思っていた。他人任せの無責任な気持ちが、僅かでも残っていた。
父様が私に出した課題は、親としての思い遣りによるものではないだろう。出来無かったらそれまでだと、見捨てられるだろうし、愛情故の厳しさだと自惚れてもいない。
でも、一つだけ感謝する。自分でも気付かなかった私の狡さを、まざまざと見せつけてくれてありがとう。
我が身に火の粉が降りかからなかったら、私は、中途半端な努力しかしなかったかもしれない。
その結果、失敗して、多くの人の命が失われる事態となっても、やれるだけはやったんだなんて、どの面下げて言える?
世界が滅びる未来に怯えながら、今度は神子姫に縋るの?
そんなの――絶対に御免だ。
「その結果、何があっても自己責任だ、と言ってもか?」
「はい」
表情を引き締めて、頷いた。
正直な手と声が、震えているけれど、そこは見逃して欲しい。
だって、これから何が起こるか分からない。病に罹るかもしれないし、死ぬかもしれない。今まで安全な城の中で護られてきた小娘に、そんな覚悟がある訳ない。
でも自己責任だというなら、私の行動の責任を、誰かが負わされる事はなくなるんだろうか。それなら、まだマシだ。
「お前は、予想外な行動ばかりとるな」
父様は、ため息を一つ零す。
呆れを隠しもしない表情を見ていると、思わず苦笑が洩れた。
「幸せになるために、頑張ると決めたんです」
「……そうか」
そう短く呟いた声は、意外なほどに柔らかかった。
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