転生王女の懇願。(3)
「…………」
沈黙が落ちた。
レオンハルト様からの言葉はない。馬車内に響くのは車輪の音だけ。でも決してその静寂は、重苦しいものではなかった。
私を見つめていたレオンハルト様は、ふ、と小さく息を吐き出す。太陽を眺める人のように目を細めてから、彼は表情を和らげた。
「……貴方は、強いな」
吐息のように零された言葉に、私は首を傾げる。
彼の言いたい事が、分からなかった。
貴方に振られるかもしれないと思うだけで、涙が止められなくなるような子供の、一体どこが強いと言うのか。
困惑している私に気付き、レオンハルト様は微笑む。
肩の力を抜いた彼の笑顔は、とても優しくて。見惚れた私は、息を詰める。同時に、目尻に溜まっていた最後の涙が零れ落ちた。
輪郭を辿って落ちるそれを指で掬い上げたレオンハルト様は、馬車の床から膝を浮かせ、座席へと戻った。
レオンハルト様は、どっかりと座席に深く腰掛ける。普段の洗練された騎士の動きではなく、乱雑な動作に何故か胸が高鳴る。
たぶん私は、男らしい人が好きなんだろうなと、見当違いな方向に思考が向いた。
大きく開いた膝の間、両手を組み合わせたレオンハルト様は、前傾した姿勢をとる。笑みを消した彼の、漆黒の双眸が私を映した。
「姫君」
改まった声で呼びかけられて、ビクリと体が跳ねる。
既に好きな人がいる、とかだったらどうしよう。警戒する私を安心させるように、レオンハルト様は穏やかなトーンで話し出した。
「オレの話を聞いて頂けますか?」
「……レオン様の?」
「はい」
戸惑い気味の問いかけに、レオンハルト様は頷いた。
形の良い唇がゆるく弧を描き、凛々しい眉が下降線を描く。彼は雄々しい美貌に、苦笑を浮かべた。
「正直、こんな話を貴方にするつもりは、全くなかった。王女殿下の耳に入れるに相応しい話ではありませんし、何より恰好がつかない。おそらく貴方はオレに失望するでしょう」
自嘲気味に笑う彼の言葉を、否定したかった。
でも私は、レオンハルト様の事を何も知らない。話を聞く前から否定したって、説得力はないだろう。それに、そんなの見ない振りをしているみたいで嫌だ。
だから私は、無言で言葉の続きを待った。
「でもオレは、貴方には誠実でありたい」
「……!!」
心臓が、止まるかと思った。
唐突に寄越された言葉に、私は硬直する。
なんか凄い事を、言われた気がする。
じわじわと熱が顔に集まる。羞恥とともに押し寄せる歓喜に、叫びながら駆けだしたい気分になる。
心臓は止まるどころか、バクバクと元気に早鐘を打ち、煩いくらいだ。
しかしレオンハルト様は、特別な事を言った意識はないようで、涼しい顔のまま、挙動不審な私を不思議そうに眺めている。
一人で盛り上がっていて、恥ずかしい事この上ない。でも顔がにやけるのを止められなかった。
私には誠実でありたいと、言ってくれた。
適当にあしらってしまえばいいのに、彼自身も乗り気ではない話を、わざわざ引っ張り出してくれた。
内側に踏み込む許可を貰えたような気がして、どうしようもなく嬉しい。
「嬉しいです、レオン様」
正直な気持ちを吐露して、それから私は表情を引き締める。
「お話、聞かせて頂けますか?」
レオンハルト様は、私の言葉に頷いた。
「貴方もご存じの通り、オレはこの年で独身です。ですが、それは別に確固たる信念があっての事ではありません」
「……そう、なのですか?」
彼の言葉に、私は目を丸くした。
数度、パチパチと瞬いたあと問い返す。
早速、予想外の言葉が来た。
レオンハルト様が独身なのは、私的には物凄く幸運な事なんだけど、不自然だと思わなかった訳ではない。
雄々しい美貌に、均整のとれた体躯。ネーベル国一と謳われる剣の才を持ち、近衛騎士団長という要職に就いている。
性格も良く、部下からの信頼も厚い。
名前の『フォン』が示すように、実家は貴族。由緒正しいオルセイン伯爵家の血筋である。
こんな超優良物件が、売れ残りとかない。絶対ない。
事実、彼を狙う貴族のお嬢様方は山のようにいる。それでもレオンハルト様が独身を貫いているのは、何か信念があるんだろうな、と漠然と思っていた。
いつ命を落とすか分からない役職上、悲しむ人をつくりたくないとか。
守るべき対象を増やすのは好ましくないとか。
「オレは品行方正な男ではありません。若い頃は、割と碌でもない男でしたよ」
レオンハルト様は苦笑を深め、バツが悪そうに指で頬をかいた。
幼い私に配慮してか、少しぼかした言い方だが、ぶっちゃけ『遊んでいた』という事でいいんだろうか。
成人前の少女としては、ショックを受けるべきところだろうが、大した衝撃は受けなかった。
彼に夢を見ていたのは否定しないが、神聖視していた訳じゃない。
ああ、格好良いから女性が放っておかないだろうしね、という何とも緩い感想しか浮かばなかった。
過去は過去。私が好きなのは、ヤンチャしていた時代の彼ではない。その時代を経て、落ち着きを得た今のレオンハルト様だ。
「そうなんですか」
薄い反応の私に、レオンハルト様は軽く目を瞠った。
年頃の……しかも彼に恋する乙女として、反応を間違ったかもしれない。でも中身、二十歳超えだし。
貴方がそんな事する筈ない! なんて鼻息荒く否定するような純情さ、持ってないんです。
レオンハルト様は、無言で私を興味深そうに眺めていたが、すぐに話の続きへと戻った。ぼかした部分が伝わらなかったと、判断したのかもしれない。……そうであって欲しい。
「少し落ち着いた頃に、婚約者がいた事もあります。清楚で気品のある、オレには勿体ないくらいの出来た女性でした」
あ、やっぱり前言撤回する。
過去の話であっても、結構辛い。
漠然とした話では実感出来なかったけれど、彼と結婚するかもしれなかった女性の情報を、細かく知ってしまえば、心は波立つ。
「控え目で、従順で、不満なんて一度も口にした事がなかった。自惚れでなければ、オレを好いてくれていたと思います。……だがオレは、その想いに応えてやる事が出来ませんでした」
「……え?」
レオンハルト様の隣に立つ美人の映像が、どんどん鮮明になっていくにつれ、私の胸もズキズキと痛みを訴える。
きっとお似合いだったんだろうな、と自虐的に心の中で呟いた。
でもレオンハルト様が、僅かに俯いて続けた言葉に、意識を引き戻される。
「大切にしているつもりだった。でも彼女は、辛いのだと泣いた。オレに近付くほど、気持ちに大きな開きがあるのだと思い知らされて苦しいと」
「…………」
言葉が出なかった。
苦笑を浮かべている彼の顔からは、不自然さは見つけられない。でもその声が、懺悔する人のように苦しげで。何と声をかけるべきか、私には分からなかった。
「心の底から誰かを愛しいと感じた事が一度もないのだと、ようやくその時に気付いたんです。オレはたぶん、人として重要な何かが欠けている」
彼が、何でもない事のように告げた言葉は、とても重いものだった。
「愛そうと努力しました。でも好ましいとは思っても、愛しいとは思えなかった。彼女が別の男を愛し、離れて行く場面を想像しても、欠けらも心は痛まない。寧ろ重荷から解放されたような安堵を覚えるんです。……我ながら反吐が出る」
吐き捨てるように、彼は言う。
かけるべき言葉は、何も浮かばないまま、私は唇を噛み締める事しか出来ない。
「彼女はオレに失望し、修道院へと入りました。オレは止めなかった。元より、止める資格なんてありませんが」
「レオン様……」
「その後、何度も縁談を勧められましたが、オレは断り続けました。また泣かせるのがオチでしょうから」
以上でオレの話は終わりです、とレオンハルト様は締め括った。
話し終えた彼は、穏やかな表情で私を見ている。気まずそうに視線を逸らすでも、偽悪的に振る舞うでもなく、ただ静かに。その黒曜石の瞳に、諦観を浮かべて。
「失望しましたか?」
「…………」
問いかけに、無言で頭を振る。
レオンハルト様が、過去の話をしてくれたのは、もしかしたら私を諦めさせるためだったのかもしれない。私が報われない恋のために、無為に時間を過ごしてしまわないよう。未来の私が、泣かないように。
確かに今の話を聞いて、私の初恋の成就率は、更に下がったように思う。綺麗なお姉さん達や、お淑やかで従順な女性でも叶わなかったのに、私がどうにか出来るとは思えない。
でも、だからと言って諦められるかといえば、それは話が別だ。
そんな風に、やーめた、と簡単に投げ出せる恋なら、こんなに拗らせたりしない。
レオンハルト様が、人を心から愛せないとして。
それが私の恋を終わらせる理由には、なり得ない。私の恋は、私のもの。終わらせるのも、育てるのも、決められるのは私だけだ。
「レオン様。一つだけ、宜しいですか?」
「……なんでしょうか」
「私は、貴方の重荷になっていますか?」
私は、静かな声で問う。
さっきの話を聞いて確かめたかったのは、これだけ。
好きでいるのは私の勝手だが、それによって好きな人を苦しめてしまうのは、本意じゃない。いくらしつこい私でも、真正面から迷惑だと言われてしまえば、さすがに挫ける。
「まさか!」
しかし私の怯えは杞憂だったようで、レオンハルト様は即座に否定してくれる。
焦ったように語気を荒らげた彼に、私は安堵の息を吐き出した。
「それなら、私、諦めたくありません」
呆気にとられたように、切れ長な目が丸く瞠られる。
まあ、驚くよね。と他人事のように思った。人を好きになれないと告白している人に向かって、諦めたくないなんて。
どんだけ自虐的なんだって話だ。もしくは、恋に酔っているか。ああ、自分なら何とか出来るって勘違いしてる線もある。
どのみち、碌でもない。
そう思えば、何だかおかしくなった。
絶句するレオンハルト様を見つめながら、私は笑う。
「好きで、いさせて下さい」
貴方が、大切な人を見つけるまで。
私がこの恋を、過去に出来るまで。
どうかこれを、殺してしまわないで。
素直な心のままに願いを吐露すれば、レオンハルト様は、暫く動きを止めた後、長く息を吐き出す。
「貴方には、本当に敵わないな」
泣き笑うみたいな顔で彼は、そう呟いた。
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