転生王女の懇願。
「レオン、様?」
小さな声で呼びかける。
しかし返答はない。無視しているというよりは、考え事に集中しているため、聞こえていないようだった。
細く息を吐き出す。
ほんの僅かだが先延ばしにされた危機に、肩の力を抜いた。
叱られるならレオンハルト様がいいとは思ったが、嫌われたり、失望されたりするのは嫌だ。困らせるのも本意ではない。
「…………」
息をひそめて、レオンハルト様の動向をじっと見守る。
だが、レオンハルト様は微動だにしない。
伏せ目がちの切れ長な瞳は虚空に視線を固定し、唇は引き結ばれたまま。馬車の動きに合わせて揺れた前髪が、秀麗な額に影を落とす。
精悍なラインを描く頬と顎にあてられた指は、長く節くれ立っている。
そんな場合ではない、と理解しつつも、見つめてしまう自分を止められない。
普段は緊張してしまって、真っ直ぐに見られない。彼の視線がこちらへ向いていない今だからこそ、安心して観察できる。
耳朶にうっすらと残る傷痕があるとか、伏せた睫が意外に長いとか。そんな小さな発見に目を輝かせてしまう。
本当に、そんな場合じゃないのに。
自重を促す理性と、高揚する感情がせめぎ合い、脳内で戦いを繰り広げながらも、視線は外せない。
長い睫に飾られた切れ長な目に見惚れていると、黒曜石の瞳が、ふと揺らぐ。ゆっくりと動いた黒い瞳と、私の視線がかち合った。
「姫君」
「っ……、は、はいっ!」
ビクリと体が跳ねる。唐突に張り上げた声は、ひっくり返ってしまった。
明らかに動揺している私を見て、レオンハルト様は目を丸くする。
「……姫君?」
戸惑った声で、レオンハルト様はもう一度私を呼ぶ。どうかしたのか、と言外に問うように語尾を上げた呼び掛けに、どう返すべきか言葉に詰まった。
見惚れていました、と馬鹿正直に告白出来るほど、図太い神経は持ち合わせていない。
「やはり具合が悪いのですか」
「いえっ! 少し、その……考え事を」
レオンハルト様の顔を凝視しながらの考え事って何さ。
セルフ突っ込みを心の中でしつつも、お茶を濁す。
「それより、レオン様のお話は何でしょうか」
私の邪心を知ってか知らずか、レオンハルト様はそのまま流してくれた。
ああ、と小さな声で呟き、言葉を途切れさせる。何か、言い辛そうに見えるのは、気のせいだろうか。
開いた足の間で組んだ両手が、何度も組み替えられる。
暫し逡巡した後、レオンハルト様は口を開いた。
「以前貴方は、クリストフ殿下を頼るつもりはないと仰いましたね。その気持ちに変わりはありませんか?」
向けられた問いに、私は目を瞠った。
以前も、父様と接触したと報告した時に同じ話になった。あの時、私はちゃんと返事をしたはずだ。
兄様に利用されるのも、兄様に私を利用させるのも嫌だから、絶対に相談はしない、と。
それで、もうこの話は終わったものだとばかり思っていたので、再度振られ、驚きを隠せない。
「どうして、そんな事を?」
答えずに、問い返す。
一度終わった話を蒸し返すなんて、彼らしくもない。
責めたつもりはないが、気持ちが声に表れてしまったのか、彼は少し困ったように眉を下げ、言葉に詰まる。
そんなレオンハルト様を見ていると、不安が込み上げてくる。
任せられないと、判断されてしまったのかと考えると、胸が痛い。
「……私が頼りないから、でしょうか」
後ろ向きな気持ちが、ぽろりと唇から洩れる。
「それは違う」
しかしレオンハルト様は、私の不安を払拭するように、即座に否定してくれた。
「貴方の優秀さを考えれば、いつか国王陛下の目に留まってしまうだろう事は、予測出来ました。ただ時期が、あまりにも早い」
自分の見通しが甘かったのだと、レオンハルト様は言う。
兄様と違って、私は国政に関わる事はない。つまり能力を示す場もない。したがって、価値を見出すにしてもきっと、もっと先だと彼は考えていたのだろう。
「中途半端に、というのも不味い。陛下が貴方の優秀さを認め、育てようと考えて下さるなら問題はないのですが……ただ利用価値があると判断された場合、事態は深刻です。嫌な言い方ですが、王女殿下を利用しようと考えた場合、真っ先に思い浮かぶのは婚姻ですからね」
「っ!!」
ひゅ、と不自然に息を吸い込む。
唐突に眼前に突き出されたものは、私が現在進行形で目を背けている問題そのものだった。何の覚悟も出来ていない私は、投げ寄越された爆弾に、反応出来ずに固まるだけ。
息を詰めた私を見て、レオンハルト様は怪訝そうに眉根を顰めた。
考え込んだのは、ほんの数秒。私の表情から事態を読み取った彼の表情が、どんどんと険しくなっていく。
「……姫君、まさか」
掠れた声に浮かぶ驚愕と焦燥。
居た堪れなくなって俯いた私は、ぎゅう、とスカートを握る手に力を込めた。
「すぐでは、ないんですっ!」
ああ、何言っているんだろう、私。
自分でも呆れながらも、口は勝手に言葉を紡ぐ。
「隣国の、ヴィントの王太子殿下が成人する二年後まで、猶予はあるんです!」
「二年、ですか」
重々しい呟きに、思わず怯む。たったそれだけかと副音声が聞こえるのは、被害妄想だろうか。
鼻の奥が熱を持ち、つん、と痛みを訴える。泣きそうな自分を叱咤し、唇を噛んで耐えた。
「それまでに価値を示せば……私は、」
好きな人と、結婚出来るかもしれない。
そう言いかけて、止めた。独り善がりだと、気付いてしまったから。
たとえ私が実績を示し、父様に認められたとしても。
結婚相手を自由に選べるのだとしても。
私がレオンハルト様と結婚出来る可能性は、未だ、ゼロに近い。
私の政略結婚の話を聞いても、当たり前だが、動揺一つしない彼を見て、改めて思い知る。私の初恋が叶う確率は、私が父様に認められる確率より、ずっとずっと低いんだと。
落ち込む気持ちに合わせて、どんどんと俯く。
重苦しい沈黙が、馬車の中に落ちた。
スカートにシワを作る自分の手を眺め、爪を指先で擦る。意味のない行動を無意識に繰り返していると、レオンハルト様が動く気配がした。
顔をあげると、真剣な表情をした彼と視線が絡む。
「……やはり、今回だけでもクリストフ殿下を頼りませんか?」
「っ、嫌です!!」
理解するより先に、反射的に否定した。
「絶対に、嫌です」
言葉を重ねる。
我儘を言いたくないとか、迷惑をかけたくないとか、そんな謙虚で臆病な気持ちは、今この時だけ、何処かに消え失せていた。
「……貴方様が、意志の固い方だと存じているつもりです。しかし、殿下。これは貴方様の未来がかかっているのです」
「だから!! だからこそです!!」
レオンハルト様の口調は、いつの間にか戻ってしまっていた。
聞き分けのない王女を諌める言葉に、私は思いっ切り頭を振る。駄々をこねていると思われたっていい。
私の未来がかかっている。正にその通りだ。
だからこそ、引けない。引いてたまるかと、目に力を込めた。
「これは危機でもあり、逆に、二度とないチャンスでもあるんです!」
声に出してみて、しっくりときた。
自分の中でも上手く消化できなかったモヤモヤが、ようやく形を得る。
父様の傍若無人な態度に怒り狂っていたけれど、冷静になって考えてみれば、基本、王女の結婚なんて、本人の意思は無いに等しい。
拒否出来る可能性が、ほんの僅かでも残されているだけマシなんじゃないかと思う。
そう気付いた私は、叩き付けられた挑戦状の裏側に、希望という二文字を見出した。
「ここでもし、私が兄様を頼って、政略結婚を無かった事にしてもらったとします。そうしたら父様は、私を見限ります。この程度の存在だと、見切りを付けます」
失望されるのは、目に見えている。
別に、それはいい。父様に失望されたらムカつきはするけど、悲しくはない。
でも――。
「価値を示せなかった私はきっと、望む方に嫁ぐ権利を未来永劫奪われる」
何の根拠もないが、本能的に感じ取った。確信すらある。
利用価値がなければ、毒にも薬にもならない男と結婚させると、父様は言った。私はその中に、レオンハルト様が含まれる可能性は、とても低いがゼロではないと思った。
いいや、ゼロだと今なら断言出来る。
周辺諸国に名を轟かせる勇将。見目も良く、人望も厚い。知略にも長ける。
そんな人材、何処だって欲しいだろう。繋ぎを作りたいと思うだろう。
私に利用価値がなくなっても、レオンハルト様にはある。そんなとんでもない優良物件、不出来で無価値な王女に、あの父様がくれるもんか。
「自分で、頑張らなきゃダメなんです」
掠れる声で、呟く。じわりと涙が滲んできた。
「姫君……」
固まっていたレオンハルト様は、小さな声で私を呼ぶ。
困惑した表情は、いつもより少し幼く見える。そんな顔も好きだと言えば、きっと困らせてしまうんだろうな。
泣き出しそうな気持ちのまま、くしゃりと顔を歪める。
たとえ届かない手だとしても、私はまだ貴方を諦めたくない。
「自分で頑張らなきゃ、私は、好きな人に好きだと言う事さえ出来ない」
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