総帥閣下の安堵。
※旦那さんこと、レオンハルト視点となります。
遠く、小鳥の囀りが聞こえてきた。
寝台から半身を起こし、窓の外を見る。細く開いたカーテンの隙間から、白み始めた空が覗く。
朝焼けの中、名も知らぬ鳥が隊列を組んで飛んでいくのをぼんやりと見送った。
どうやら、まんじりともせずに夜が明けてしまったらしい。
視線を隣で眠る妻へと向ける。
オレが身を起こしたせいで、掛布が少しズレてしまった。寒そうな細い肩を包むように、丁寧に掛け直す。
深く眠っているらしいローゼは、心配になるくらい静かだ。
臆病なオレは夜中に何度もそうしたように、彼女の柔い頬に手を伸ばす。指先に伝わる温かさに安堵して、息を吐いた。
泣き腫らした目元を指の背で、そっと辿る。
ローゼが眠ってから、濡らした布で冷やしたけれど赤みは残ってしまった。
「……代わってやりたいというのは、傲慢なんだろうな」
自嘲めいた呟きを零す。
ローゼが抱えている痛みと苦しみを、肩代わり出来たらいいのに。無理ならせめて、半分背負いたい。
詮無い事と分かっていても、考えてしまう。
愛しい人が隣で苦しんでいるのに、何もしてあげられない。その無力感を抱えたままの一夜は、途轍もなく長く感じた。
そのまま、じっと飽くことなく妻の寝顔を眺めていると、外から生活音が聞こえ始める。静かな足音や、扉の開閉音。密やかな話し声。
使用人達が仕事を始める時間になったようだ。
もう少ししたら、軽い食事を用意させるか。
昨日の夕食の時、ローゼはあまり食べられていない様子だった。今日も食欲はないかもしれないが、少しでも食べさせないと、ローゼの体力が持たない。
スープか、粥か。もしくは果物なら食べてくれるだろうか。
そんな事をつらつらと考えていると、「ん」と小さな声が聞こえた。
「……ローゼ?」
小さな声で呼ぶと、ローゼの瞼が震える。
ゆっくり現れた青い瞳が少しだけ彷徨った後、オレを捉える。
「レオン?」
「……おはよう」
声が震えそうになった。
近衛騎士団長まで務めた男がなんてザマだと己を叱咤するが、何の足しにもならない。
オレの不格好な笑みを、ローゼはじっと見つめていた。
その瞳には、昨夜の絶望は見つけられない。胸が痛くなるくらい、ただただ綺麗な青がオレを映した。
「……おはよう、レオン」
「……っ」
ローゼは、そう言って口角を上げた。
無防備ないつもの笑顔に、胸が締め付けられる。
オレがくしゃりと顔を歪めると、ローゼは目を丸くした。
少し考える素振りを見せたあと、大きく腕を広げる。
「……」
オレは照れと心配で、躊躇する。
けれど結局は誘惑に抗えず、潰さないようにそっとローゼを抱き締めた。
「心配かけて、ごめんね」
「いい。いいんだ。それよりも、無理はしていない?」
「うん、もう大丈夫」
昨夜のローゼの慟哭と深い嘆きを覚えているから、にわかには信じがたい。けれど、ローゼの表情は自然で、無理しているようにも見えなかった。
「あのね、私にもよく分からないんだけど」
「うん」
「いなくなったんじゃなくて、少し遅れてくるだけみたい」
「……そう」
嬉しそうな顔をしたローゼの言葉に、オレは短く相槌を打った。もちろん、意味は全く分からない。
でも不思議と、本当に大丈夫なのだと思えた。
「なら、皆で一緒に待とう」
「そうね。私と貴方とこの子で」
優しい表情で、ローゼは腹部を摩る。
「じゃあ、まずは貴方が元気にならないと。朝食は食べられる?」
寝台を下りながら問うと、ローゼは頷いた。
「なんか、凄くお腹減っているみたい」
「了解」
照れたように笑う顔が微笑ましくて、オレの口角も自然と上がる。
寝室の扉を開けると、外には数人の使用人がいた。護衛の騎士は分かるが、執事や侍女達はいつから居たのか。
出てきたオレに、視線が集中する。
「二人分の朝食を寝室に運んでくれ」
「かしこまりました。メニューはどうされますか? パン粥やフルーツもご用意出来ますが」
「いや、通常のメニューで良い。腹が減ったそうだよ」
オレが笑ってそう答えると、侍女達の表情がぱっと明るくなった。
昨日のローゼの不調は皆が知っているから、気に掛かっていたのだろう。朝から寝室前に集まっていたのも、おそらくそのせいだ。
「すぐにご用意します」
侍女達は、やや速足で去っていく。
「奥様の好物をご用意するように、料理人に伝えましょう。デザートは何がいいのかしら?」
「フルーツタルトがお好きよね?」
「あんまり重いものはお体に負担がかかるわ。コンポートはどう?」
侍女達の話し声は、足取りと同様に軽やかだ。良家の子女らしく、普段は落ち着いた優雅な所作の彼女達も、今日ばかりは年相応の少女に戻っているようだ。
それだけ、心配していたのだろう。ローゼは、この屋敷の太陽だから。
「ヨアヒム、今日の執務だが……」
「昨夜の内に確認致しましたが、早急に対応が必要な案件はございません」
執事を呼ぶと、必要な答えが端的に返ってくる。
「なら、今日は休みだ。緊急の用があれば、ここにいるから呼んでくれ」
「かしこまりました」
護衛の配置の変更についても伝えようと騎士を見ると、彼は『心得ている』とばかりに頷いた。有能な人間が多くて、非常に助かる。諸々の面倒な手続きは部下に任せ、オレは寝室へと戻った。
寝台に再び戻ってきたオレを、ローゼは不思議そうな顔で見上げる。
起きるんじゃないの?と問いかけてくる眼差しに、オレは笑みを返した。
さて、ここからが一番の難関だ。
努力家で真面目な妻は、どんな誘い方をしたら、今日一日を共に自堕落に過ごしてくれるだろうか。
そんな一見、くだらない……けれど、オレにとっては重要な任務に頭を悩ませた。




