或る密偵の不安。
※密偵のカラス視点です。
宵闇に紛れて錬鉄製の柵を乗り越え、するりと敷地内へと侵入する。
厚い雲に月が隠れている間に、広大な庭園を進んだ。松明を片手に巡回する警備兵の目をかい潜り、あっさりと目的地の真下まで辿り着く。
二階にある当主夫妻の主寝室を見上げた瞬間、空気を切り裂いて、靴のつま先スレスレに何かが落ちてきた。
視線だけで確認すると、手入れの行き届いた足元の芝生に細身のナイフが突き刺さっている。オレは屈んで、それを引き抜いた。
「いらっしゃい」
抑揚のない声と共に、目の前に何かが降ってくる。
猫でもあるまいし、殆ど音も立てずに着地した男は、冷えた目でオレを見据えた。
プレリエ公爵家の警備は厳重だ。
しかし、抜け穴はある。高い身体能力を持ち、訓練を積んだ者なら忍び込む事は可能だろう。
ただ、残念な事にその抜け穴は罠だ。
こうやって、最も厄介な番人の前に案内する仕掛けになっている。
「夜分遅くまでご苦労様だね、カラス」
いつもの軽薄な笑みがないせいで、容姿の端整さが際立つ。どうやら、相当機嫌が悪いらしい。
人間味の薄い顔で、男……ラーテは首を傾げた。
「で、何の用?」
「もちろん、様子見だ」
オレがナイフを投げ返すと、ラーテは視線も動かさずに二本の指で刃を挟んで止めた。
「姫さんの具合は?」
問うとラーテは不愉快そうに目を眇める。
「お前んとこの主人は、見舞いの作法も知らないの? 体調が悪い人の様子を知りたいなら、まずはお手紙を出すんですよって教えてやれば?」
嫌味な話し方は腹が立つが、内容はあながち間違いでもない。
姫さんの様子を見てこいとオレに命じたのは国王だが、常識的に考えるのなら、初手が『密偵を放つ』なのはおかしい。
娘の体調を知りたいのなら手紙を出すなり、先触れの使者を立てて訪問するなり、やり方はいくらでもあるはずなのに。
ただ一応、擁護するのならば、国王がそんな手段を選んだのは、手紙では正確な情報が得られない可能性があるからだと思われる。
姫さんは無駄に我慢強く、甘え下手だ。彼女の性格を思えば、様子を探って来いと言った国王の気持ちも分からなくはない。
「うちの大将は、恥ずかしがり屋なもんでね」
「恥ずかしがり屋」
無表情で鸚鵡返しをされたが、適当に笑って「そう」と返す。
ラーテは突っ込みたい事が山ほどある顔をしていたが、面倒臭くなったのか、特に言い返してはこなかった。
「それで、姫さんはどうしてる?」
「……」
ラーテはぐっと眉間に皺を刻む。
目を伏せ、一つ溜息を吐き出した。
「今は眠っている」
「何があった?」
「……報告は受けているんでしょ?」
「身体には異常がなかったって事だけは」
プレリエ領に潜伏させている部下からは、ある程度の報告は受けている。
姫さんが予定になかった助産師の診察を受けた事。それから、母子共に問題なく、健康である事も。
「なら、問題ありませんでしたって報告すればいい。こっちで付け足す情報は何もないよ」
「あの姫さんが、人前で取り繕えないほど憔悴していたっていうのに、問題ないはずがないだろ」
人に迷惑をかける事を嫌う姫さんは、笑顔で無理をする。全く大丈夫ではない状態に置かれていても、大丈夫だと言ってしまう人だ。
そんな人が強がる事も出来ないなんて、普通ではない。
そう訴えると、ラーテは鋭い目でオレを睥睨した。
「そんなのは、お前に言われるまでもない」
急遽、助産師に診てもらうくらいだから、悩んでいるのは腹の子の事だろう。
けれど助産師は、母子共に問題ないと言う。
なら姫さんは何に悩み、どうして苦しんでいるのか。
自身の体調の変化や不調を感じ取り、不安になったのだろうと考えた助産師は、いくつか問診をしたそうだ。しかし、姫さんには何の自覚症状もなかった。
触診や視診でも同じく、助産師には不調を見つけられなかった。それでも、姫さんの表情は晴れない。
何か気にかかる事があるのかを助産師が問うと、姫さんは意を決したように、腹の子が双子か否かを聞いたらしい。
それで助産師はようやく、姫さんの不安の糸口を見つけたと思ったようだ。
多胎児の出産は命に関わる場合が多い。
ただでさえ、出産は命がけ。腹の子の数が増えれば、危険もその分だけ増す。
だから助産師は、姫さんがどこかで多胎児出産の話を聞き、自分の症状と似た部分を見つけて不安になったのだと判断した。
ところが、双子ではないだろうと伝えても、姫さんの不安は払しょくされなかった。それどころか、余計に沈み込んだようにすら見えたらしい。
診察をした助産師でさえ、姫さんの不安の原因を特定出来なかった。
専門家ですら分からなかった事を、医学の知識のないオレが分かるはずもない。もちろん、ラーテや他の人間もそうだ。
知りたいけれど、下手に触れば、姫さんの傷を増やす可能性が高い。
どんなに歯がゆくても、今は何も出来ない。何もしてはいけない。
それが分かっているから、番人達は、ただ静かに姫さんの眠りを守っている。
「もう一度言う。お前の主人に報告するべき事は何もない」
失せろ。
そう吐き捨ててから、ラーテは踵を返した。
その場に取り残されたオレは、二階を見上げる。
オレの知る姫さんは非力で体力もないが、誰よりも強い。苦境に立たされても諦めず、根性で奇跡を掴み取ってきた人だ。
そんな人が消沈し、泣き暮らしている姿が想像出来ない。
勝手に理想を押し付けるなど、とんでもない愚行だ。これではラーテと同類ではないかと己を叱咤しても、落ち着かない気持ちは誤魔化しきれなかった。
「……帰るか」
不法侵入者の分際で、独り言を零す。
ここにいても……否、何処にいてもオレが出来る事はない。
たぶんそれは、オレを派遣した国王も同じ。力になれるとしたら、きっと今も傍についている旦那くらいだろう。
役立たずに出来る事は、騒ぎ立てずに静かに待つことだけだ。
王都で待ち構えているあの暴君にも教えてやろう。
胸中で呟き、オレは屋敷を後にした。




