総帥閣下の対話。(2)
※前回に続き、レオンハルト視点となります。
オレはミハイルの言葉を、肯定も否定もしなかった。
争いを避ける為に引く事が最善な時もあるし、事態を悪化させる場合もある。要は、時と場合に依るのだ。
ただ、今回の場合は後者である可能性が高いだけ。
彼の行動は確かに、人間関係からの逃避にも見える。けれど、自分の不利益も顧みず、ただ純粋に愛する人達の幸せを願う彼の選択を、間違いだと断じてしまいたくは無かった。
しかし、どうやら当人の心情は違ったらしい。
自己評価が低いミハイルは、懺悔をする信徒のように項垂れている。
「どんな大層な理由を付けても、結局のところ、オレは嫌われたくなかったんだと思います。いらない、近寄らないでと、言われたくなかった」
「愛する人に嫌われたくないと思うのは、ごく自然な事だ」
「でも本当に姉さんの事を思うのなら、嫌われても、疎まれても、傍で守る覚悟を決めるべきでした。オレは楽な道に逃げていただけの卑怯者です」
「あまり自分を貶めるものではないよ」
思わず、テーブル越しに手を伸ばす。
弟にするみたいに、彼の頭に手を置いてから苦笑した。
彼との交流はあまり無いけれど、好感は持っていた。
深くは考えていなかったが、この自己評価の低さと純粋さ、それから眩しいほどの善性が、愛しい妻を彷彿とさせるからかもしれない。
幼子にするみたいに頭を撫でられ、ミハイルは目を丸くしていた。
「君は、もっと自分自身を大切にしてあげなさい。それこそが、君の愛する人達の為にもなるから」
「自分を大切に……?」
ミハイルは不思議そうな顔でオレの言葉を繰り返す。
彼はどうも、自分には大切にされる価値が無いと思っている節がある。幼少期に親に疎んじられた経験が、歪んだ価値観を形成してしまったのかもしれない。
惨い事だと、改めて思う。
そして同時に、繰り返してはならないとも思った。罪のない幼子が、疎まれ、傷つけられるような世の中は、変えなくてはならない。
「君は沢山の人にとって、価値のある人間だ……と言っても、たぶん今の君には響かないんだろうな」
困ったように眉を下げるミハイルの表情が、消極的にオレの言葉を肯定している。
「だから、別の言い方をしよう。君はビアンカ嬢の宝だ。君の愛する姉君が慈しみ、大事に見守ってきた珠玉だ。それを君が自分のものだからと乱暴に扱い、損ねるのは、姉君への裏切りでは無いか?」
「……それは」
「宝物ではないだなんて、言わないでくれよ。ビアンカ嬢がどれほど君に愛情を注いできた事か。自覚が無いというのなら、それこそ裏切りだ」
「…………愛されてきました。ううん、愛されています。今でも、ずっと」
噛み締めるように呟くミハイルに、オレは眦を緩めた。
「ゆっくりでいいから、考え方を変える努力をしてみて欲しい。たまには自分を甘やかしても、誰も文句は言わないよ。それと、誰かに傷付けられた時も我慢するのではなく、周りの人を頼って。オレでも、ヴォルフでも、ゲオルク殿やテオでもいい。どうか、理不尽に慣れてしまわないでくれ」
ミハイルはくしゃりと顔を歪める。
「頼っても、良いのですか?」
「もちろんだ。寧ろ皆、君が何も言ってくれない事にヤキモキして、心配しているよ。君が義兄君に心無い言葉をぶつけられた事を知って、あのローゼが怒っていたくらいだ」
「え、ローゼマリー様が……?」
泣きそうな顔をしていたミハイルだったが、驚きの方が上回ったらしい。目を丸くして、呆気に取られている。
「あの穏やかな方が……。想像出来ません」
「友人が邪険にされたのだから、情に厚いローゼが怒って当然だろう。君は、友人が不当な扱いをされても何も思わないか? ローゼが女性だからと軽視され、貶める噂を流されたとしたら……」
「誰がそんな事を……!」
勢いよく立ち上がったミハイルに、オレは笑みを浮かべた。
「その愚か者には既に罰が下されているから、落ち着いて」
珍しくも眉を吊り上げていたミハイルだったが、オレの言葉を聞いて座り直す。ただ感情の行き場を唐突に奪われたからか、消化不良を起こしたかのような顔をしていた。
「我が身に置き換えてみたら、分かるだろう? 君が今、感じている怒りは我々が抱えているものと同じだ。君がローゼを敬愛し、大切にしてくれているように、相手だって君が大切なんだよ。親しい人が傷付けられたら、誰だって平気ではいられない。辛いし、腹も立つ」
オレが言い含めるように語り掛けると、ミハイルは小さく頷いた。
「かくいうオレも、君の義兄君には良い感情は持っていない。言い返してやればいいのにと、実は思っている」
「……ありがとうございます。でも、義兄の事はもういいんです。元々、縁は切れていたようなものでしたから」
「……分かった。君がそれで納得しているのなら、これ以上、オレが言うべきでは無いな」
短く息を吐き出すと、ミハイルは困り顔で笑った。
「ただ今後、もしまたマルセル殿が君を侮辱する事があったら、話は別だ。君の職場の上司として、オレとローゼは介入するつもりだ」
「そんな。御二方にご迷、」
ご迷惑はかけられないと続けようとしたミハイルは、『頼れ』と言ったオレの言葉を思い出したらしい。不自然に言葉が途切れる。
「迷惑では無いし、放置する方がオレ達としても不都合がある」
「不都合?」
「ああ。彼の愚かな行動を黙認しているなどと思われては、それこそプレリエ公爵家の名に傷が付く。君は立派な魔導師で、医療施設の職員だ。プレリエ公爵家の庇護下にある者への誹謗中傷を、我が家は許さない」
「!」
「君の気持ちを尊重して、一度は見逃す。けれど二度目は無い。君もそう心得ていて欲しい」
「……分かり、ました」
ミハイルは真剣な顔付きで黙り込む。暫くの沈黙の後、了承した。
「温厚な君に、酷な判断をさせてすまない。しかし、これは君だけの問題では無い。マルセル殿は君が『魔力持ち』である事を理由に、蔑んだのだから。君や私達がそれを良しとしてしまったら、他の魔導師達はどうなる? これから生まれるかもしれない子供達は?」
ミハイルは目を見開き、息を呑んだ。薄く開いた唇が音もなく、「こども」と呟く。オレは彼の目を見ながら頷いた。
「魔力持ちの存在が公式に確認されたのは、テオとルッツと君で最後だ。けれど、今後、生まれてこないとは限らない。もし血統で継承されるのならば、ビアンカ嬢もそうだが、マルセル殿の子供だって十分、可能性がある」
ミハイルの顔色が変わる。オレやローゼが想像した最悪な未来の可能性に、彼も気付いたのだろう。
マルセル殿は妻や子供の平穏を守る為にミハイルとの関係を切りたいらしいが、子供が魔力を持って生まれた場合、その子はマルセル殿の庇護対象に含まれるのだろうか。
「ローゼは、差別や偏見のある世界を変えたいと願っている。途轍もなく壮大な願いで、一代での実現は限りなく不可能に近い。けれど、『いつか』を信じて動き出そうとしている。君達がこれ以上、苦しめられないように。未来の子供達が健やかに成長出来るように、自分に出来る事を必死で考えている」
「ローゼマリー様らしいです」
「自慢の妻だよ」
臆面もなく言うと、ミハイルは笑みを深めた。次いで、表情を引き締める。
「……オレも、逃げてばかりでは駄目ですね」
短い言葉の中に、静かな決意を見た気がした。
ミハイルは争い事が苦手だが、他人の為に本気で怒れる人間でもある。ならきっと、少しずつでも変わっていける。少なくとも、オレはそう信じている。
だから説教臭い話は、これで終わりだ。
「なら、まずは君の姉君との話し合いに挑もうか」
「……はい」
凛々しい顔をしていたミハイルの覇気が、途端に無くなる。
姉が怖いというよりは、どういう反応をされるのかを知るのが怖いのだろう。別れ際のビアンカ嬢は、酷く追い詰められていた様子だったから、余計に。
「許してもらえなくても、何度でも謝ります。それくらい、オレは酷い事を言ってしまったから」
悲壮な顔をしているミハイルには申し訳ないが、たぶん、そんな悲惨な事にはならないと思う。
何せ、あちらには人誑しのローゼがいる。
そう考えつつも、オレは敢えて言葉にしなかった。
決戦に挑む顔付きのミハイルと共に研究棟の一室へと向かうと、笑顔のビアンカ嬢とローゼに出迎えられて、こっそりとオレは『やっぱりな』と胸中で呟く。
無事に仲直りが出来た姉弟に温かい眼差しを向ける妻を、オレは誇りに思う。




