或る側近の悔恨。
※シュレッター公爵の側近の視点になります。
私はいつ、どこで、何を間違ったのだろう。
何度目になるか分からない問いを、己に投げかける。
考えようにも頭が上手く回らない。寝不足のせいか、ここ最近ずっと慢性的な頭痛に苛まれている。
ギリギリと鉄の輪で頭を締め上げられるような痛みに、顔を歪めながら胸中で呟く。どうしてこうなったのだ、と。
「おい、誰かいないのか!?」
苛立ちを隠しもしない怒声が、隣の部屋から響く。ビクリと肩を竦めながら、周囲を見回す。誰かに役目を押し付けようにも、ガランとした室内には私しかいない。
一か月前には五人いた同僚が次々と辞めてしまい、時勢を読み損ねた私だけが取り残された。
本当に、どうしてこうなった。
しがない子爵家の三男として生まれた私にとって、シュレッター公爵の補佐官になれた事は、人生で一番の幸運だと思っていた。
仕事らしい仕事はせず、遊び歩く公爵のおこぼれに与り、享楽的に過ごす毎日がずっと続くと信じていたのに。
「おい!」
「は、はいっ!」
シュレッター公爵の怒鳴り声に、我に返る。
執務室へと続く扉に駆け寄って開けると、「遅い!」と叱責が飛んできた。
執務室は、嵐が過ぎ去ったかのように荒れていた。特に机周りは酷く、破れかけた書類や伏せた本が、無造作に床の上に放置されている。
散乱した書類の中に封が切られていない手紙も混ざっていたが、指摘する気力さえ無かった。
「予算が足りないとは、どういう事だ!」
「……どちらの件でしょう?」
一拍遅れで問い返すと、唾を飛ばす勢いで「聞かなくても分かるだろう!」と叫ばれた。
「……申し訳ございません」
分かる訳がないだろうと怒鳴り返したかった。
ここ最近で公爵が、思いつきで始めた事業がいくつあると思っているのか。
しかもどれも資金繰りが厳しく、成果を出す前に手放さざるを得なくなっている。手元に残っているのも予算が足りない事業ばかりだというのに、言わずとも分かれというのは無理な話だ。
「医療施設の予算だ!」
「……」
溜息が出そうになるのを、既のところで堪えた。
まさか本気だとは思っていなかった。
プレリエ公爵への対抗心を拗らせるのは勝手だが、せめて、医療には金が掛かる事くらい調べてから言ってほしい。
薬はもちろんの事、備品や設備にも金が掛かる。そして何より高いのは人件費だ。
医者や薬師のような専門職は個人でやっても食うに困らないのだから、わざわざ低賃金で雇われる物好きはいない。
そんな正論を返そうものなら、物理的に首が飛ぶので言わないが。
「他の事業から回そうと検討しておりますが、何処も厳しい状況でして」
「鉱山の利益を回せばいい」
「!」
ぐっと息を詰める。
反らした背を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
「ほ、報告書は読まれておりませんか?」
「何のだ」
「鉱山は、……その、……」
「早く言え!」
「現在、採掘を中止しております」
「……は?」
唖然とした表情で、シュレッター公爵は固まる。
数秒の静けさの後に来るであろう嵐に耐える為、ぎゅっと目を瞑り、身を固くした。
「馬鹿者がっ!! 何故、そんな大事な事を直接報告しなかった!?」
シュレッター公爵は立ち上がり、執務机に拳を叩きつける。振動で机の上のインク壷が倒れ、絨毯と書類を黒く染め上げた。
「鉱山に関しては、先日辞めた者が担当でしたので……」
「引継ぎはしてあるのだろう!? いない人間に責任を押し付けるな!」
一気に五人も辞めたのに、引継ぎもクソもあるか。
胸中で口汚く罵りながら、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
モゴモゴと謝罪を繰り返していると、埒が明かないと思ったのか、公爵は机の上の書類を漁り出した。
「どいつもこいつも無責任で困る。以前に指示してあった、新たに坑道を掘る件の報告も来ていないじゃないか」
公爵は、独り言めいた愚痴を吐き出した。
「あの……。おそらく、それが原因かと」
「どういう事だ?」
公爵は書類に落としていた視線を私に向ける。怪訝そうに眉を顰めた。
「まさか、崩落事故でも起きたのか? そういえば地盤がどうの、地質がどうのと妻が言っていたな。……だが、その程度で採掘を中止するなど大袈裟だろう」
「いえ、まだ起きていません。ただ、事故が起こる確率が非常に高いという情報がどこからか洩れていたらしく、労働者が逃げ出してしまったようです」
「……な、なんだと……?」
シュレッター公爵は言葉が理解出来ないかのような顔で、その場に立ち尽くした。
事実、理解出来ていないに違いない。
公爵にとって庶民は、替えの利く労働力に過ぎない。一人一人に意思があり、自分や家族の命を惜しむのだという当たり前の事さえ、考えつかないのだろう。
「二週間前の時点で、既に半数以上が退職しておりました。作業を再開させるにも、まず人を集め直す必要があります」
「なら早くやれ! 何処からでもいいから掻き集めて来い!」
「……以前よりも高い賃金を払う事になると思いますが、それでも宜しいですか?」
悪評は広まるのが早い。退職した人数を考えたら、何処の採掘場でも既に噂は知れ渡っていると考えた方がよいだろう。
それでも仕事を請け負う人間がいるとしたら、よほど金に困っているはずだ。こちらの足元を見て、賃金を吊り上げてくるだろう事は想像に難くない。
「それでは本末転倒だ!」
予算を捻出する為に鉱山を稼働したいのに、そうするには多額の金がいる。正に本末転倒。だが他に手立てがない。
私が何も言えずに黙り込むと、シュレッター公爵は苛立たしげに歯ぎしりをする。八つ当たりするように机の上の書類を乱暴に払いのけてから、どかりと椅子に座った。
「お前では話にならん……! 別の者を……、そうだ、ハンス。ハンスを呼べ」
ハンス・フォクトは、シュレッター公爵家の執事だ。先代の頃から仕えている老執事を、シュレッター公爵は重宝している。
特別に優れた能力があるとは感じなかったが、公爵にはとても忠実だったので、そこを買われたのだろう。
「ここ暫く、姿を見かけておりません。何処かに使いに出しているのですか?」
「……仕事を任せたのは確かだが、すぐに終わる簡単なものだ。帰ってきているだろう?」
シュレッター公爵は一瞬、視線を泳がせた。
何かを隠しているようだが、内容までは思い当たらない。執事に仕事を任せていた事自体、初めて知ったくらいだ。
「私は姿を見かけておりませんが」
困惑しながらも返事をすると、シュレッター公爵は目に見えて焦り出した。
「そんな馬鹿な……。ハンス! 誰かハンスを連れて来い!」
シュレッター公爵は錯乱したかのように声を張り上げる。
「閣下、どうか気を静めてください」
「うるさい! いいからハンスを呼べ!」
訳が分からないが、とにかく落ち着かせようと声を掛ける。しかし効果はなく、どうしたものかと途方に暮れていると、突然、執務室の扉が開いた。
「ハンスの居場所でしたら、私が存じておりますよ」
硬い靴音を響かせながら入室してきたのは、ご子息のフランツ様だった。
フランツ様は、顔立ちこそ父であるダニエル閣下に似ているが、性格は真逆。謹厳実直を体現したかのような方で、当然のように二人の相性は悪い。
親子関係は希薄で、互いに避けて通るくらいだ。
久しぶりに真正面から姿を見たが、フランツ様は何処か変わった気がする。思い詰めたような表情と、余裕のない雰囲気が消えた。
側近二人を従えて堂々と立つフランツ様は、上に立つ者の風格さえ感じさせる。
「お前、……何をしに来た」
ダニエル閣下は、まるで親の仇でも見るかのように鋭い目で息子を睨み付ける。
しかしフランツ様は、一切怯む事は無かった。
「早急に審議すべき事案がございます。同行願えますか?」
疑問形でありながらもフランツ様の表情には、否と言わせない迫力があった。




