公爵令息の葛藤。(2)
※前回に続き、シュレッター公爵家の子息、フランツ視点となります。
新しい靴を下ろした日に限って雨が降り出すものだし、インク壷を倒した時に真っ先に駄目になるのは大抵、最も重要な書類だったりする。
つまり、父に余計な事はしてほしくないと考えた時点で、この最悪な未来は確定していたのかもしれない。
そんな風に茶化さなければ、やってられない。まともに向き合ってしまえば、頭がおかしくなりそうだった。
父が隠れて何かを企んでいるようだと気付いたのは、ごく最近だ。
アレを当主の座から一日でも早く引きずり下ろそうと、周りに働きかけている最中だった為、気付くのが遅れた。
父の周囲に潜り込ませていた部下に探らせたところ、どうやらプレリエ公爵領の収穫祭を妨害する策を練っているらしい。
呆れるよりも先に、泣きたくなった。
プレリエ公爵家と対立するとはどういう事なのか、それすらも分かっていないのか。
現在、プレリエ公爵領は最も注目されている土地だ。世界各地から商人が集まり、王都に次ぐ商業の要の街となりつつある。
当主は現国王のご息女であり、親子の関係も良好。以前は家族との不仲が囁かれていたが、国王夫妻がローゼマリー様の懐妊祝いに山のような贈り物を届けた事で、それも消えた。
財力、血統、後ろ盾。どの面から見ても、不足が無い。
プレリエ公爵閣下は、今やネーベル王国で最も敵に回してはいけない重要人物の一人となった。
そんな事は、王城に出入りしていない下位の貴族ですら知っているというのに。いや、子供だって漠然と理解しているだろう。
分かっていないのは、父だけだ。愚かな自分を顧みようともせず、思い通りにならない事があれば周りのせいだと喚き散らす、馬鹿なあの男だけ。
どうにかギリギリで持ち堪えていた心が、ぽきりと折れた。
もう無理だ。
これ以上、アレを野放しには出来ない。
アレが生きている限り、誰かが苦しむ。
ローゼマリー様は理不尽に傷付けられ、その結果、公爵家は傾き、母や家人達も巻き込んで破滅する。
私の大切な人達が、アレの手でズタズタに引き裂かれてしまう。
そうなる前に、一刻も早く止めなければ。
私自身がどうなろうと、必ず、この手で――。
父の企みを知った日から、まともに眠れていない。疲れても目が冴えて眠れず、明け方に気絶するように意識を失うが、その度に父を殺める夢を見る。
寸前で跳ね起きて、夢だった事に安堵して、そんな自分の不甲斐なさに失望する。その繰り返しだ。
そうしている間に、収穫祭の当日を迎えてしまった。
お忍び用の服に着替え、同じく平民の恰好をした部下達と共にプレリエ領へと向かう。手分けをして、父の手の者を探す事にした。
しかし途中で運悪く、ローゼマリー様に遭遇してしまった。
ずっと焦がれていた方と初めてまともに言葉を交わせたが、高揚感は無い。寧ろ、罪悪感で死にそうだ。
女性初、しかも十代という若さで公爵位を賜ったローゼマリー様だが、きっと平坦な道を歩んでこられた訳ではない。
輝かしい功績の裏側には、並々ならぬ努力や苦労があったはず。
プレリエの発展は、あの方の努力がようやく実を結んだ結果だろうに。
どうして、父はローゼマリー様の邪魔をするのか。
生まれてこの方、何の苦労もなく遊び惚けていた男が、何の権利があってこの方を害する?
ああ、やはり止めなくては。私が、アレを。
「もしも何か起こってしまった場合は、私の手で責任を」
「何も起きないよう、全力を尽くしましょう!」
私が言い切る前に、ローゼマリー様は言葉を被せる。
切羽詰まったような声に、深く沈みかけていた意識を引き戻されたような気がした。
ぱちりと瞬く。
思わず凝視してしまったローゼマリー様の顔は、声と同様に余裕が無かった。何故、そんなにも焦っているのかが分からずに、私は戸惑う。
「私も貴方も、そして部下達も、何も起こさない為にここにおります」
そうだ。これ以上、誰も父の犠牲になってほしくないから、私はここにいる。
今まで苦労してきた母や部下を守りたい。そしてもう、ローゼマリー様にも迷惑をかけたくない。
罪のない人々が犠牲になるのも嫌だ。だから、それくらいなら私が……。
「目的は同じなのだから、どうか一人で思い詰めないで」
「……!」
一瞬、何を言われたか理解出来なかった。
遅れて理解すると共に、目の奥がじわりと熱を持つ。言葉が胸に沁み込んでくるようだった。
私が、止めないといけないと思っていた。
私一人が手を汚せば済むのなら、それが最善だと思い込み、突っ走っていた。
私を心配そうに見つめる母や部下からの視線に、本当は気付いていたのに。
「……はい」
零れ落ちそうな涙を隠す為に、俯いて返事をする。
絞り出した声は、みっともないくらい掠れていた。
困り果てた様子のローゼマリー様は、私が恥をかかないよう、頬が泥で汚れているとハンカチを貸してくださった。
目尻に滲んだ涙をそれで拭い、顔を上げる。今は泣いている場合ではない。
捜索を再開し、祭りの目玉である『力比べ』と『料理大会』の会場を順番に見て回る事となった。
会場は人で溢れ返っていた。誰も彼もが楽しそうに目を輝かせ、活気付いている。普段は静かな環境に身を置く事が多い私にとっても、不快ではない賑やかさだった。
しかし、そんな楽しそうな空気は、乱入してきた無頼漢のせいで一気に台無しとなった。おそらく、否、確実に父の仕業だろう。
身内である私が対処するべきだと思い、前に出ようとするのを、手首を掴んで止められた。
か弱い乙女の力など、本来なら何の妨げにもならない。しかし私はガチリと固まって、動けなくなってしまった。
情けなくも、ローゼマリー様の手の感触に動揺し、狼狽えていた。
あまりにも華奢で、触れたら壊れてしまいそうだなんて、素人の描いた詩のような恥ずかしい表現が頭の中に浮かんだ。
醜態を晒す私をローゼマリー様は笑ったりせず、寧ろ気遣われてしまった。どうやら私は、異性という括りの中にも入れてもらえていないらしい。
キラキラと輝くローゼマリー様の瞳に、私は映っていない。
愛情も、信頼も、ただ真っ直ぐに、伴侶へと向けられている。
そんな彼女の期待に応えるように、颯爽と現れたレオンハルト殿は、暴漢をいとも簡単に退けてみせた。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
そう言ってローゼマリー様は、誇らしげに笑う。
その笑顔は以前に見たまま美しかったが、少しだけ違って見えた。まるで少女が自分だけの宝物をそっと披露するように、微笑ましい愛らしさがある。
自然体な笑顔は、そのままレオンハルト殿への信頼の表れなのだろう。
敵わないなと、改めて思い知らされた。
完敗だ。悪意が蔓延る貴族社会で、体だけでなく柔らかな心ごとローゼマリー様を守っている夫君に、私などが勝てる日など一生来ない。
とうの昔に分かり切っていた事を、今になってストンと理解した気がした。
それからは、怒涛の展開だった。
料理大会の会場へと移動し、我が家の執事を見つけて捕縛した。
執事は父の指示で料理に毒を盛ったらしいが、プレリエ公爵家の人達が未然に防ぎ、事なきを得た。
とはいえ、罪は無かった事にはならない。毒を盛るという行為は、妨害なんて言葉の範疇には収まらない。庶民の命を軽く考えている父には理解出来ないだろうが、人命は人命。領民を愛するローゼマリー様は、決して父を許さないだろう。
父は一線を越えてしまった。
日和見主義のコウモリ揃いである父の腰巾着どもも、流石に庇い切れまい。分家筋や親族の半数は既に父を見限っているが、残りも今回の件で離れるだろう。
温厚なプレリエ公爵閣下の怒りを買った人間など、もう誰も支持しない。
今度こそ、当主の座を譲り渡してもらう。毒にしかならない側近を全て引き剥がし、領地の屋敷で、静かに余生を過ごしていただこう。
「プレリエ公爵家は、生まれ変わったシュレッター公爵家との良好な関係を望みます」
寛大にも、ローゼマリー様はシュレッター公爵家そのものを切り捨てずに済ませてくださった。
ならば私は、そのご恩に報いたい。
この先百年経っても、シュレッター公爵家がプレリエ公爵家の誠実な盟友であれるように。その礎を築く当主となろう。




