公爵令息の葛藤。
※シュレッター公爵家の長男、フランツ視点です。
私、フランツ・フォン・シュレッターは、公爵家の嫡男として生を受けた。
公爵夫妻の間に生まれた唯一の子供ではあるが、愛された記憶は殆ど無い。
政略で結ばれた両親は不仲という言葉すら生温く聞こえる程に冷え切った間柄で、顔を合わせる機会は年に数度あればマシな方。稀に会ったとしても、まともな会話すらない。
父は享楽的な生き方を好む人間で、領地にある家には全くと言っていいほど寄り付かない。本来は当主の役割である領地経営は、妻と家臣に任せきり。自分は取り巻きを侍らせて、酒や若い女に溺れた。
母は才媛と名高い方で、放蕩者の父に代わり、シュレッター公爵家を支える為に嫁いできた。自分にも他人にも厳しく、私の事も、『我が子』ではなく『後継者』として扱う。
寂しくはあったが、私は母を尊敬していたし、認められたい一心で必死に努力した。
座学も剣術も、苦手な社交や礼儀作法も全力で取り組んだ。幸いにも覚えは良い方だったらしく、注目される事が増えていった。
だが私への賞賛には、常に哀れみが付随する。
優秀だが、愛されていない可哀想な子供。
将来有望。しかし、父親に似ていたら、この先どうなるか分からない。
公爵家の子息である私に直接ぶつけてくる人間はいなくても、陰では好き放題に言われているのは知っていた。そして、悪意のある陰口ほど、よく聞こえてくるものだ。
子供だった私はそれらを受け流す術も知らず、聞こえてくる度に傷付いていた。苦しくて、悔しくて、けれど何も出来ない。
ただ耳を塞いで耐えながら、鬱屈とした日々を過ごしていた。
そんなある日、いつものように陰口が聞こえてきたが、それは自分に関係するものではなかった。
人の不幸と醜聞が大好きな奴らは、私とは別の獲物を見つけてきたらしい。
曰く、親子で会話している姿を見た事がない。
父親も母親も、子供に視線すら向けない。
兄と弟は優秀だそうだが、長女の噂は全くと言っていい程聞こえてこない。
表に出せないような、大きな欠陥があるのでは?
好奇と悪意に塗れたそれらの言葉は、畏れ多くも我が国の王女殿下に向けられたものだった。
ローゼマリー・フォン・ヴェルファルト殿下は、社交には殆ど参加せず、公式の場にも最低限しか姿を現さない。
それが憶測を呼び、口さがない者達の噂の種になってしまった。
とはいえ私も、かの方の人となりは知らない。
王妃陛下に良く似た美しい方だとは知っているが、それだけ。はとこという間柄だが、まともに言葉を交わした事すらないのだから。
私は早々に飽きられ、噂される事も少なくなってきたが、王女殿下に対する陰口は中々消えなかった。
高貴な血筋と美しい容姿が妬みを生むのだろう。下品な連中は嬉々として、『容姿しか取り柄の無い、親に見捨てられた王女』という虚像を勝手に生み出した。
ああ、可哀想にな、と他人事のように思った。
私がどれだけ努力を重ねても、『可哀想な子供』から抜け出せなかったように、あの方もきっとずっと、『気の毒な王女』として見られ続けるのだろう。
そう、思っていたのに。
瞼の裏に焼き付いた閃光の如く、かの方は鮮やかに全てを塗り替えた。
始まりは、『海のしずく』という商品だった。
船乗りの病を防ぐのに効果的な保存食を生み出したのが、さる高貴な女性だという噂が広まった。
人伝に聞く容姿の特徴や、商品名の由来、しかも販売元が王女と親交のあるアイゲル侯爵家の人間となると、思い当たる人物は絞られる。
もしやと思いながらも確証が得られずにいたが、次に届いた一報が噂を加速させた。
隣国ヴィントで病が広がり、その収束に尽力したのはなんと我が国の王女殿下だという。
しかも今度は、出処不明の怪しい噂などではない。ヴィント王家からの正式な発表だ。
誰ももう、何も言えまい。
かの方に向けて無能だと、顔だけだと、誰が言えるものか。隣国の恩人と呼ばれる方にそんな言葉を吐けるのは、本物の阿呆だけだ。
ローゼマリー様は己の価値を証明する事で、好き勝手に囀っていた有象無象を黙らせた。
なんて痛快だろう。まるで幼い頃に、隠れて読んだ英雄譚のようだ。
我が事のように胸が騒いで、興奮して眠れないなんて生まれて初めての経験もした。
私はすっかりローゼマリー様に心酔してしまい、かの方は私にとって憧れの英雄のような存在となる。
帰国の知らせを聞いた時には、お忍びで見に行く程だった。
隣国での活躍を聞いた国民達が出迎えに押し寄せ、王城まで続く通りは、それこそ英雄の凱旋を待つような空気となっていた。
今まで王女殿下の事など気にも留めていなかったくせに、調子の良い事だと苦く思ってしまったが、私も所詮、その一人に過ぎないと気付き、軽く自己嫌悪に陥る。
やがて、騎兵に周囲を囲まれた馬車が滑りこんで来た。
王家の紋章が刻まれた豪奢な馬車の窓から、女性が民衆に向けて手を振る。
豊かに波打つプラチナブロンドと、長い睫毛に飾られた蒼天の瞳。白磁の肌に薄紅色の唇がよく映える。以前お見掛けした時よりも、一層美しくなられた。
けれど私が心を奪われたのは顔の造作ではなく、清らかな微笑みだった。
大国の国主に『恩人』とまで言わしめた功績を挙げながらも、驕り高ぶる素振りすらない。
少し恥ずかしそうな笑顔は、ただただ綺麗で。
私は身の程知らずにも、恋に落ちた。
望みの無い恋だ。
爵位だけならば釣り合うとはいえ、あちらは今や王家の珠玉、こちらは斜陽を迎えかけている名ばかりの公爵家。
それに、我が家にはあの父がいる。女性を道具か愛玩物としか見ない、あの父が。
そうして私が何も出来ず、指を咥えて見ているうちに、ローゼマリー様の婚姻が決まった。お相手は近隣諸国に名を轟かせる黒獅子将軍。我が国が誇る最強の騎士、レオンハルト・フォン・オルセイン。
清々しいほど完璧な失恋だった。
いや、失恋と呼ぶのも烏滸がましい。私は最初から最後まで、何もしなかったのだから。
負け犬は負け犬らしく、せめて遠くから幸せを願おうと思っていたのに。そんな密かな願いさえ叶わないかもしれないと気付いたのは、ローゼマリー様の結婚から一年も経たない頃だった。
今まで遊び惚けていた父が、何故か領地の経営に口を出すようになった。それは一見すると、良い傾向かのようにも思えるが、とんでもない。やる気に満ちた無能は、怠惰な無能の何倍も有害だ。
横這いだった経営はあっという間に傾き、見る見るうちに資産が減っていく。
母や私が止めても、父は聞く耳を持たない。当主の権限で強行した結果、我が家はいくつかの事業を手放す事となった。
「馬鹿な……!! 私があんな小娘になど、負けるはずが無い!!」
怪しい儲け話に踊らされ、紙屑同然となった権利書を、父はぐしゃりと握りつぶす。気が触れたかのように頭を掻きむしる様を、冷めた目で一瞥した。
小娘とは、ローゼマリー様の事だろう。やはり父は、かの方を敵視している。
結婚と共に公爵位を賜ったローゼマリー様は、順調に領地を発展させている。
しかも世界初の大規模な医療施設の責任者となり、そちらの運営も好調。他国からも注目され、視察の申し込みも後を絶たないと聞く。
そんな方と張り合うなど無謀だというのに、父はローゼマリー様の性別や年齢を理由に、自分の方が上だと思い込んでいるのだから救いが無い。
「あの調子に乗った娘に、私の方が優れていると見せつけてやらねば! 何か……、何かいい案は無いのか!? まだあの娘も見つけていないような、他国の事業……。そうだ、珍しい織物の工場があったな? あれは」
「それでしたら、既に手放しましたが」
「は!? 何を言っておる!?」
「高く買い取ってくれる者が見つかったと言って、譲ってしまわれたのは父上です」
フランメ王国の北東部に住む民族に伝わる織物で、中でも絨毯は丈夫な上に美しく、美術品としての価値もある。
但し、複雑な模様を織り上げるには日数がかかる為、大量に注文は受けられない。投資しても目に見えるような成果を上げられる事業ではないが、徐々に顧客も増え、注目度も上がっている途中だった。
これから化ける金の卵だったのに。
損失分を取り返す事に必死だった父は、私や母の制止を振り切り、とっとと売り捌いてしまった。
それを、何を今更。この男は。
「な、な、何故止めなかった!? お前は何をしていた!」
「止めましたが、聞いていただけなかったようですね。正に、今この時のように」
「っ……!! おま、お前……!! 父に向って」
「頭が冷えてから、またお話ししましょう。では、私はこれで」
癇癪を起す父を放置し、私は部屋を後にする。
物を壊す音が中から聞こえてきたが、振り返る気力も無かった。
何故、あの人はああなんだろう。
どうして私は、あの男の子供なんだ。
幾度目かの葛藤が、頭の中をぐるぐると巡る。
子供の頃は父に、愛してほしかった。母を大切にしてほしかった。領民を大切にする、尊敬できる父親になってほしかった。
しかし今はもう、多くは望まない。父に望む事はただ一つ。
余計な事はしてくれるな、それだけだ。




