或る密偵の感慨。(2)
※前回に続き、密偵のカラス視点です。
大木の枝の上から、辺りをグルリと見回す。
周辺諸国の情勢も落ち着いたせいか、暗殺者どころか、ネズミ一匹紛れこんでいない。退屈な夜になりそうだと思っていたが、予想外に面白いものを見られたので満足だ。
残りの時間はのんびり消化しようと木の幹に背を預けると、下の庭園から小さな話し声が聞こえてきた。
間諜が敵地でお喋りを楽しむ訳がないので、使用人か見回りの騎士、それか大広間から抜け出した招待客だろう。
ここでは声が遠くて聞こえない。
スルリと音も無く大木から下りる。身を潜めながら声の方向へと近付いた。
薔薇の茂みの向こう側、招待客らしき二人が向かい合っているのが見える。忍ぶ仲の男女が隠れて盛り上がっているのかと思いきや、そんな様子では無い。
「放っておいて」
険のある声で言い放った若い女の姿に、見覚えがある。
確かバールケ伯爵家の次女、名はサンドラ。姫さんの旦那に色目を使っている女だ。
「貴方には関係ないでしょう」
突き放すような言葉を投げるサンドラに対し、男は眉間に深い皺を刻んだ。
「関係無い他人でありたかったよ」
男は、冷ややかな目を向ける。サンドラは羞恥にか、怒りにか、カッと顔を赤らめた。
男の方は、シュレッター公爵家の嫡男。名はフランツ。
国王陛下の愚かな従兄弟の息子で、癖のない栗色の髪と吊り上がり気味の青い目は父親譲りだ。しかし、幸いにも中身は似ていない。才媛の誉れ高い奥方に育てられただけあり、聡明と評判。
長身で大人びた顔立ちをしているが、年齢はサンドラと同じくらいだったはず。
「父が愚かなのは今に始まった事では無いが、君まで一緒になって恥を晒すとは思わなかった」
「……別に、ダンスくらい」
「夫人の目の前で夫にダンスを強請るなど、未婚の淑女のする事では無い」
バツが悪そうに目を逸らしたサンドラの反論を、フランツはピシャリと撥ね除けた。
「周囲は君を、愛人狙いだと認識しただろうな」
「今更よ。疵物となった時点で、まともな縁談など望めないわ」
目を伏せたサンドラは、諦観と自嘲が混ざった笑みを浮かべた。
二ヶ月と少し前に、ヘル侯爵家の嫡男とバールケ伯爵家の次女の婚約が解消されたという情報はオレのところにも届いている。
表向きは円満な解消だが、実情が異なるのはサンドラの表情を見れば明らか。
美しい少女が哀しげに俯く様は、多くの人間の庇護欲を掻き立てるだろう。しかし、フランツは慰めるどころか、不愉快だと言わんばかりに目を眇めた。
「被害者ぶるのは止めろ。あちらに非があるとはいえ、君に落ち度が無かったとは言い難い」
「! あの人が心変わりしたのに、何故、私が責められなければならないの!?」
「君の元婚約者が悪いのは確かだ。しかし、君だってずっと、別の男性を想い続けていただろう」
「心の中で想うくらいは自由でしょう……!」
「想うだけならな。しかし君は事ある毎に、彼とあの方を比べていた。違うか?」
「……そ、れは……」
傍観しながらも、オレはヘル侯爵家の嫡男とやらに少しばかり同情した。
姫さんの旦那は、同じ男として嫉妬する気も起きないくらい完璧な男だ。国一番の剣の使い手というだけでも十分なのに、頭の回転も速いし、人望も厚い。加えて容姿も滅多に見ない美男子とくれば、張り合う方が無謀というもの。
そんな男と始終比べられるのは、そりゃあしんどいだろうよ。
「君にとっては愛のない政略結婚だったのだろうが、それでも、信頼関係を築く努力くらいはするべきだったな」
「……」
サンドラは何も言えずに唇を噛む。
バールケ伯爵家と縁を結んでも侯爵家には何の得もないし、おそらくヘル侯爵家の嫡男がサンドラを見初め、整った婚約だったのだろう。
男の方には愛があっても、女の方には無かった。そして女は与えられる愛情に胡坐を掻き、いつしか男の愛は尽きた。で、別の女へと癒しを求めたと。
よくある痴情の縺れだ。
そこに加えて、家同士の問題も絡んでくる。
ヘル侯爵家は交易で財を成した家だ。現在、商業の要となりつつあるプレリエ領とも当然、取引がある。しかもヘル侯爵家の領地から王都を目指すには、プレリエ領を必ず経由せねばならない。
彼等からすればプレリエ公爵家は、絶対に敵に回したくない相手。
しかしサンドラの実家であるバールケ伯爵家は、プレリエ公爵家を敵視するシュレッター公爵家の血縁であり子飼いだ。
ヘル侯爵家の嫡男の新たな恋人が家格の釣り合う相手ならば、親は『待ってました』とばかりに、サンドラとの婚約を解消させる為に手を尽くすだろう。
「……でも、もう後悔したって遅いわ。どうせ後妻か愛人にしかなれないのなら、せめて、ずっと好きだったあの方がいいの」
「呆れたな」
フランツは言葉通り、呆れを隠しもしない眼差しをサンドラへ向ける。
「プレリエ公爵夫妻の間に割り込めると? あのプレリエ公爵閣下に敵うと本気で思っているのか?」
「!」
心底不思議そうな顔を向けられ、サンドラは言葉に詰まる。
身の程を弁えろと言外に告げるフランツに、容赦ないなと笑いそうになった。
だが実際、オレも同意だ。
どうして姫さんに敵うと思ったのか、不思議でならない。
ちょっとばかり顔が良いだけの女……しかも、その自慢の容姿ですら姫さんの足元にも及ばないというのに、どうして挑もうと思った?
「敵わないと分かっていても、簡単には諦められなかったのよ。私だってレオンハルト様に、あんな風に大切にされたかった……」
確かに旦那は、姫さんを誰よりも大切にしている。
愛妻家としてのレオンハルトを見て、憧れる女も多いのだろう。
しかし残念ながら、執拗とも言える愛情と庇護欲は姫さん限定。他の人間には発揮されない。
「最愛の妻に無礼を働いた相手を、大切にするはずがないだろう。レオンハルト様は温厚な方だが、敵には容赦ないと聞く」
かつて黒獅子と呼ばれた男が、敵に容赦などするはずが無い。
姫さんの敵と見做されたら、きっと躊躇いなく喉笛を噛みちぎられる。
「……っ」
会場での冷たい対応を思い出したのか、サンドラは泣きそうに顔を歪めた。
「君は潔く諦めるべきだった」
「……貴方だって、まだあの方が好きなくせに!」
正論ばかりをぶつけてくるフランツを黙らせるように、サンドラは叫んだ。的外れな反論かと思いきや、フランツは否定しなかった。
かといって焦る様子もなく、淡々とした声で「だからなんだ」と返す。
逆にサンドラの方が戸惑いを見せる。
「えっ、だから……その……」
「私は自分がレオンハルト様に取って代われるなどと、愚かな夢は見ていない。身の程を弁えた結果、心の中に留めて、想いが消えるのを待っている」
マジかー……。
ちょっと姫さん、いい加減にしてくれ。有望な若者を何人誑かせば気が済むんだよ。
遠い目をしながら、夜空を見上げた。
極東にある島国の王子の初恋を奪ったという話は、オレも聞いている。
姫さんはただありのまま生きているだけなので、責任を追及されても知ったこっちゃないだろうが、それにしても……。
「父がアレなのだから、そもそも合わせる顔すらないがな」
フランツは瞳を伏せ、吐き捨てるように零した。
「さっさとアレを失脚させて、爵位も国に返してしまいたい」
「あ、貴方、そんな言葉を伯父様に聞かれたら、大変な事になるわよ」
フランツは無表情のまま、とんでもない発言をする。サンドラが慌てて諫めるが、気にする素振りすら見せない。
「いっそ絶縁して欲しいくらいだ」
「公爵家の子息が、平民として生きられる訳ないでしょう?」
「まぁ、簡単ではないだろうが、ある程度の準備はしている。どうにかなる」
絶句するサンドラを見て、フランツは少しだけ口角を上げる。今日、初めて見せる笑みだった。
「冗談だ。アレを野放しにする訳にはいかないからな」
「フランツ……」
「君は家に囚われる必要はないのだから、他の道も考えたらどうだ。結婚ばかりが女性の幸せではない」
「……無理よ。何の特技もない貴族の女性が働ける場所なんて、殆ど無いわ」
男尊女卑の風潮が変わってきつつあるとはいえ、未だ、貴族の女性が就ける職業は限られている。
パッと思い付くのは王城のメイドや家庭教師だが、どちらも伝手や高い能力が求められるので、誰にでも出来るとは言い難い。
「プレリエ公爵領では、未婚の女性も多く働いているそうだ。庶民も貴族も関係なく、どの女性も生き生きとしているらしい」
「!」
「敵視するのではなく、ちゃんと真っ直ぐにプレリエ公爵閣下を見てみろ。どうしてレオンハルト様があの方を愛しているのか、分かるかもしれないぞ」
フランツの言葉を聞いて、サンドラは僅かに俯く。
瞳に迷いはあったものの、表情は穏やかだ。さっきまでの自暴自棄な彼女とは、明らかに何かが変わっていたように見えた。
少し早いですが、今年一年お世話になりました。
来年もどうぞ宜しくお願い致します。




