或る密偵の感慨。
※密偵のカラス視点になります。
遠く、楽団の奏でる音楽が響く。
夜など訪れていないかのように煌々と輝く大広間から、カーテン一枚隔てた向こう側。喧噪から外れたバルコニーには二つの人影があった。
「……そうですね」
王太子は小さな声でポツリと呟く。
愁いを帯びた表情は、そのまま写し取って額縁に飾りたい程に美しい。観賞しているのが、木にとまった薄汚い鴉だけである事が申し訳なくなるくらいだ。
「レオンハルトに任せておけば安心です。……少し悔しくはありますが」
王太子は苦笑いを浮かべる。
「私自身が見舞うのは止めておきます。しかし、伝言くらいはかまいませんよね? 体調が心配ですし、そろそろローゼを帰らせてあげたい」
国王陛下は王太子を一瞥し、軽く頭を振った。
「放っておいても帰るはずだ」
訝しむような顔をした王太子の疑問に答えるように、陛下は言葉を続ける。
「髪を乱してきたからな。侍女に直させるにしても、同じ髪型にするには時間が掛かる」
「……は?」
何でもない事のように陛下は言ってのけた。
王太子は理解が追い付かないとばかりに唖然とした顔をしているが、盗み聞きしているオレも、おそらく同じ顔をしている。
「アレは頑固だから諦めない可能性はあるが、レオンハルトが適当に言いくるめるだろう」
「いや、待ってください」
淡々と話す陛下に、王太子が待ったをかける。
「髪を、乱す……? いったい、ローゼに何をしたんです」
「頭を撫でただけだ」
「は?」
オレの口からも、王太子と同じ音が洩れそうになった。幸いにもすんでの所で飲み込んだが、それくらい衝撃が大きかった。
陛下が姫さんの頭を撫でた?
人間味の薄い……というか、同じ生物である事すら怪しく思える陛下が?
父親としての自覚が無い以前に、家族に向ける情すら存在していなさそうだったあの陛下が?
驚くべき箇所が多過ぎて、最早、どこから突っ込んでいいのかも分からない。
第三者として聞いているオレですらここまで動揺しているのだから、当事者であった姫さんの困惑は如何ばかりか。
何かの罠か、それとも天変地異の前触れかと恐れ戦く姿が容易に想像出来る。小動物の如く震えているだろう姫さんに、心の中で同情した。
「ローゼの頭を撫でたのですか? 貴方が?」
「悪いか?」
オレが現実逃避している間にも、会話は進む。
無表情なのに、ふてぶてしさを感じる顔で、陛下は鼻を鳴らした。
「父親が娘の頭を撫でる事が、悪いのか?」
王太子はぐっと言葉に詰まるが、顔には『悪い』と大きく書いてある。
糾弾出来るだけの正当な理由は無くとも、心情的には認めたくないようだ。
王太子は姫さんの兄だが、父親代わりのような存在でもある。
昔から甘える事が苦手だった姫さんを子供扱い出来るのは、ずっと見守り続けてきた彼の特権。頭を撫でるという行為は、その最たるものだったはず。
子供に無関心だった実の父親が、今更、当然の権利だと割り込んできたら腹が立って当然だ。
王太子の気持ちを察しているだろうに、煽るように言葉を重ねる陛下は、本当に性格が悪い。そんなんだから子供達に嫌われるのだと言ってやりたい。
オレもまだ命が惜しいから、言わないけれど。
「悪いわ」
不毛な親子喧嘩が繰り広げられる場に、凛とした美声が割って入る。
現れたのは目も眩むような美女。
姫さんによく似た顔立ちの女性……王妃は、吊り上がり気味の目を眇め、陛下と王太子を睨んだ。
「抜け駆けしてローゼに会いに行って、しかも頭を撫でてきた? そんな事、私だって滅多に出来ないのに……羨ましい」
真面目な顔をして何を言うのかと、オレは呆気に取られる。
「その上、主催者である王族が二人も、こんな場所にコソコソと隠れて。悪いに決まっているでしょう」
「……義母上。申し訳ございません」
「次から次へと、騒がしいな。これでは、ゆっくり休憩も出来ん」
悪戯が見つかった子供のように、シュンとした王太子は可愛げがある。しかし陛下は反省した素振りすら無く、堂々とした態度だ。
王妃の苛立ちを表すように、柳眉が吊り上がる。ヒールの音を響かせながら陛下へと近付いた王妃は、にっこりと凄味のある笑みを浮かべた。
手を伸ばし、陛下の手からグラスを奪い取る。
「あら。休憩したいのでしたら、広間の玉座でゆっくりとお寛ぎくださいませ。貴方は人の目など気にする方ではないのですから、何処で休んでも一緒でしょう?」
『何もしないのなら、せめて見世物にでもなってろ』という王妃の心の声が聞こえた気がした。
ブチギレた王妃の笑顔は、怒った姫さんのソレと良く似ている。
容姿は似ていても、それ以外は全く違うと思っていたが、意外と中身も似ているのかもしれない。
「……」
「……」
無言の睨み合いが数秒続く。
先に折れたのは陛下だった。諦めたように溜息を一つ吐き出すと、王妃の横を通り過ぎる。広間へと戻っていく陛下の後ろを、王妃と王太子が追う。
誰もいなくなったバルコニーを眺めながら、オレは一つ息を零す。
信じられない光景を一気に見させられたせいか、疲労を感じた。
不愛想で不器用な父親と、それを尻に敷く母親、反抗期の子供達。何処にでもいそうな普通の家族の、ありふれた遣り取り。
しかしそれが、『あまりの美しさに人間味を感じられない』と言われている王家の姿だと考えると、話は大いに違ってくる。
誰に言っても信じやしない……いや、昔のオレに聞かせても、一笑に付して終わりだ。
事実、国王一家は数年前までは、普通の家族では無かった。人形じみた外見に相応しい、冷たく無機質な関係だったはずだ。
決して当たり前などではない。姫さんが諦めず、血の滲むような努力を重ねてきたからこそ今がある。
凄ぇ人だよ、ほんと。
風が吹いたら折れてしまいそうな風情なのに、気合いと根性で険しい山すら登ってみせた少女の顔を思い浮かべながら、そっと苦笑した。




