第一王子の焦り。
※ネーベル王国第一王子 クリストフ・フォン・ヴェルファルト視点となります。
その日、その時。私、クリストフ・フォン・ヴェルファルトが、国王の執務室にいたのは偶然だった。
ラプター王国との貿易に関する協定見直し案について、目を通してもらう為だ。
ラプター王国の先王の暴挙により我が国が行った経済制裁は一年も経たずに解除されたが、それでも十分な効果を発揮した。過去の栄光を取り戻す事は、もはや不可能に近い状態にまで、彼の国の国力は削られている。
元々、気候や土壌を考えると生きていくには厳しい土地だ。一度転ぶと、立て直しが難しい。現国王の尽力により回復傾向にはあるものの、天候不良や虫害等、不測の事態が一つ起これば目も当てられない惨事となる。
食料や燃料等の関税や規制について、内容を見直す必要があると私は考えた。
しかし現状、問題は山積みだ。数年前まで敵対していたラプターを、未だ快く思わないネーベル国民も多い。高位貴族からは、国力は限界まで削ぐべき、生かさず殺さずが望ましいという意見も出ている。
非人道的にも思えるが、それだけ根深い問題だとも言えた。
国民感情は理解出来る。
しかし、このままにも出来ない。
それを国王に進言したところ、改定案を纏めろとの命令を受けた。
両国の問題を踏まえた上で、折衷案を考えろと。
かなりの難題だ。
ヨハンという頼もしい補佐がいなければ、頭を抱えていた事だろう。彼はヴィント王国への留学経験や商人らとの交流を活かし、私よりも生きた情報を持っている。知識も豊富な上に、外交も上手い。
ヨハンの手を借り、どうにか形にして持ち込んだのが三十分前。
国王は席を外していたが、数分も経たずに戻ってきた。
ヨハンと私はソファに並んで座り、対面に国王が腰掛ける。
表面上は冷静を心掛けながらも意気込んでいた私だったが、すぐに出鼻を挫かれた。
国王が動かない。
待たされる事には慣れたが、今日はいつもと違う。私が机の上に置いた書類には手を伸ばさず、かといって別の案件に取り掛かっている様子でもない。
無駄に長い足を組んだ国王は、視線を斜め下へと固定したまま動きを止めている。
相変わらずの無表情だが、伏せた睫毛が瞳に影を落とし、愁いを帯びているように錯覚させた。無駄に絵になる。しかしよく考えてほしい。容姿が整っているからこそ芸術的に見えるのであって、実態はただ呆けているだけだ。
合理主義の塊のような男が、ぼんやりと考え事をしている。
これは天変地異の前触れだろうか。
「兄様、出直しましょう」
隣のヨハンが、潜めた声で囁く。
様子を窺うと、胡乱な目を国王へと向けていた。眉間の皺と眇めた目、引き結んだ唇が機嫌の悪さを雄弁に語る。
今にも舌打ちしそうに、苛立っていた。
お手本のような笑顔で愛想よく振舞う、品行方正な王子であるヨハンの表情を崩せる人間はそう多くない。
良い意味では姉であるローゼ、そして悪い意味では国王が特例なのかもしれない。
ヨハンに同意して退席したいのを、ぐっと堪えた。
「陛下」
声を掛けても、応えはない。
しかし間を空けてから国王は、緩慢な動作で顔を上げた。
「改定案をお持ちしましたが、日を改めた方が宜しいでしょうか」
そこで漸く、国王の視線が書類へと向く。手を伸ばして持ち上げたものの、それだけ。今、目を通す気はなさそうだ。
「預かる」
端的な言葉に、ヨハンの額に青筋が浮かぶ。膝の上で握り込んだ拳が、「なら、それをさっさと言え」と語っていた。
「では、これで僕達は失礼します。行きましょう、兄様」
笑顔で憤っているヨハンに倣い、私も立ち上がる。
「待て」
「……なんでしょう」
ヨハン程あからさまではないが、私も態度が悪い自信がある。しかし国王は一切気にした素振りもなく、「お前達に報告がある」と淡々と告げた。
「……手短に願います」
渋面を作ったヨハンは、溜息と共に苦々しい声を吐き出す。
国王は、思案するように軽く首を傾げてから、口を開いた。
「アレが懐妊した」
「…………は?」
異口同音。長い、長い沈黙の後に零した音は、図らずもヨハンと重なった。
呆然と立ち尽くす私達が見えていないかのように、国王は書類を手に立ち上がる。執務机の方へ向かう為に背を向けた。
「以上だ。行っていいぞ」
そんな馬鹿な。
言葉の示す重要度と国王の軽さが結び付かずに、脳が混乱する。
犬でも追い払うように手を振られて、思わず声を荒らげた。
「ちょっと待った! 今、なんと!?」
肩越しに振り返った国王の眉間に皺が寄る。煩いと言いたげだが、知った事か。
いくら『手短に』と言われたとしても限度があるだろう。
「アレが懐妊したと言った」
「アレとは、まさか……」
「お前の妹で、私の娘だ」
受けた衝撃の大きさに立ち尽くす私の横で、ヨハンが膝から崩れ落ちる。
しかし手を貸すような余裕は、私にも無かった。
ローゼが、妹が妊娠。
私の大切な妹が、母親になる。
頭まで情報が届いた瞬間に湧き上がった感情は、一言では表し難い。喜びと寂しさと、色んな感情が混ざり合っている。
結婚したという事実を理解していても、ローゼは変わらず私の可愛い妹のままだという考えが頭の隅にはあった。
大人になり、疾うに私の手を離れていたのだと再認識するのは、やはり寂しい。
でも同時に、嬉しくもある。
私がその場で足踏みをしている間に巣立ち、家族を持つようになったローゼが誇らしい。それにローゼとレオンハルトの子供ならば、さぞ可愛らしいに違いない。
男の子だろうか。女の子だろうか。
どちらに似てもきっと、才能溢れる子になるだろう。いや、ローゼはたまに抜けているところがあるから、意外と不器用な子かもしれない。
どんな性格でも、どちらに似ていても、才能があろうと無かろうと構わない。母子ともに元気であれば、それだけで。
そこまで考えて、ハッと我に返る。
現在のローゼの体調はどうなのだろうか。公爵領には優秀な医師や薬師が揃っているはずだが、タウンハウスにも連れてきているのか。
「陛下。ローゼの体調はどうですか? もし必要なら、侍医の手配を……」
声を掛けても、国王からはまともな反応が返ってこない。
執務机に書類を置き、椅子に深く腰掛けた国王は、相変わらずぼんやりしている。さっきから、いったいどうした。
まさかと思うが、この男にも娘の妊娠に衝撃を受ける感性が備わっていたのか?
喜んでいるのかどうかは定かでないが、様子がおかしいのは確かだ。頬杖をつき、物思いに耽る様子を不躾に眺めていると、視線だけがこちらを見た。
「公爵家にも医者はいる。必要があれば手配するが、今はあまり騒がせるな。妊婦の心労に繋がる」
「…………かしこまりました」
貴方の辞書にも気遣いという言葉があったのか、という言葉が喉まで出かかった。どうにか飲み込み、平静を装う。
「姉様の体を考えるなら、城の離宮に迎え入れるべきでは?」
いつの間にか立ち直ったらしいヨハンが口を挟む。
ローゼへの依存度を考えると、よくこの短時間で持ち直したものだと思うが、目尻には薄っすら涙が浮かんでいた。
どうやら衝撃を心配が上回り、冷静になったらしい。
「プレリエ領の医療水準が高いのは存じておりますが、王都のタウンハウスでは万全とは言えないでしょう。生まれるまで……いや、子供が歩けるようになるまでは、王宮の侍医がついていた方がいい」
前言を撤回する。全く冷静になっていない。
ヨハンはローゼを何年、城に閉じ込めるつもりなのか。子供が歩けるようになるまでと言いながら、次は話せるようになるまで、自分の身を守れるようになるまでと理由をつけて延ばすのではないかと考え、寒気がした。
「あの跳ねっかえりが、そのような事を承知するものか」
国王は呆れ混じりに呟き、鼻で笑う。
「今は長期の馬車移動は控えても、安定期に入れば領地に帰るだろう」
「そんな……」
ヨハンは蒼褪めた顔で俯く。
すぐに駆け付けられない距離なんて嫌だと絶望しているが、私もそれは同意する。出来れば、何かあった時に力になれる位置にいてほしい。
だが、プレリエ領が我が国で……否、世界で最も出産に適した土地だろう。
「私達が出向けばいい」
ヨハンの肩を叩いて告げると、恨みがましい目が返ってきた。
「王族全員が王都を離れるなど、許されないでしょう。誰かは貧乏くじを引く事になりますよ」
「……」
確かに、と胸中で呟く。
私とヨハンは揃って、国王をじっと見つめた。
「……この国の太陽たる国王陛下がいらっしゃれば、十分ですよね?」
「見舞いは僕達のような若輩者にお任せください」
義母上は外せない。ご本人も希望するだろうし、ローゼも望むはず。
でも、出来れば私も傍にいたい。姉を溺愛しているヨハンも然り。消去法で残るのは、一人だけとなる。
国王は不愉快そうに、薄青の瞳を眇めた。
「太陽など、思ってもいない事を言うとはな」
貼り付けた微笑みで黙殺すると、国王は僅かに口角を上げる。珍しくも、笑っていると認識出来る角度まで。
それに驚いて、目を見開いた。
「この席はそれほど重要なものではない。少なくとも太陽と違い、替えが利く」
私とお前のようにな、と続けられて絶句する。
冗談を言う姿など、想像した事もなかった。そんな気安い関係ではないし、なりたくもない。しかし今ばかりは冗談であってほしい。
玉座に価値を見出していない男が、孫の誕生をきっかけにして譲位を望む。
そんな事はあり得ないと、誰か笑い飛ばしてくれ。そう祈るように思った。




