或る密偵の憂慮。
※国王直属の密偵、カラス視点となります。
姫さんが倒れた時のオレは、とんでもなく役立たずだったと思う。
目の前の光景が信じられなくて、頭の回転も動きもドン引きするくらい遅かった。
働かない頭が、どうにか『手を伸ばせ』と命令してくるのに従い、崩れ落ちる姫さんを抱き留める。
その時の己の鈍重さを振り返ると、ギリギリでも間に合ったのは奇跡に近い。
呆然と佇むオレの向かいで、ラーテも同じような阿呆面を晒していたが、笑う気も起こらなかった。
駆け付けた旦那が抱き上げても姫さんは目を開けず、されるがまま。人形のように真っ白な顔色を見て、背筋が凍るような恐怖を覚えた。
当主夫妻の気質を反映するように、いつものんびりと穏やかな空気が流れるタウンハウスが、俄かに騒がしくなる。
夫婦の寝室に旦那が姫さんを運び込んでから、三十分足らず。
鬼気迫る形相をした使用人等が担ぎ上げそうな勢いで、医者と薬師を連れてくる。街から帰って来たばかりの彼等は荷物を放り出して走って来たのか、息せき切らしていた。
誰も彼もが必死な様子で駆けまわっている。
それが言外に事態の深刻さをオレに突き付けているようで、眩暈がした。
さっきまで元気に見えたのに。
呆れて、怒って、笑ってくれていたのに。
「カラス」
物陰に潜むオレを、ラーテが呼ぶ。
隠密中に密偵が声を出すなど、通常ならあり得ない。しかし、寝室前の廊下に集まった使用人や護衛等は誰もオレ達に気付いた様子はなかった。
ついでに部屋を追い出されたらしい旦那も、強張った顔で立ち尽くすだけ。
それどころではないのだろう。オレも同じだった。
オレに語り掛けた筈のラーテは、こちらを見ようともしない。部屋の扉を凝視する横顔からは表情が抜け落ちていて、声にも温度が無い。
姫さんの前でへらへら笑っていた男とは、まるで別人。暗殺者時代に戻ったかのような様子のラーテは口を開いた。
「領地に戻ってじいさんを連れてくる。連絡用に鳥を貸せ」
じいさんとは、おそらく公爵家のお抱えの医者だろう。
高齢の身で長距離の馬車移動は辛かろうと、王都への同行を断念したのだろうに。馬車どころか裸馬に縛り付けて連行されそうな勢いだ。
呆れながらも止める気は起きない。
コイツが言い出さなければ、オレが動いただろうから。
「っ!?」
立ち上がろうと足に力を込めた、その時。
寝室の中から、悲鳴じみた姫さんの声が上がった。
間髪入れずに、姫さんの旦那が部屋に飛び込む。
でもオレは凍り付いたように動けなかった。情けない話だが、竦み上がっていたんだと思う。
開いたままの扉から、話し声が聞こえる。使用人と護衛は、身を寄せ合うように戸口に集まって、中の様子を窺っていた。
雑談に紛れた声も密談も拾い上げられる無駄に高性能なはずのオレの耳は、職務を放棄している。
知るのが怖いなんて、密偵失格だ。
聞きたくないと拒むオレの意に反し、辺りが静まり返る。
大勢の人間がいるのに、物音一つしない不自然な状況の中、姫さんの声が聞こえた。
「妊娠したの」
張り上げた訳でもないのに、その言葉はやけに良く通った。
は、と息を洩らすような声は、オレのものだったのか、ラーテのものだったのか。
にんしん、と言葉を繰り返す。
姫さんの体調不良とその単語が上手く結びつかずに、発音も定かでないまま、何度か舌の上で転がした。
「……ご懐妊……?」
棒立ちしていた使用人等の中で、誰かが呟く。
互いの顔を見合わせていた彼等の頬が、急速に色付く。喜びが弾けたように満面の笑みで手を取り合い、『お子様が!』、『慶事だ!!』と口々に騒ぎ出す。
ぴょんぴょんと跳ねまわる姿は、普段、粛々と仕事を熟す有能な侍女達とは思えなかった。
姫さんに長い事仕えている護衛騎士、クラウスは、力が抜けたようにその場にしゃがみ込んでいた。
片手で顔を覆い、背中を丸めた彼は、一生分かという長い溜息を吐き出した後、ぽつりと「良かった……」と洩らす。
クラウスは姫さんに、忠誠以上の感情を抱いていたはず。
しかし今のクラウスの表情と言葉に嘘はないように思う。主人の無事と慶事を、共に喜んでいるように見えた。
いつかの船旅で誰彼構わず噛み付いていた狂犬は、いつの間にか、本物の忠義の騎士へと成長していたらしい。
「こども……」
ラーテが、ぽつりと単語を零す。
さっきまでの研ぎ澄まされたナイフのような表情は幻だったかのように、呆けた様子で壁に凭れかかる。
覚束ない足取りでよろける男を、情けないと笑う事は出来ない。それは即ち、鏡を指差して嘲るのと同義だからだ。
全身から力が抜けて、その場に座り込みたくなる。
姫さんが重病でなくて、本当に良かった。
安堵に胸をなでおろす。
喜びに沸く廊下を、ぼんやりと眺めた。
笑顔の使用人等は、産着がどうの、子供用のベッドがどうのと騒ぎ立てている。まだ生まれてもいないのに、気が早い事だ。
呆れるのと同時に、不思議な心地になる。
暗部に生きるオレが、このような場面に立ち会うとは思わなかった。
妊娠を喜ぶという、ごく当たり前の光景を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
貧民街でも花街でも戦場でも、妊娠は悲劇だ。
明日の我が身すら保障されていない環境で、別の人間の命を抱える余裕などない。薄汚れた路地裏や道の片隅で、何度、冷たくなった小さな骸を見た事か。
かといって余裕があれば喜ばれるのかというと、そんな単純な問題でもなかった。
高位貴族の子供であっても、血統や生まれた順番、時には性別で、簡単に命の危機にさらされる。
どれだけの子供がこうして、愛され、喜ばれ、待ち望まれるのか。
こうあるべきだと理想論を語っても、現実が追い付く日は遠い。
だからオレはらしくもなく、クラウスの言葉に心の中で同意した。
本当に、良かった。
姫さんの子供が、皆に祝福されて生まれてくるだろう事が嬉しい。
オレやラーテみたいに、ゴミ溜めで死にかけた子供がいる事なんて知らなくていい。自分の幸運を噛み締めろなんて、言わない。
当たり前の顔で皆の愛情を受け止めて、何の憂いも無く、でかくなればいい。怒って、笑って、せいぜい幸せになればいい。
クソガキに育ったなぁって、オレを呆れさせてくれ。
「お嬢さんの子供か。いいなぁ」
「……それは何処にかかる言葉だ」
感傷めいた気持ちに浸っていたのを、ラーテの声に邪魔された。
どうとでもとれる言葉が引っ掛かり、鋭い視線を投げる。
ラーテが姫さんに手を出すとは思っていない。コイツは姫さんに執着しているが、同時に神聖視している節がある。
だから、旦那を羨ましがっているという訳ではないだろう。
でも単純に、『幸せそうでいいな』という意味だとも思えない。
コイツがそんな、まともな感性をしている訳がない。
ラーテは「ん?」と首を傾げる。
性格は容姿に反映するとは限らないというお手本のように綺麗な顔をした男は、笑顔で爆弾を投げ寄越した。
「お嬢さんから生まれるなんて、羨ましいなぁって」
「…………」
脳が言葉を理解するのを拒んだ。
しかし体は正直だったらしく、ぞわりとした怖気と共に鳥肌が立つ。
今、とんでもなく、おぞましい言葉を聞いたような気がするんだが空耳だろうか。
絶句するオレを気にする素振りもなく、ラーテは愁いを帯びた表情で溜息を零した。顔の造作は整っているので、やけに絵になる。
しかし話の内容は気が触れているとしか思えなかった。
「オレもお嬢さんの胎から生まれたかった」
「…………」
気色悪過ぎて、突っ込むのも嫌だ。
遠い目をしたオレは、懐の暗器を握りながら思う。
公爵家の密偵一人減らしても、姫さん、許してくれるかな……?




