転生公爵の驚愕。
ふ、と意識が浮かび上がる。
瞼を押し上げると視界に入ったのは、見慣れた寝室の天井だった。
あれ……?
わたし、どうしたんだっけ?
ぼんやりとした頭で、己に問う。
城から帰った後、庭園でレオンハルト様とお茶をした。彼が席を外している間に、カラスが現れて、と記憶を一つずつ辿った。
それから、どうしたんだっけ?
レオンハルト様が買ってきてくれたケーキの種類や、カラスとラーテの口論の内容など、細かな部分まで思い出せるのに、その後の記憶が唐突に途切れている。
時間もそれなりに経過しているらしいと、周辺を見回して気付く。室内は薄暗く、カーテンの隙間から覗く景色は地平線の僅かなオレンジ色を残し、藍色に染め上げられていた。
居眠りをした記憶はないから……もしかして、倒れた?
思い当たった可能性に紐づき、いくつかの記憶が蘇る。
城で顔色が悪いと指摘された事や、レオンハルト様が心配して、医者を手配しに行った事。記憶が途切れる寸前の、レオンハルト様の悲痛な声を思い出して血の気が引いた。
まずい……!
また私、レオンハルト様に心配かけてしまったかも!?
体を起こそうと身動ぎをすると、傍で息を呑む音がした。
「ローゼ……?」
呆然とした声は、誰のものかと考える前に分かる。
ガタンと派手な音を立てて、椅子が倒れた。私の枕元に手をついて覗き込んだレオンハルト様は、酷い顔をしている。
下手をしたら倒れた私よりも、顔色が悪い。雄々しい美貌は、蒼褪めるのを通り越して白に近いほど血の気が引いていた。
「ローゼ!」
「レオン……」
「気分は? どこか痛くはないですか?」
必死な顔のレオンハルト様の問いに、頭を振る。
やっぱり心配させてしまった。
悔いる気持ちはあれど、寝起きの頭では上手く言葉が出てこない。精悍な頬に手を伸ばすと、上から大きな手を重ねられた。
皮膚が硬く力強い手は、驚く程に冷たい。
それが彼の恐れを表しているようで、胸が締め付けられた。
「心配かけて、ごめんなさい」
小さな声で謝った瞬間、端整な顔がくしゃりと歪む。
しかしすぐに取り繕い、落ち着いた苦笑いに覆い隠されてしまった。
「全く、オレを殺す気ですか。貴方の心臓はオレに繋がっていると、伝えたばかりなのに」
からかうような言い方に、少しだけ混ぜた本音が刺さる。
瞳を伏せたレオンハルト様は、私の手を少しだけ強く握ってから、頬から離した。
「医者を呼んできますので、少し待って」
蹴倒した椅子を戻した彼は、部屋を出ていく。
扉の向こうから慌ただしい音が聞こえたかと思うと、五分も経たないうちに医者と薬師がやって来た。
若先生……といっても、御年は確か四十一、二歳くらい。当人はたまに「そろそろ若先生は止めてほしい」とぼやいているが、年配の方からだけでなく、子供達にもそう呼ばれているので、一生呼び名は変わらないと思う。
温厚で真面目な性格がそのまま表れたような、柔和な顔立ちの細身の男性だ。
「公爵様、御気分は如何でしょう」
「今は特には」
「それは良かった。体を起こす事は出来そうですか?」
「ええ」
「お手伝いします」
すかさず手を貸してくれたのはクーア族の一人、アビさんだ。
ハキハキと話し、頭の回転が速い彼女は、排他的なクーア族にしては珍しく、とてもコミュニケーション能力が高い。現代日本なら営業職が向いていそうな彼女は、薬師としての腕は勿論、交渉役としても優秀なので、王都への同行をお願いした。
年齢は四十代後半で、お子さんは既に独り立ちしているそうだ。
「不具合はございませんか?」
「はい。ありがとうございます」
重ねたクッションを背凭れにして、上半身を起こす。
少しだけ体が重く感じて、ふ、と息を零した。
自覚症状は無いと思っていたけれど、やはり、それなりに不調はあったらしい。過信は駄目だなと何度目かの反省を胸中で呟くと、視線を感じた。
戸口に立つレオンハルト様の表情が、心配そうに曇っている。
情けなく眉を下げた私と、レオンハルト様とを見比べた若先生は苦笑した。
彼が頭を軽く下げると、レオンハルト様は少し躊躇う素振りを見せてから、部屋を出る。行きたくないという気持ちを代弁するみたいに、扉がゆっくりと閉まった。
「では、少し見せてくださいね」
真剣な医者の顔になった彼は、身を乗り出す。
私の顔色や瞼の裏、咥内などを注意深く観察した。
「色が薄い。やはり貧血のようです」
前世から健康優良児だったせいで、馴染みのない言葉だ。
今の体も、船旅や山登りにも耐え得る頑丈さだと思っていたけれど、意外と繊細だったらしい。
でも重大な病でなくて良かったと安堵すると、私の気持ちを読み取ったかのように若先生は真剣な顔で続ける。
「貧血で眩暈や立ち眩みなどを起こす女性は、少なくありません。そういう意味では珍しい症状ではありませんが、楽観視してはいけません。別の原因が隠れている事もございますので」
「別の原因……」
鸚鵡返ししてから、顔が強張るのを感じた。
私の手首で脈を計っていた若先生は、「いくつか質問に答えてください」と切り出す。
質問は、最近の体調や食欲についてから始まり、眠気や熱っぽさ、精神面の安定、五感の変化などと多岐に渡る。
そういえば、レモンティーが苦手じゃなくなったのも関係あるんだろうかと考えながら、味覚の変化について答えた。
「味覚が変わった……。なるほど」
若先生は独り言のように呟いてから、深く頷く。
俯き加減では表情が分かり難くて、不安になった。影が差した彼の顔が、深刻に見えてしまうのは考え過ぎだろうか。
次第に早くなる鼓動を落ち着かせようと、そっと胸を押さえる。
質問と回答を書き記していたアビさんは、そんな私に気付き、宥めるように背中を撫でてくれた。
「ああ、不安にさせてしまいましたね。申し訳ございません」
若先生も私の様子に気付いたのか、安心させるように微笑む。
「父と違い、未熟者でお恥ずかしい。考え込む時に黙る癖はどうにかしろと、何度も注意されているんですが」
プレリエ領にいるお爺ちゃん先生は好々爺といった風貌で、注意するという言葉と結び付かない。
いつもニコニコと笑っている彼も、師匠としてはそれなりに厳しいのだろうか。
叱られる若先生の図を思い浮かべて、つい口元を綻ばせる。
「あと、最後にもう一つ、質問を宜しいでしょうか?」
「はい」
「では、月経の周期に乱れはございませんか?」
若先生の質問について考える。
そういえば、遅れているような。
忙しい時期は数日ずれ込む事があるけれど、それにしても……。
指折り数えていた私の脳内で、質問の意図と、私の体調不良の原因についての関係が、すっと結び付く。
唖然とした私は、若先生とアビさんの顔を順番に見つめる。
ゆっくりと頷くのを見届けた私は、数秒後、意味を成さない大声を上げてしまった。




