或る商人の困惑。
※商人 ユリウス・ツー・アイゲル視点となります。
私、ユリウス・ツー・アイゲルは自他ともに認める楽天家だ。
人並みには山も谷も経験してきたつもりだが、あまり悩む性分ではないせいか、気が付けばスルッと超えている。
一歩間違えれば海の藻屑と消える崖っぷちでも、通り過ぎた後は『長い人生、こういう事もあるか』と流せた。
生来の性格によるところもあるが、それだけではない。
とある人の影響が強く、また、その方に会わなければ今の私は無かっただろう。
その方とはローゼマリー・フォン・ヴェルファルト王女殿下。
いや、現在はローゼマリー・フォン・プレリエ公爵閣下か。私より一回り以上年下の美しい女性だ。
彼女は深窓の姫君といった風情でありながら、行動力の塊。本来は乗り越えなくてもいい壁も、努力と根性でよじ登って越えて行く。
個人でどうにか出来るようなものではない難題も、立ち向かっていくマリー様の姿を見てきたせいだろうか。
あの方が解決してきた問題に比べたら、自分が抱えている案件など些末事だなと考える癖がついた。
それが良い方向へと作用したのか商会は急成長を遂げ、マリー様と出会った頃と比べて倍どころか数十倍の規模となった。
彼女はアイゲル家にとって大恩ある方だが、私個人の恩人でもある。
少しでも報いたいと考えてはいるが、返せている自信はない。
何故ならマリー様の為に動く事は、不思議と私自身の得となる事が多いからだ。今もそれは変わらない。
公爵となったマリー様がお困りになった時にすぐ力になれるよう、領地にも拠点を構えたが、既に得する気配しかない。
臣籍降下したマリー様が治める事となったプレリエ地方は、王都に近いという好立地にも拘わらず、長く発展する事のなかった土地だ。
程よく恵まれた地形や気候だが、目立つ特産品や資源は無い。
各地への中継地として通過する人は多いが、宿場として栄えるには王都に近過ぎる。加えて、住んでいる民も呑気な人間が多く、成り上がろうとする貪欲さがない。
諸々の理由があり、プレリエは存在感の無い田舎町の一つに過ぎなかった。
ならば恩返しとして、領地を盛り立てるお手伝いが出来れば……なんて目標は、始める前から頓挫していたのは一応、理解していた。
医療と学校の複合施設という前代未聞の計画は、王都どころか世界中で話題になっている。鼻の利く商人らが既に押し寄せて、我先にと商売を始めた。
私が盛り立てるまでもなく、プレリエは発展していくだろう。
その証拠に、まだ開店してもいない目抜き通りの店舗を、売ってくれと交渉に訪れる商人は後を絶たない。
私ばかりが得をしているのが現状。
出来る事といえば、お好きな品を取り寄せる事くらい。
それでもマリー様は、まるで天に輝く星でも捧げたかのように喜んで下さるから、望みは何を置いても叶えようと。
そう、思っていたのだが。
まさかその望みの品が厄介ごとを引き寄せるなど、思いも寄らなかった。
マリー様がずっと昔から探しておられた『米』という食材を、輸入出来るようになったのはつい最近だ。
大陸の東にある島国から仕入れた物で、まだ認知度は低い。ただ興味を持った商人や料理人がちらほらいるので、これから化ける可能性もある。
だが、それは先の話だ。今ではない。
ところが、『米』を所望する客がやって来た。
しかも、マリー様が米料理を振舞う為に訪問してくださった時に、だ。
それだけならまぁ、別にいい。
問題なのは、客が誰であるかという事。
黒い髪に黒い瞳、少し黄味を帯びたアイボリーの肌色、それから彫りの浅い顔立ち。全てが、とある国の民族の特徴だ。
着ている服もかの国の民族衣装。
最近、ようやく取引を始めたばかりの東の島国。『米』の産出国、オステン王国。
現在、医療施設の視察でプレリエを訪れている筈だから、ほぼ間違いない。そして、仕立ての良い服を見る限り、高位の人間だと思われる。
色はほぼ黒一色と地味だが、光沢のある生地はおそらく絹。合わせの部分の刺繍は銀糸で、生き物と蔦を組み合わせた模様は非常に緻密。とてもではないが、庶民に手を出せる品ではない。
武装しているようだが、視察団の護衛という線はほぼ消えた。
ならばと考えた時に一人だけ、思い当たる。王族の一員でありながら腕が立ち、近衛の剣士とも渡り合える実力の持ち主。
薬学とネーベル王国の両方に興味があり、今回の視察団に名乗りを上げた人物。
オステン王国第三王子、ハクト殿下。
実際にお目にかかるのは初だが、男前だ。
異国情緒のあるスッキリした顔立ちと、姿勢の良い立ち姿。清涼感のある美しさは、我が国のご令嬢方にも人気が出そうだなと、心の中で勝手な評価をした。
供を連れずに外出しているのはいただけないが、噂通りの腕前なら、護衛などいらないのだろう。
マリー様の話では視察団の何人かは体調を崩しているらしいので、彼等の食事の為に奔走しているといったところか。
無いものは無いと突っ撥ねても良いが、相手は賓客。プレリエ領の、延いてはマリー様の為にも丁重に扱うべきだろう。
マリー様に無理を承知でお願いをして、米を買い戻す約束を取り付けた。
あとは、ハクト殿下には宿に帰ってもらい、公爵家で米を引き取ってから届ければ、それで終わる単純な話だったはずだ。
それが、どうしてこうなった。
どうしても会いたいとハクト殿下が引かなかった為、私は一旦、部屋を出た。
体裁上、一度は掛け合ったと思わせる必要はあったが、実際に会わせるつもりはない。だというのに、何故。
本当に、何故、こんな事に。
廊下を覗き込んだハクト殿下は、垣間見たマリー様の姿に大きく目を見開いた。
切れ長な目がゆっくりと瞬く。
まるで白昼夢でも見ているかのようにぼんやりとしていた表情が、一瞬で変化した。きゅっと口を引き結んだハクト殿下の目尻が、さっと色付く。
まずいと感じたが、同時に仕方のない事かとも思った。
マリー様はとても美しい方だ。
幼い頃から可愛らしい方だったが、成長した今は『絶世の』という言葉が相応しい美女となった。
初対面の人間はまず間違いなく、彼女に見惚れる。
その感情を好意へと押し上げるのかは人それぞれだが、人妻である事に絶望した人間は結構な数いる。
白薔薇の蕾のようだった美貌は、結婚し、愛し愛される事で更に磨かれた。今や大輪の薔薇も霞むマリー様の姿に、年若い青年が見惚れるのは至極当然の事。
そこで終わらせてくれるなら、何の問題も無い。
旅先で綺麗な女性に会ったんだと、土産話の一つとして消化してくれ。
そう祈りながら、頭の中で引き離す言い訳を考える。
失礼にならないよう、けれど早急にハクト殿下を店内に戻さなくてはと迷ったのは、ほんの数秒だ。
しかし、たったそれだけの間に事態は大きく動いてしまった。
じっと見つめられて居心地が悪かったのだろう。マリー様が戸惑うような顔で、ことりと小首を傾げた。
その瞬間、ハクト殿下の顔が真っ赤に染まる。いや、顔だけじゃない。耳も首筋も、見えている部分は全て、炙られたかのように熱を持った。
恋に落ちる、という言葉があるが、上手い事言うものだと思う。
踏み止まっていた青年の背を、僅かな動作で突き落とすのを見てしまった。
私は現実逃避気味に遠い目をして、思った。
そりゃあ、そうだよ。
絶対に手が届かないと分かる高嶺の花、美辞麗句なんて聞き飽きているだろう絶世の美女が、熱い視線一つ向けられただけで、まるで稚い少女のような仕草で戸惑うのだから。
そんなの、くらりと来ない男なんて存在するものか!
男心を擽る手練手管に長けた高級娼婦ですら真似するのは難しい高等技術だが、厄介な事にマリー様は、欠片も意識していない。天然でやってのけているのだから、恐ろしい。
若い男を弄ぶ残酷な遊びだった方が、まだマシだ。高い勉強代を払って、現実に戻る事が出来るのだから。
いっそ貴方がお会いする予定だった公爵閣下が、目の前の美女ですと紹介したい。
元王族、現公爵家当主、医療施設責任者、既婚者。数多ある諦めるべき理由を、そのたった一言で突き付けられる。
ああ、更に、夫は最強と謳われた元近衛騎士団長であり、国中に祝福された夫婦である事も加味しなくては。
しかし、まだマリー様にお許しを頂いていない。
どうしたらいい。引導を渡すなら早い方が良いだろうなとハクト殿下を見ると、真っ赤な顔をしてモゴモゴと口籠っていた。
「い、いや、礼を言いたかっただけなのだが、無作法をしてすまない」
さっきまでの堂々とした佇まいとの落差に、眩暈を覚える。ていうか、声小っさ。
身を翻した彼は、駄目押しのように壁にぶつかってから引っ込んでいった。
ああ、あれはもう駄目だ。
今更なにをしても後の祭り。
「……手遅れでしょうね」
重々しい口調で呟く。
マリー様の護衛と侍女は同意を示すように、沈痛な面持ちで頷いた。
渦中の人物であるはずのマリー様だけが、訳が分からないといった顔で困惑している。
本当にどうしたらいいんだ、これ。




