第二王子の葛藤。(2)
※引き続き、第二王子ヨハン視点です。
天気は快晴。日差しは暖かく、風も穏やかで心地よい。
兄様の横抱きで城内を移動し、恥ずかしさにむくれていた姉様は、そんな事も忘れたかのように上機嫌で、「小春日和ね」と目を細めた。
元々、怒りが長続きしない人だったなと思い出す。
困らせても、涙目で『ごめんなさい』と謝るだけであっさりと許してしまう。
怒りを引き摺る事なく、不機嫌な様子はあまり見た事がない。
今も、侍女が用意した茶菓子をキラキラとした目で見ている。本当に、可愛い人だ。
ありとあらゆる美食も、高額なドレスも希少な宝石も思いのままとなる身分でありながら、相変わらず欲のない。瑞々しいフルーツを使ったタルトにフォークを刺す姉様は、この世で一番幸福だと言わんばかりの顔をしていた。
銀色の細いフォークが小さな口へとケーキを運ぶのを、つい見守ってしまう。
含んで、咀嚼して。ゆっくりと味わった後、姉様はうっとりと目を閉じる。
ああ、可愛い。永遠に見ていられる。
「永遠に見ていられるな」
僕の心の声が、別人の口から零れ落ちる。
兄様は、姉様と同じようにうっとりとした眼差しながら、その視線の先にあるのは菓子ではない。大事そうにちまちまとケーキを食べる姉様を、じっと見守っている。
兄弟とはいえ半分しか血が繋がっていない上に何年も離れていたというのに、この思考の同調っぷりは何なんだろう。
兄様の事は尊敬しているが、ちょっと嫌だ。
しかし可愛らしい姉様から視線を外すという選択肢はなく。
僕と兄様にじっと見守られている事に気付いた姉様は、居心地悪そうな顔で眉を下げた。
「……あの。そんなにじっと見られると食べ辛いのですが」
「ああ、すまない。可愛らしくてな」
「かわ……?」
謝罪しながらも視線を外さない兄様の甘ったるい言葉に、姉様は意味が分からないと言いたげな顔で首を傾げている。
兄様は以前から姉様に甘かったが、言葉ではなく態度で語る人だ。こんな風に砂糖に塗れた言葉を吐き出す人ではなかったはず。
戸惑う姉様の気持ちも少し分かる気がした。
「私の分も食べるか?」
兄様の前で放置されていたケーキを、兄様は姉様の方へと向ける。
姉様は一瞬嬉しそうに目を輝かせたけれど、きゅっと目を瞑って何かを振り切るように頭を振った。
「お気持ちだけいただきますね」
「何故?」
兄様の端的な疑問に、姉様はぐっと言葉を詰まらせる。
視線が彷徨って、空いていた左手がそっとお腹の辺りを擦ったのが、僕の方からは見えた。
「……菓子の食べ過ぎは、体によくないですから」
たぶん姉様は、太るのを気にしている。
少し力を込めたら折れてしまいそうな細さで、何を気にしているのかと言いたいのを、ぐっと堪えた。
女性の美容に関して男が口を出すのは野暮だと、以前、年上の女性に叱られた事があるから。客観ではなく主観が大事な時もあるのだと。
「そうか」
兄様は素直に皿を手元へ戻し、しゅんと萎れる。
「ローゼが食べている姿をずっと見ていたかったが、それで苦しめるのは本意ではないな」
姉様は「んんっ」と赤い顔で胸を押さえた。
フォークを置いてから、恥ずかしさを誤魔化すように咳払いする。
「……兄様、今日はどうなさったんです?」
「ん?」
「その……いつもと、少し違うというか」
苦笑した兄様は「様子がおかしいか」と、姉様が濁した部分をスパッと言葉にする。
「えっ、その、そこまでは言ってないです」
「いえ、今日の兄様、変ですよ」
困っている姉様に代わって僕が言う。
「そんなにベタベタする人ではなかったでしょう」
「よ、ヨハンっ」
歯に衣着せぬ言葉選びの僕に、姉様は慌てていた。
しかし兄様は、ぷはっと吹き出す。
お腹を抱えて声を出して笑う兄様を見て、僕と姉様は唖然とした。その後、示し合わせたように顔を見合わせる。
本格的に兄様がおかしい。
少し離れた場所にいた護衛や侍女らも目を丸くしている。会話は聞こえていないものの、腹を抱えて笑う王太子の姿を初めて見たからだろう。
夢だと言いたげな視線に、そのまま夢だと判断して忘れてほしいと思った。
一頻り笑った後、兄様は目元に滲んだ涙を指で拭う。
「いや、ずっとやりたかった事をしているだけなんだが。やっぱり、傍から見るとおかしいんだな」
「ずっとやりたかった事」
鸚鵡返ししてから、『むっつりめ』と僕は兄様を睨んだ。
兄様はそんな僕の視線を受けても、飄々とした様子で笑う。
「見せかけだけでも、頼りになる兄のままでいたかったが、止めた。ローゼが嫁に行ってしまうと思ったら、我慢するのが嫌になった」
「!」
素直な心情を吐露する兄様に、姉様は目を丸くする。
その横で僕も衝撃を受けていた。
「お前がいなくなってしまうのが、寂しい」
「兄様……」
「寂しいよ、ローゼ」
責めるのではなく、詰るのではなく。ただ未来に決まった別れを惜しむように告げる兄様に、姉様の目が潤んだ。
そしてそんな二人を見て、僕は。
ああ、言ってもいいのか、と心の底から安堵した。
「姉様」
呼びかけると視線がこちらを向く。
「僕も寂しいです」
困らせたかったのではない。
幸せを邪魔したかったのでもない。
一生独り身でいてくれと願ってもいなかった。
可能ならば姉様を一生守る権利がほしかったけれど、実の弟である僕には無理だというのも理解している。
姉様一人を愛し、守り抜き、幸せに出来る男がいるのなら、それが一番であるとも。
ただ、頭で理解していても心がついていかなかった。
幼い頃の僕には姉様しかいなかった。
誰からも興味を持たれず、腫物に触るような扱いを受けた僕に、正面から向き合ってくれたのは姉様だけ。
時に叱り、時に甘やかし。
いつも寄り添ってくれた姉様は、僕にとって最愛で唯一の人。
たぶん、狭い世界に生きていた僕は、姉様に依存していた部分もあったと思う。
でも隣国へと留学して色んな人と交流しても、姉様は僕の特別なままだった。辛い時に支えにしたのも、嬉しい時に分かち合いたいと思ったのも、全部姉様だった。
その姉様が離れていく。僕の手の届かない場所へと行ってしまう。
寂しくない訳がない。
苦しくない訳がないのだ。
それでも、言ってはいけないと思っていた。
幸せになろうとする姉様の足を引っ張り、無為に傷付けるような真似は絶対にするべきではないと。
でも兄様は迷いなく告げた。
そして姉様はそれを受け取った。
ならば僕も許されるだろうか。
この大きすぎる感情を、欠片でも姉様に手渡す事は許されるのだろうか。
「さび、しいです……っ」
俯いて、膝の上に置いた手をぎゅっと握る。
その手に細く白い手が重なった。
僕の方へと手を伸ばした姉様は、目尻に涙を浮かべたまま微笑む。
「ありがとう、ヨハン」
「……っ、ねえ、さま」
「そんな風に別れを惜しんでもらえて、嬉しいわ」
嫁ぐのはまだ、先の話なのだけれどね、と照れ隠しのように頬を染める。
ああ、受け取ってもらえた。
悲しませる事なく気持ちを渡せたのなら、それで十分だ。
身を寄せて、姉様の細い肩に額を押し付ける。
柔らかい手が頭を撫でてくれるのを、幸福な気持ちで享受した。
「私も混ぜてくれ」
席を立った兄様は僕と姉様の背後に立ち、僕らの肩を抱く。
「兄様ったら」
密やかな笑い声を洩らす姉様の揺れが直に伝わって、心地良い。
「お前が嫁いでも、何歳になっても、私達が兄弟である事に変わりはない。何かあったら一番に知らせるように。真っ先に駆け付けると約束する」
「……はい」
気持ちの高ぶりを表すように掠れた声の姉様は、小さく頷く。
「私達はいつでも、お前の味方だよ」
もう一度頷いた姉様を、僕はちらりと窺うように見る。
その端整な顔に浮かぶ笑みは、レオンハルトとの婚約の話をした時と比べても、負けず劣らずに幸せそうで。
僕は満たされた気持ちで、再び目を閉じた。




