騎士団長の初恋。
※ネーベル王国近衛騎士団長 レオンハルト・フォン・オルセイン視点です。
腕の中に閉じ込めた体は、少しでも乱暴にしてしまえば壊れてしまうのではと怖くなるくらい細い。実際にオレが力任せに扱ったら、容易く折れてしまうだろう。そう理解しているからこそ、どうにかギリギリ力を加減出来た。
許されるなら、力の限りに抱き締めたい。
失いかけた存在が腕の中にいるのだと。
「レオンさま」
名前を呼んでくれる愛しい声が、夢ではないのだと確かめたかった。
部屋に無理やり押し入って、どうにか誤解を解こうとしても、何故か姫君は頑なで。縋り付くように愛を告げようとしても、最後まで言わせてさえくれない。声も表情も態度も、全てがオレを拒絶していた。
そしてダメ押しするが如く、告げられた一方的な別れ。
『もう終わりにしましょう』
心臓を真っ直ぐに刺し貫かれた気がした。
大きな衝撃が、体から温度を奪う。
嫌だ嫌だと、ガキみたいに頭の中で否定した。
儚い微笑みを浮かべる姫君の目は、既に何かを決めてしまっている。引き留める言葉を探す間さえも与えられない。花びらみたいに可憐な唇が、死刑宣告をするのをどうにか止めたくて、細い体を抱き締めた。
自分の胸に姫君の顔を押し付けて、物理的に言葉を奪う。
心臓が壊れそうに早鐘を打つ。嫌な汗が、首の後ろを流れた。
何故だ。どうして終わりにしようなんて言うんだ。
疑問を抱くのと同時に、嫌な予想が頭を過る。
姫君は、もうオレが好きではないのかもしれない。
それを認めるのは酷く恐ろしい事だった。
やはりか、と認める諦念に似た思いと、認められるはずがないと叫ぶ激情がせめぎ合う。拮抗したのはほんの一瞬。喰らいついた激情に、諦念はあっさりと消え失せた。
認めない。
許せる訳がない。
誰かを愛する気持ちすら理解出来ない欠陥品のオレに、愛情を注ぎ続けて人間にしたのは貴方なのに。
愛おしいと思う気持ちも、自分だけを見てほしいと願う心も、貴方がオレに教えたのに。
今更いらないなんて言われて簡単に諦められるものか。
つれない言葉を呼吸ごと奪う為に、愛らしい唇に噛みついた。
大きく見開いた蒼い瞳から逃れるように目を閉じ、感触だけを追う。
大切に護り慈しんできた花を、自分が踏みにじっている事に罪悪感を覚えるよりも、圧倒的に歓喜が勝る。
触れるだけの子供じみた口づけなのに、今まで感じた事のない暴力的なまでの快感が脳髄を揺さ振った。
どれだけ求めていたのか、どれほど焦がれていたのか。触れてようやく気付く。砂漠で水を得た旅人のように、乾いた心が歓喜の声をあげた。
解放すると、姫君は呆然と立ち尽くす。
その表情に、恐れていた嫌悪が混ざっていない事に安堵したが、「なんで?」と呟く小さな声に凶暴な感情が再び頭を擡げた。
傷付けたくなんてないのに、姫君の無垢な心に爪痕を残したいと思ってしまった。
あまりにも姫君の心が真っ白で、綺麗で。醜いオレが傍にいてはいけないのだと責められた気がして。それなら同じ場所まで引き摺り下ろしたいと願った。
オレのような男が触れていい方ではないと理解していても、最早止まる術はない。とっくの昔に理性は本能に捻じ伏せられていた。
言葉で、接触で、姫君に希う。
それなのに、返ってきたのは拒絶。
確実に近づいてきている別れの気配に、呼吸さえ儘ならない。
あまりの恐怖に体が震えそうになる。世の中の人達は、こんな思いを何度も繰り返しているのか。たった一度でもオレは、致命傷を負っているのに。
苦しい。息が上手く出来ない。溺れてしまいそうだ。
なんでもするから、愛してくれと情けなく縋り付く。
優しい姫君が振り払えないのを分かっていながら、なんて質の悪いヤツだと心中で自嘲した。だが改めるつもりはない。使える手は全部使う。出来る事ならなんだってやる。
姫君が離れていく以上に恐ろしい事なんてない。
離れないで。逃げないで。置いていかないでくれ。
別の誰かの手を取るというのなら、どうか今ここで息の根を止めてほしい。
端から真っ黒に塗り潰されていく思考を引き上げたのは、小さな声だった。
『……、き』
掻き消されてしまいそうに頼りのない声とは裏腹に、真っ直ぐな視線がオレを捉える。涙で滲んだ瞳は、青く澄んだ湖面のよう。
体は小刻みに震えていて、膝も笑っている。思い通りにならない体を歯痒く感じているのか、姫君の柳眉がきゅっと顰められた。
内容はまるで思いつかないけれど、何かを必死に伝えようとしてくれている事だけは分かる。
小さな唇が、空気を食むように動く。
きゅっと一度噛み締めてから、再び開かれた口から愛らしい声が洩れた。
『……しゅき』
少し舌足らずな甘い声が、奇跡を紡ぐ。
一瞬、自分の頭が本格的にいかれたのかと思った。
壊れた脳が、都合の良い妄想を見ているんじゃないかと。しかし固まるオレの目の前で、姫君の顔が真っ赤に染まっていく。噛んでしまった事を恥じるみたいに涙目で震える様子は子ウサギのように愛らしい。
聞かなかったふりをするのが、姫君の為かもしれない。
でも無理だ。オレは今の告白をなかった事にはしたくない。
もう一度聞かせてほしいと目で訴えるオレに根負けする形で、姫君は繰り返してくれた。
『……すき、です。ずっと前から……ううん、今も』
しかたないひとね、と窘めるみたいに、少しの呆れと大きな愛情を内包した青い瞳がとろりと溶ける。
『変わらず、貴方を愛しています』
そう言って微笑んだ姫君は、間違いなく世界で一番綺麗だった。
抱き締めた柔らかな存在に、胸が締め付けられる。
腕の中に大人しくおさまっていてくれる事実が、どうしようもなく嬉しい。失くす寸前だったからこそ余計に、尊く感じる。
すり、と頭に頬を摺り寄せる。
くすぐったいと言うように微かに身を捩るけれど、姫君は逃げようとしなかった。
受け入れられていると調子づいて、愛しい人の感触を堪能する。
細い首筋に顔を埋めると、淡い花のような香りがする。控え目なのにかぐわしく、甘く柔らかな匂い。
貴婦人らが身に纏う香水を、好ましく思った事はなかった。果実が腐る直前の如き甘ったるいにおいは、長く嗅いでいると気分が悪くなる。種類や濃淡に差はあれど、誰の香りにも惑わされる事はなかったのに。
姫君の香りは、どんな上等な酒よりもオレを酔わせる。
うっとりと目を細めて、深く息を吸い込む。この香りで肺を満たせたら、どんなに幸福だろうか。
柔らかなプラチナブロンドに指を絡め、感触を堪能する。
どこもかしこも気持ちよく、愛おしい。白い指と鱗みたいに小さくて形の良い爪、華奢な首筋に滑らかな頬。特に、淡い桃色の唇に触れた時の幸福感は何にも代えがたい。
もう一度味わいたいと言ったら、許してくださるだろうか。
「姫君」
我ながら、なんて甘ったるい声だろうと笑いたくなった。擦り寄る犬のように哀れな声で、唇を請う。従順な忠犬の顔で、優しい姫君をどう丸め込もうか考えているオレは、誰がどう見ても彼女に相応しい男ではないだろう。
そんなオレの企みに感づいたのか、姫君からの返事はない。
もう一度呼び掛けてみても、沈黙が続くだけ。
調子に乗って怒らせたかと、怖々と表情を盗み見る。すると腕の中の姫君は、こくりこくりと船を漕いでいた。
意識がふつりと途切れたのか、腕にかかる重みが増す。目元に隈をつくった姫君は、安らかな寝息をたて始めた。
ずっと悩んでいたようだったから、安心して眠ってしまったんだろうか。
「……」
目を伏せて、長く溜息を吐き出す。
安心してくれたのだと喜ぶべきか。男と認識してくれていないのかと哀しむべきか。
複雑な感情を持て余しつつも、姫君を抱き上げる。
起こしてしまわないようにそっと寝台に横たえて、掛布を整えた。
目元にかかる髪を指で退けて、頬を撫でる。愛おしくて、離れがたい。
寝顔を見つめているうちに、薄く開くふっくらとした唇に、視線が吸い寄せられた。
枕元に手をついて、屈みこむ。
唇を重ねようとして、どうにか留まった。
姫君の気持ちを無視したくない。
さっき強引に唇を奪っておいて何をと言われるかもしれないが、今は大切にしたいという気持ちが勝った。
それでも、どうにも去りがたく、形の良い額にそっと口づけを落とす。これくらいは許されるだろうと、勝手すぎる独り言を胸中で洩らした。
そうして踵を返し、ドアノブに手を伸ばす。
しかし届く寸前に、外側から勝手にドアが開いた。
僅かに開いた隙間から覗いたのは、部下であり、姫君の護衛騎士でもある男の顔。普段は爽やかに笑む男は表情の全てを削ぎ落し、新緑に似た翠の瞳は瞳孔が開いている。
「……クラウス」
ブチギレているな、これは。
どこまで会話が聞こえていたか分からないが、物音は聞こえたはず。色々とやらかしたオレは、心当たりがありすぎて悩む。
日に日に憔悴していく姫君を心配し、断腸の思いでオレを通したクラウスが怒るのも当然だろう。数発殴るだけで許されるだろうかと頭の隅で考える。
「団長」
目は全く笑っていないのに、薄い唇だけは口角を吊り上げて笑みを形作る。
「オレの主になにしやがったんですか、ぶっ殺すぞ」
低い声で凄む男に苦笑いを返しながら、廊下へと出る。
今はなにより優先されるのは、クラウスの怒りでもオレの身の保障でもない。姫君の安眠だ。
扉をゆっくり閉じてから、「苦情はあとでいくらでも受け付ける」と両手を軽くあげて降参を示した。




