騎士団長の独白。
※近衛騎士団長 レオンハルト・フォン・オルセイン視点となります。
「オルセイン団長。何か不備がございましたか?」
恐る恐るといった声で尋ねられ、オレは我に返る。
執務机を挟んで正面に立っているのは、若い近衛騎士。確か入団して二年目だったか。彼の報告書に目を通している途中だった事を思い出す。
厳しい顔で黙り込んだオレを見ていて、不安になったんだろう。緊張した面持ちで直立不動する青年を一瞥してから、手元に視線を戻した。
「いや。問題ない」
職務中に呆けていた自分を内心で咎めつつも、顔には出さずに羽根ペンを手にとる。署名してから書類を返すと、若い近衛騎士の強張っていた表情が安堵に緩む。
彼が退室し、扉が閉まるのを見送った。
悪いことをしてしまったな。
若い連中が怯えるくらい、今のオレは余裕のない顔をしているらしい。
眉間の辺りを親指で押し込むように刺激する。
朝から感じている鈍い痛みが、僅かばかり遠ざかった気がした。
椅子の背もたれに体を預けて天井を仰ぐ。
腹の上で手を組んで、目を伏せたオレは長く息を吐き出す。
不調の原因は、考えるまでもなく思い当たる。
私事の感情を仕事に持ち込む己を情けなく思うが、自分で自分を制御できない。
「姫君……」
思わず洩れた声は、低く掠れていて酷く耳障りだ。まるで飢えた獣の唸り声だな、と自嘲めいた言葉を胸中で呟き、口角を片端だけ吊り上げた。
中庭での一件からはや一週間、姫君には一度もお会い出来ていない。
落ち着くまで待てと言われていたにもかかわらず、堪え性のないオレは翌日に会いに行ってしまった。
呆れ顔のクラウスはそれでも一応、中へと確認をとってくれた。しかし返事は否。毎日通っても、彼の首は一度も縦に振られた事はない。最初はいい気味だと言いたげな冷めた目をしていたクラウスも、日を追うごとに心配げに表情を曇らせる。もちろん、気遣うのは振られ続けるオレではなく、拒み続ける姫君の心だろう。
最初は、落ち着くまでは会いたくないのだろうかと諦めた。
数日経っても会ってはもらえず、もしや体の調子が悪いのかと心配になった。しかしクラウスによると、寝込んでいる訳ではないとの事。
姫君は大量の書物を部屋に持ち込み、ずっと読み耽っているそうだ。何かを熱心に調べている様子なので、下手に邪魔も出来ないらしい。
忙しいならば仕方ない。
もう数日待って、落ち着いてから時間をとっていただこう。
そう考えてはみても、足は頭の指示を無視して姫君の部屋へと向かう。近衛騎士団長が王女殿下の部屋に日参するなど、迷惑以外の何ものでもないのに。
物分りの良い大人のフリは、とっくに出来なくなっていた。
思考の海に沈みかけていた意識を、ノック音が現実に引き戻す。
もう一度息を吐き出してから、体を起こした。
「失礼致します」
入室を許可すると、入ってきたのは副官だった。
彼は各所から回収してきた書類の束をオレに差し出しかけて、手を止める。オレの顔を数秒眺めてから、眉を僅かに寄せた。
「随分とお疲れですね」
「……顔に出ているか」
深く頷く副官に、オレは苦笑いを返す。
温和で気遣いの出来る彼がそこまで言うなら、よほど酷い顔をしているに違いない。
「少し休憩にしましょう。お茶を用意させます」
「いや、いい」
書類を執務机の端へと置き、出て行こうとする副官を制す。
「根を詰めすぎると、かえって効率が下がりますよ」
副官はそう言って渋面を作った。
幸い今は仕事が溜まっている訳ではない、たまには休むのも仕事だと懇々と説教されて、降参だと軽く手を上げた。
「分かった。だが、茶はいらない。気分転換に見回りがてら、散歩でもしてくる」
「はい。いってらっしゃいませ」
席を立つと、副官は満足そうに笑った。
追い出されるような形で執務室を後にしたオレは、ふらふらと宛てもなく城内を彷徨く。
……いや、嘘だ。確かに目的地はないが目的はある。
姫君にひと目でもお会いできないかと、期待していた。結局、オレの浅ましい望みが叶う事はなかったけれど。
いつの間にか、外へと足が向いていた。
庭園の奥まった場所から、荘厳な城を見上げる。高い位置にある一室のバルコニーで視線を止めた自分に、頭痛がした。
これではまるで、……いや、犯罪者そのものだ。
遠くからでもいいから姿が見たいなんて、我ながら気色悪い。
きまり悪さを感じて、後頭部をがりがりと掻く。
さっさと戻って仕事でもするかと、踵を返そうとした。
バルコニーの影から、ちらりと何かが覗く。
「……っ」
くすんだクリーム色の手すりに、白い手がかかる。
細い肩から滑り落ちかけたスミレ色のショールを、もう一方の手がそっと押さえた。陽光を紡いだプラチナブロンドを、そよ風が気まぐれにさらさらと遊ばせる。俯いた顔は影が差して、表情は見えない。
それでも、久しぶりに見られた姿に胸が熱くなる。
自然と、「姫君」と呼びかける声が洩れた。
指の関節二つ分くらいの大きさにしか、姿が見えない距離だ。張り上げても届くか怪しいのに、呟く声が聞こえる筈がない。
それなのに姫君は、顔を上げる。
視線がふらりと泳いで、やがてオレへと辿り着いた。晴れた空よりも澄んだ瞳が、見開かれる。
視線が絡む。
呼吸さえ忘れたオレは、無意識のまま一歩踏み出す。
姫君の細い肩が揺れて、手すりから手が離れる。
くしゃりと顔を歪めた姫君は、身を翻して姿を消した。
「……あ」
背中を追うように手を伸ばしたまま、オレは動けなくなった。
逃げられた。
拒絶、された。
脳がじんわりと染み込むようにそれを理解した途端、鋭い痛みが胸を貫く。
早鐘を打つ心臓の音が、耳の奥で煩く鳴っている。呼吸が浅くなって、嫌な汗が背筋を流れた。
伸ばしたままの手を、きつく握り込む。
何度会いに行っても会ってもらえない事に関して、何も感じていなかった訳ではない。寧ろ、起きていても眠っていても、その事ばかりが頭を巡る。
落ち着くまで待ってほしいのではなく。
忙しいから会えないのでもなく。
もう、会いたくないと思われているのだとしたら?
こんな不甲斐ない男など見切りをつけて、新しい道を歩きだそうとしているのだとしたら、オレはどうしたらいい。
いや、そもそもだ。
あんなにも美しく魅力的な方が、ずっとオレだけを見てくれていた事こそが奇跡だった。そして奇跡は二度起こらないから、奇跡と呼ぶ。
もう、あの方の瞳がオレを真っ直ぐに映す事はないかもしれない。
そう考えた瞬間、体中から血の気が引いた。
グラリと足元が揺れる。
揺れているのは世界か、自分か。それさえも分からないほど、頭の中身が混乱を極めている。
呼びかけると、ピクリと軽く跳ねる肩が好きだ。
オレを見つけた青い瞳が、とろりと解ける瞬間が好きだ。
柔らかそうな頬が、薄っすらと色付いていく変化が愛しい。
キラキラと目を輝かせて、花びらみたいに可憐な唇で、オレを呼んでくれる瞬間が、とても、とても好きだ。
当たり前のように与えられていたそれら全てが取り上げられて、オレ以外の誰かに与えられる。
そうだ。
同じ年頃の男が、彼女の隣に似合うと思っただろう。それは、つまりそういう事だ。あの方の眼差しも声も、細く白い手も柔らかな唇も、別の男のものになる。
オレ以外に微笑み、身を任せ、将来を誓い合う。
その姿を欠片でも想像した瞬間、強烈な怒りが全身を支配した。
血が沸騰しているかのようだ。ぐつぐつと煮えたぎるような怒りが臓腑を焼く。狂いそうな程に体中が熱いのに、頭だけは冷え切っている。
自分の中にこれほど苛烈な感情があるなんて、知らなかった。
「……は」
場違いな笑いが洩れる。
乾いた笑いは、酷く獰猛な響きだった。
なにが、相応しくない、だ。
年の差だの身分差だの御託を並べてみても結局オレは、微塵も姫君を逃がすつもりはなかった。
剣の腕しか取り柄がない粗野な男が、なにを紳士ぶっていたのか。
あの方を失う以上の恐怖なんて、この世に存在しない。
ならばオレは、どんな手を使ってもあの手を掴もう。失くす前に、奪われる前に。
貪欲な自分に呆れはしたが、それ以上に清々しい気分ですらあった。
もう、迷いはない。
「申し訳ありません、姫君」
オレは貴方を逃してあげられそうにない。
密やかに呟いた声は、誰の耳にも届く事なく風に攫われて消えた。




