護衛騎士の焦り。
※ローゼマリー付き護衛騎士 クラウス・フォン・ベールマー視点です。
「クラウス」
「団長、こちらです」
ローゼマリー様がお部屋に戻られてから、さして時間も経たずに団長がやってきた。
数人の近衛騎士を引き連れた団長に、簡潔な報告を行う。
「!」
異世界からの客人の所在を説明している途中で、団長は弾かれたように顔をあげた。
室内からの物音に気付いたオレも、素早く振り返る。しかし、団長の反応はオレよりも僅かに早く、蹴破る勢いで扉を開けた。
「っ……!!」
入った直後、団長は息を呑む。
団長に遅れて中へと踏み込んだオレが見たのは、折り重なるようにして、床に蹲る二つの人影。そして、その人影に向かってダガーを振り下ろそうとしている侍女の姿だった。
顔こそ見えないものの、波打つプラチナブロンドで、上に覆い被さっているのが誰なのかが分かる。
ローゼマリー様に、侍女が襲いかかっている。その事実を理解した瞬間、全身の血が沸騰したかのような苛烈な怒りを覚えた。
誰に刃を向けているのか。
咆哮の如く口から飛び出しそうになる怒声を、歯を食いしばる事で呑み込む。ぎしりと嫌な音が内側から響く。握りしめた拳を解き、剣の柄に手をかけた。
しかしオレよりも早く動いた団長が、ダガーを握る女の手に何かを投げる。
「あっ!?」
短い悲鳴をあげて、侍女はダガーを取り落とす。
刃がむき出しのダガーと鞘付きの短剣が、派手な音をたてて床に落ちた。
侍女の意識が落ちたダガーへと向いているうちに距離を詰め、そのまま団長は侍女を取り押さえる。
流れるような動きでの制圧に、他の誰も手出し出来ない。
「拘束しろ」
「はっ」
団長の命令に従い、二人の近衛騎士が侍女を両脇から拘束する。
青褪めた顔の侍女は涙ぐみ、頭を振った。
「わ、私は、脅されていたんです……!! 裏切りたくて裏切った訳じゃない!」
侍女は取り押さえられながらも、団長に向けて必死に訴えた。
保身の為の言い訳か。それとも真実なのか。どちらにせよ、この場で判断していい案件ではない。
「お願い、信じ……ひっ……!!」
取り乱していた侍女の声は、途中で途切れる。代わりに、引き攣ったような悲鳴が洩れた。
侍女の視線を追う形で団長を見たオレも、息を呑む。
怒りの形相、ではない。それどころか黒い瞳は、風のない夜の海の如く静かだった。
感情が抜け落ちたかのような無表情は、端正な顔立ちを際立たせる。芸術品めいてすらいた。
それなのに、何故だろう。底知れぬ怒りを感じるのだ。
瞬き一つ、呼吸一つで、命を奪われるのではないかと、あり得ない恐怖を感じる程に、激しい怒気を。
剣の柄を握ったままの掌は、じっとりと汗をかいている。酷く息苦しいのも、錯覚なのだろうか。
張り詰めた空気の中、オレを含めた誰も動けずにいる。侍女も、取り押さえている近衛騎士達も、廊下から様子を窺っていた騎士達もだ。
闇から滲み出たように、唐突に現れた漆黒の獅子に噛み殺されないよう、息を殺す事しか出来ない。
そんな一瞬とも永遠とも思える息苦しい時間を打ち破ったのは、聞き間違えるはずもない、大切な主人の声。
「……れおん、さま……?」
あどけない子供のように、無防備な声だった。
この場に似つかわしくない、柔らかで暖かいその声が聞こえた瞬間、張り詰めた空気が霧散する。
団長は目を伏せ、息を吐き出す。深い怒りを、臓腑から押し出すように。
纏う空気が一変し、再び黒い瞳が現れると、そこにいるのは見慣れた団長だった。
「……取り調べは後日。言い分はその時に聞かせてもらおう。……連れていけ」
「か、かしこまりましたっ!」
固まっていた近衛騎士二人は、声を揃えて返事をする。放心しているらしい侍女を両側から支えるように、退室した。
団長はローゼマリー様の前に跪く。
「殿下、お怪我は……?」
「はい。……あっ、フヅキ様、怪我をしていませんか?」
心配そうに眉を下げ、覗き込む団長に対し、ローゼマリー様はまだ事態を把握しきれていないらしい。どこかぼんやりした様子で身を起こす。
その体の下には、異世界からの客人……フヅキ様がいた。
身を挺して庇ったのか。
この方は、本当に……いつまで経っても変わらない。変わってくれない。
大勢の人間に傅かれる身分でありながら自分の価値には全く気付かず、目の前の他人の為に、我が身を投げ出してしまう。
その高潔な精神を尊く思いつつも、絶賛する気にはならなかった。
優しく美しい心根を持つローゼマリー様だからこそ、オレや多くの人間に慕われている。それを失ってしまったら、ローゼマリー様の大切な部分が損なわれてしまうと分かっているのに……もっと利己的になってくれと願ってしまう。
誰を犠牲にしても生きてほしいと、決して口に出す事の出来ない願いを抱いてしまうのだ。
フヅキ様は、「いたた」と呻きながら起き上がる。
「転んだ時に膝をぶつけたくらいで、あとは全然。……それよりもお姫様は大丈夫ですか!?」
途中で我に返ったフヅキ様は、勢いよく顔をあげてローゼマリー様に詰め寄る。
「怪我はありませんか!? 刺されていません!?」
「私はどこも、……ネロは?」
ぼんやりとしていた目に、光が戻る。目を見開いたローゼマリー様は、部屋の中を見回す。
「ネロっ!」
壁に沿うようにして倒れる黒い塊を見つけたローゼマリー様は、焦りながら立ち上がろうとする。
足に力が入らないのか、何度もよろけて壁に手をつきながら、黒猫の元に駆け寄った。
「……ネロ?」
猫の傍らにペタンと座り込む。
震える指先をゆっくりと伸ばそうとして、躊躇った。恐ろしい想像が現実になる事を拒むかのように、そのまま動かなくなる。小刻みに震える手と、青くなる顔色だけが時間の経過を知らせていた。
「……殿下」
団長はローゼマリー様の隣に膝をつく。
いつまでも触れられないローゼマリー様に代わるように、黒猫に手を伸ばした。節くれだった無骨な手からは想像も出来ないほど、丁寧な手つきで小さな体に触れる。
呼吸や鼓動を確かめているのか、胸や鼻先に触れる様子を、ローゼマリー様は息を殺して見守っていた。
震える手は、団長の騎士服の袖口を握る。無意識の行動だろうが、何かに縋りたいという心の表れだろう。
祈るような眼差しを受け止めた団長は、視線を合わせて頷いた。
「息はあります。気絶しているのでしょう」
「…………本当に?」
ローゼマリー様の声は、手と同様に震えていた。
団長はローゼマリー様の手に手を重ね、もう一度しっかりと頷く。
「はい。どこかを痛めている可能性はありますが、命に別状はなさそうです」
「っ……よ、かったぁ……」
安堵に表情を緩めたローゼマリー様は、泣き出しそうな声で呟く。
脱力したローゼマリー様の体が、ぐらりと傾いた。張り詰めていた糸が切れたように崩れた体を、団長は抱き留める。
「ローゼマリー様っ?」
「気を失われたようだ。安心したんだろう」
焦って駆け寄ったオレに、団長が答える。
壊れ物を扱うみたいな手付きで細い体を抱き上げ、団長は立ち上がった。横抱きにしたままベッドに近付き、ローゼマリー様をそっと横たえる。
寝顔を覗き込む団長の目は、見たこともないほどに優しかった。
「フヅキ様」
「ひゃいっ!?」
振り返った団長に呼びかけられ、フヅキ様はびくりと跳ねる。顔が真っ赤なのは、おそらく団長とローゼマリー様のやり取りに当てられたからだろう。
「立てますか? 怪我はないとの事ですが、医者を呼びますので、一応見てもらいましょう」
「はい、立てます! もちろん一人で!」
赤い顔で焦りながら、フヅキ様は勢いよく立ち上がる。
落ち着きなく視線を彷徨わせながら、手で服についた埃を叩いた。
「良かった。では別室に移りましょう」
団長は寝床らしきカゴに黒猫を乗せ、そのまま持ち上げる。
フヅキ様の後で見せるのだろう。
「クラウス、後は頼む」
「かしこまりました」
朝までローゼマリー様のお傍についているつもりだが、流石に中に居座る事はできない。二人と共に部屋を出て、ドアの外で見送ろうとした時、「あっ」と小さな声がした。
「フヅキ様、どうかされましたか?」
声の出処はフヅキ様だった。
立ち止まった彼女は、首から下げていた小さな袋に、恐る恐る手を伸ばす。
さっきまでとは真逆に真っ青になったフヅキ様は、酷く焦りながら首から紐を外し、袋の口を開く。中身を確認した彼女の目が、大きく見開かれた。
「……どう、しよう……やっちゃった……」
震える声で呟いた内容に、心当たりはない。
しかし強ばる団長の顔を見て、非常事態である事は理解した。




