転生王女の眠り。
北方の砦から帰還して、一ヶ月と少し。
リーバー隊長の訃報が届いた。
他国へ任務に赴く途中、北西の国境にある山脈付近で消息を絶ったらしい。街道から少し外れた場所で、谷底へと滑り落ちるような痕跡を発見したとの報告から、荒天で道を見失い、そのまま落ちたと判断された。
国で五指に入る騎士の訃報は、国中に大きな衝撃を齎した。
葬儀は遺体のないまま、身内だけでしめやかに執り行われたという。
北方の砦はイザーク・ヴォルター副隊長が隊長となり、副隊長は一時的に小隊長達で回すらしい。王都から新しい人員が配属されるまでの仮措置だ。
概ね、想像通りの結末となった。
真実を知るのは一握りの人間だけ。私も、最終的にリーバー隊長がどうなったのかは分かっていない。
国政に関わっていない私が知る事は、きっと一生ないのだろう。
でも、それなら……生きていて欲しいと、願うだけなら許されるかな。
ベッドの中で、寝返りをうつ。
目を閉じても眠気は一向にやってこない。
私が悩んでも意味はないと理解しているのに、脳みそは勝手に働いてしまう。
諦めて体を起こすが、辺りは真っ暗。
室内をほんのり照らすのは、分厚いカーテンの隙間から細く差し込む月明かりだけ。朝はまだまだ遠そうだ。
ベッドからするりと下りる。夜の冷えた空気に晒され、布団の中で温められた体はすぐに温度を失くしていく。
慌ててショールを羽織ってから、窓の傍に近付いた。
カーテンを開けようと思って、手を止める。
気分転換にお月見でもしたいと思ったけれど、駄目だ。夜中にバルコニーでのんびりとお月見なんて、命を狙うなら今ですよと言っているようなものだろう。
諦めはしたけれど、相変わらず眠気はどこかに家出したまま。ベッドに戻る気にはならなくて、未練がましくカーテンの隙間から夜空をそっと見上げる。
僅かに欠けた蒼い月が、高い位置にぽっかり浮かんでいた。
ヴィント王国の村でも、こうして月を見上げていたっけ。
ナハト王子を王都まで送り届けて戻ってきたレオンハルト様と、丁度会えたんだった。私の無事を確認して安心したように笑ってくれた顔は、未だに覚えている。
レオンハルト様は、どんな気持ちでリーバー隊長の訃報を聞いたのだろう。
真実を知っていて、受け止められているならいい。でも、私と同じように知らないままだったとしたら。そう考えるだけで、胸が痛む。
短い期間しか一緒にいなかった私ですら、こんなに辛いのに。親友であるレオンハルト様の痛みは如何許だろうか。
自然と手に力が籠もって、厚手のカーテンに皺を作った。
目を瞑って俯き、こつんと窓に額を押し付ける。ひやりとしたガラスの感触に、少しだけ頭が冷えた気がした。
この悩みに答えはない。
誰に聞く事も許されないのだから、リーバー隊長の死を表面上は受け止めて日々を生きていくしかないんだ。
どれくらい、そうしていただろうか。
ドサリと何かが落ちるような音が、耳に届いた。
顔を上げて、肩越しに振り返る。
室内に異変は見当たらない。物が落ちた様子もないし、ネロはベッドの枕元付近に置かれた籠で、気持ちよさそうに眠っている。
確かに音は、近くはなかった。寝静まった深夜だからこそ届いた遠い物音。
外で何かが落ちたのかな。
はて、と首を傾げてから外へと視線を戻す。
それと同時に、影が差した。
真っ暗な視界に、月が隠れたのかと思い当たる。
さっきまで雲一つなかったのにと不思議に思いつつ、目を凝らす。すると暗闇の中から私を見つめる一対の目と視線がかち合った。
「ほぁっ……!?」
驚きが大きすぎて、素っ頓狂な声が洩れる。
心臓がひっくり返ったんじゃないかってくらい、大きく跳ねた。
張り付いていた窓から一歩分、反射的に飛び退いたけれど、それ以上足が動かない。アラームの如くバクバクと煩い心音を聞きながら、目を逸らす事も出来ない私の眼前で、暗闇の中の目は三日月の形に細められた。
窓の外の誰かは人差し指の背で、コンコンと窓ガラスをノックする。
開けて、と合図するみたいな気の抜けた動作に、警戒心が僅かに緩んだ。
暗闇に慣れた目が映し出したのは、見知った人物の顔。
少女漫画に登場する王子様キャラのように、甘い顔立ちのその人は、にんまりと口角を吊り上げる。日の下では穏やかに見える微笑みは、暗闇の中では牙を剥いた大型獣の如く危うく見えた。
「ラーテ……?」
名前を呼ぶと彼は、もう一度ガラスを軽く叩く。
「あ、け、て」と口の動きで催促した。
現状が理解出来ないながらも、バルコニーに面したガラス戸の鍵を開ける。
キィ、と蝶番が甲高い声を上げながら、扉が開いた。
そうして半分くらい開いたところで我に返った私は、手を止める。
すぐに閉めようとしたが、その前にラーテは素晴らしい反射神経を発揮して、隙間に靴を滑り込ませた。
端整な顔から笑顔が消えるのを、間近で見てしまった。
ハイライトの消えた目は、ホラー映画もびっくりなレベルで怖い。
ガッと扉の隙間に両手をかけてこじ開けられてしまえば、私のように非力なモヤシが勝てるはずもなく。
室内に一歩踏み込んだラーテは、再び、にっこりと笑う。
「こんばんは、お嬢さん。良い夜だね」
「こ、こんばんは」
口元が引き攣りそうになるのを堪えつつ、なんとか挨拶を返す。
「やっと会えたね。久しぶりだけど、元気にしていた?」
「ええ。ラーテも変わりない?」
うん、と頷く様子は無邪気な子供のようだ。
しかし纏う空気は張り詰めていて、気圧されて後退りそうになるのを、必死に耐えた。
「で、だ。なんで締め出そうとしたの?」
薄々気づいていたけれど、締め出そうとしたのが気に入らなかったらしい。
笑顔なのに不機嫌なのが分かるラーテに、私は情けなく眉を下げた。
「……ごめんなさい」
「謝って欲しい訳じゃないよ。なんで締め出したのか、理由が知りたいだけ」
謝罪を跳ね除けられて、うう、と小さく呻く。
これは正直に答えないと、許してもらえなさそうだ。恥ずかしいけれど、仕方がない。
私は観念して、口を開いた。
「……夜中に男性を部屋に招き入れるなんて、よくないなぁと。その、思いまして」
言った瞬間、ラーテの目が丸くなる。
『何言ってんだ、こいつ』と言いたげな表情に、居た堪れなくなった。
「ラーテが変な事をするとか思っている訳じゃないわよ!? じ、自意識過剰なのも分かっているわ。でも、嫁入り前の身としては、迂闊な行動は慎んだ方がいいかなぁって……」
語尾が小さくなっていくのが自分でも分かる。
深く穴を掘って、入りたい。誰かに蓋をして欲しいくらいだ。恥ずかしい。両手で覆った自分の顔が熱くて、情けなさに涙が出そうだ。
私ってば、とんだ勘違い女じゃないか。
「……お嬢さんって、ズレてるって言われない?」
「追い打ちは止めて……」
今の私は、耳まで赤くなっているだろう。
恥ずかしくて、顔が上げられない。
「予想外だよ、うん。でも、良い意味でだからね」
ラーテは、クスクスと喉の奥で笑う。
自意識過剰に良い意味なんてあるもんか。
フォローしてもらったのに、八つ当たりめいた事を思いつつ、恨みがましい目で見上げる。ラーテは至極楽しそうな様子で、さっきまでの張り詰めた空気は霧散していた。
「オレが貴方を殺しに来たとは、思わないんだ」
「!」
目を見開く私の様子に、答えを受け取ったらしい。
ラーテは嬉しげに、目を細めた。
「やっぱり、お嬢さんは面白い。近衛騎士団長さんは幸せ者だね」
「!? そ、そそそそんなこと……」
さっきまでとは違う意味で恥ずかしくなる。
盛大に吃りながら、熱を持った頬を押さえた。
プロポーズされた訳でもないのに、すっかり嫁入りする気満々だが、ツッコミは不在だ。
「ちゃんと働いて、貴方を護るから。嫁入り道具には、オレも加えてね?」
囁くように耳元に落とされた言葉は、すぐには理解できなかった。
嫁入り道具に、若いイケメンをリストアップしろと?
斬新過ぎるんじゃないの、それ。
私が返事をする前に、ラーテは身を翻す。
「ちょっと、ラーテ……」
「あ。そういえば、カラスが新しい犬を押し付けられたみたいだよ」
「……いぬ?」
私の言葉を遮るみたいに、ラーテは声を被せる。
唐突な話題転換についていけずに、間抜けな顔で鸚鵡返しした。
「お嬢さんが拾ってきた、大型の犬。カラスが面倒みるんだって」
肩越しに振り返ったラーテは、「秘密ね」と自分の唇に人差し指を押し当てる。
私が拾ってきた、大型犬。
そんな記憶は頭のどこを探しても、見つかりはしない。しかし、大型犬のように人懐っこい笑顔をふと思い出した。
「それって……って、あれ?」
目を離したのは数秒なのに、いつの間にかラーテの姿は見えなくなっていた。バルコニーには人の気配はなく、静まり返っている。
狐に化かされたみたいな気分になりつつ、ガラス戸を閉めた。
「生きている……そう思うだけなら、自由だよね」
独り言を呟いた私は、ベッドへと戻る。
目を閉じると、さっきまでとは違い、穏やかな眠りが訪れるような気がした。




