或る密偵の独白。(2)
※ネーベル王国の密偵、カラス視点になります。
※直接ではありませんが、残酷な表現があります。内容も暗めになっておりますので、苦手な方は回避してください。
思考に引き摺られるようにして、ぼんやりと霞がかった景色が脳裏に浮かぶ。
細く入り組んだ路地を抜けた先。
崩れかけた古い石造りの家々に囲まれた場所。
石壁に寄り掛かるように粗末な小屋が立ち並ぶ。踏み固めただけの土の道は、二階の窓から容赦なく投げ捨てられる汚水のせいで、いつも泥濘んでいる。
道の端には動物の骨や生ゴミが打ち捨てられており、ハエが年中湧いていた。風通しが悪いせいか空気は淀んでおり、吐瀉物に似た悪臭が立ち込めている。
住人は老若男女問わず、皆痩せ細っていた。暗く濁った目をして背中を丸めて歩く様子は、まるで生気を感じさせない。一日過ごす度に、生きる気力を吸い取られているような……そんな場所。
戦争狂と呼ばれた男が治める国、スケルツ王国。
その王都の端に位置する貧民窟に、オレは生まれ落ちた。
常に周辺諸国と小競り合いを繰り返していた母国は、決して裕福とは言えない状態だった。恵まれた暮らしをしているのは王侯貴族、それから軍に携わる一部の人間だけ。平民の殆どは、戦争で家や畑、それから若い働き手を失い、貧しい生活を強いられていた。
オレはそんな中でも更に下の下。底辺を這いずって生きていた。
棒きれみたいな手足に、ボサボサで艶のない黒髪。肌は垢で真っ黒。
幼い頃のオレは、痩せ細ったクマネズミのような外見だったと思う。
いや、食うものに困ったオレは、実際にネズミと同じような食生活だったな。腐りかけの生ゴミに木の根っこ、もちろん虫も食った。あの頃のオレはたぶん、二本足で立ち、言葉をちょっとばかり理解するだけのネズミだった。
スケルツには戦争孤児が溢れていたので、大して珍しい話でもなかったが。
ただオレの場合、厳密に言うならば孤児ではなかった。父はいないが母が生きていたからだ。
それだけでも大分マシに思えるかもしれないが、実状は逆だ。病気で殆ど動けない上に、オレを忌み嫌う母親との二人暮らしは正に地獄だった。
元は娼婦だったオレの母親は、上客の子供……つまりオレを身籠って、愛人の座に納まるはずだった。
だが病を患っている事が発覚し、身一つの状態で捨てられたらしい。
頼る人もおらず、店にも帰れない母は、幼いオレを連れたまま、路上暮らしを始めた。
初めの頃は街角に立って細々と客をとっていた母だったが、だんだんと症状が悪化して寝たきりとなった。
元は美しい女だったみたいだが、オレが思い出せるのは、鼻が腐り落ちて平べったくなった顔を包帯でぐるぐる巻きにして隠した最期の頃の顔だけ。骸骨みたいに痩せていたくせに、ボサボサの黒髪の間から覗く目だけが、ギラギラと光っていたのを覚えている。病に蝕まれる痛みに悲鳴をあげながら、オレを呪う言葉を吐き続けていた。
お前なんて産まなければ良かった。その言葉を聞いた回数は、百を超えたところで数えるのを止めた。
それでもガキだった頃は愛情が欲しくて、必死に母親の言うことを聞いていた。
母はオレに言葉や簡単な計算を教えてくれたから、愛情がない訳ではないと自分に言い聞かせ、ガキなりに自分を慰めていたような気がする。
今にして思えば、自分の代わりにオレに客を取らせようっていう自分本位な理由だったと思う。
簡単な計算や意思疎通が出来なければ、客をとれても、支払いの段階で簡単に騙されるだろうからな。しかし、そんな事を当時のオレは知る由もなく。いつか愛してくれると儚い幻想にしがみ付き、健気に母に従っていた訳だが……。
結局、母はオレに一度も優しい言葉をかける事なく死んだ。
一人きりになったオレは生きる気力も失せ、死にかけていたところを老婆に拾われた。連れ合いを早くに亡くしたという婆さんは、オレに食事と寝床を提供してくれた。
暖かい家と、温かいスープ。生まれて初めて人に優しくされたオレは、溢れる涙を止められなかった。泣き続けるオレの頭を、老婆はずっと撫でてくれた。
初めて人の情けに触れ、感動したものだが世間はそう甘くない。
寝ているうちに売り払われたオレは、そうつくづく実感した。
なにが「孫みたいで放っておけなかった」だ。いたいけなガキの気持ちを弄びやがって、クソババアが。くたばれ。
オレの買い手は、山賊まがいの傭兵集団だった。
奴らはオレと似たようなガキを集め、人を殺す術を教え込んだ。年がら年中争っているような国だ。兵隊の需要はいくらでもある。
幸いと言うか、不幸と言うべきか。オレには人殺しの才能があったらしい。
頭角を現したオレは引き抜かれる形で組織を渡り歩き、ついには国王直轄の暗殺部隊の一員となっていた。
「新入り君、名前は?」
そう聞いたのは、オレの指導役の男だ。
細身で女顔、しかも物腰柔らかという、いかにも女受けしそうなそいつは、優しげな微笑みを浮かべていた。但し、目は冷え切って全く笑っていなかったが。
「好きに呼んでくれ」
端的に告げると、男は困ったように眉を下げる。
「名乗りたくないって事かな?」
「いや。単純に名前がないだけだ」
名前なんて御大層なモノ、オレにはない。
母に呼ばれた記憶もないし、特に不便を感じた事もなかった。オレの説明を聞いて、男は軽く目を瞠った。「そう」と呟いた彼は、少し考える素振りを見せる。
「そうだなぁ……じゃあ、カラスってのはどう?」
綺麗な黒髪だし。
たったそれだけの理由で、オレの名前はカラスになった。
「別に何でもいい」
「じゃあ、これからよろしくね。カラス」
特に深い意味のない、仕事を共に行う上での便宜上の名前。今までの「おい」とか「そこの黒いの」と大差ない筈。
だというのに何故か、胸がざわつく。
当時のオレには理由が分からなかったが、今なら分かる。生まれて初めて、『オレだけのもの』が与えられたからだ。
だからといって別に、その指導役の男に親しみを覚えるなんて事もなく。そいつの方からも必要以上には、近寄ってこなかった。
面倒見の良さそうな外見を裏切り、最低限の事しか教えないし。しかも結構、雑で適当。
だが意外にも男は、部隊では一、二位を争う実力の持ち主らしい。
世界各国を飛び回っているらしく、最初の一週間以来、殆ど顔を見ない。国内の諜報活動……しかも色仕掛けを武器にするような任務ばかり割り振られるオレとは、えらい違いだ。
「仕事で綺麗なお姉さんと遊べるなんて、羨ましいくらいだけど」
たまに会ったと思えば、笑顔でオレの神経を逆撫でするような事を言い出す。
ヒクリと口の端が引き攣った。
「……それなら代わってやるよ。アンタの方が綺麗な顔してるし、適役だろ」
「いやー。カラスのその色気は、中々出せるもんじゃないよ」
母親に似たらしい顔立ちのお陰か、オレは年上の女にやたら受けが良かった。全然、嬉しくなかったけどな。
当時のオレはまだ、肉親からの愛情を諦めきれずにいた。そんな多感な年齢のガキが、母親と同年代の女に乗っかられるのは、結構キツいものがある。
品のある貴婦人も清楚な令嬢も、ベッドの上ではただの女だと思い知らされたオレは、女という存在が苦手になりつつあった。
「女なんて碌なもんじゃない」
閨でのアレコレを思い出し、こみ上げた吐き気を振り払うように呟くと、男は珍しくも真面目な顔で頭を振った。
「カラス、それは違う」
窘めるような言葉に面食らう。
まさか女性を悪く言うものではない、なんて紳士ぶったセリフを吐く気だろうか。上っ面だけのエセ紳士であるコイツが。
驚くオレを眺めながら男は、至極真面目な顔でこう続けた。
「女だけじゃないよ。人間って生き物が、碌でもないんだ」
冗談かと一瞬思った。
だがなんの感情も浮かばない真顔と光のない目が、紛れもない本心であると告げている。もしかしたらこの男は、オレよりも酷な地獄を見てきたのかもしれない。
「……それにカラスの仕事は、かなりマシな方だよ?」
いつもの胡散臭い笑顔に戻った男は言った。
その言葉の意味をオレが知るのは、一年近く経ってからだった。
「今日の役目は見張りだよ。楽で良いよねぇ」
分厚い鉄の扉に背を預けた男が、ニコニコと笑う。だが、その横に並び立つオレは笑えない。笑える強さが無かった。
精鋭揃いと呼ばれた暗殺部隊だが、本業とも言える暗殺任務は割と少ない。
国王は派手な戦を好むため、暗殺という手段をあまり好まないらしい。なんて馬鹿馬鹿しい話だ。ならば端から暗殺部隊など作るなと言いたいが、武器を飾って眺める感覚に近いのだろう。ようは趣味の一環だ。
ならばさぞ暇だったろう、と言われれば否と答える。
表立って行えないような汚い仕事ってのは、結構あるからだ。
国王にとって目障りな人間の誘拐や拷問。
スパッと手早く殺すのはお気に召さなくても、目の前で見世物の如く、嬲り殺しにするのはアリって事だ。
その時のオレに割り当てられた仕事も、その一環。
きっと扉の向こうには、目を覆いたくなるような惨たらしい光景が広がっている。
顔を歪めたオレを、男はじっと見つめていた。
「……カラスはさ、この仕事、あんまり向いてないね」
「……」
オレは無言で俯く。
向いているとか、向いていないとか、そんな事を考えた事はなかった。いや、その前に選択の余地がなかったんだな。生きるために何でもやってきた。たぶん、これからも。生きるためには、オレは何でもやるのだろう。
ぼんやりと落とした視線の先にある、自分の手が真っ赤に染まって見えた。
既にオレが殺めた人間の数は、二桁をとうに超えている。今更だ。今更だというのに、躊躇する自分がいる。
道楽のために人を嬲り殺しにするなど、許されるのか、と。
もし、この先に進んだら、二度と引き返せない気がした。
「別の仕事探しなよ」
「……は?」
咄嗟に反応出来なかった。
唖然としたオレを見て、男は目を細める。
「オレも金貯まったら、店でも開こうかと思うんだ。飲食店とか良いよね」
男はオレを見ずに言葉を続けた。遠くを見るような目に、胸が詰まる。
スケルツ王国の国王に雇われていて、簡単に自由が手に入るなんて、彼だって思っちゃいなかった。
オレ達が自由になる日は、死ぬか、捨てられるか。そのどちらかだ。自分で選べる道は残されていない。
手が届かないと分かっているから、夢を語る。夜空に浮かぶ月を仰ぎ見るように。
「……元暗殺者が店主の飲食店とか、絶対入りたくない」
「普通の店では味わえない、刺激的な料理を提供出来るよ?」
「絶対に入りたくない」
「暖かい国がいいなぁ。フランメ……は暑すぎるし、ネーベルとかどうかな」
馬鹿馬鹿しい会話を続けながら、男は笑う。いつもの薄っぺらい笑顔でなく、楽しそうで、同時に少しだけ哀しそうな笑い方だった。
「うん、ネーベルが良いな。あの綺麗な国で暮らせたら、どれだけ幸せだろう」
夢見るように告げる彼から、そっと目を逸らす。
オレ達はネーベルでは暮らせない。ずっとこの、腐りきった国で一生を終えるのだ。
この扉の向こうに、いつかオレも足を踏み入れる。
人の形をしたものを切り刻み、嬲り殺しにして、それでも何も感じなくなっていくのだろう。
だが、転機は唐突にやってきた。
国王が気紛れでネーベルの魔導師にちょっかいを出し、挙げ句、誘拐に失敗したせいで、国際情勢は大きく変わった。
ネーベル王国とヴィント王国が、スケルツ王国に宣戦布告。そしてスケルツに隣接する三ヶ国が、ネーベル、ヴィントの連合軍を支持する声明を発表。
戦争狂と呼ばれる国王であっても、流石にこの状況を楽しめるほど、楽観的ではなかったらしい。
配属されてから、初めて、暗殺部隊らしい仕事が回ってきた。
だがそれは、極めて困難な任務。寧ろ『死ね』と言われているのではないかと聞きたくなる。今は諜報活動で国外にいるあの男が帰国していたら、オレには絶対に回ってこなかったであろう大仕事。
オレに課せられた仕事は、ネーベル王国国王 ランドルフ・フォン・ヴェルファルトの暗殺だった。




