転生王女の帰国。
瞼越しに、薄っすらと光を感じた。
それに手を引かれるように、意識がゆっくりと浮上していく。朝だと感覚で分かった。けれど、だるい体が目覚めを拒否する。
光の差す方向から顔を背けるために、寝返りを打つ。
頬にあたるシーツの感触が心地よい。手探りで引き寄せた枕も、石鹸とお日様の良い香りがした。
気持ち良い……。
こんなに安心して眠れるの、いつぶりだろう。
懐かしい香りと感触に安心した体が、弛緩してゆく。再び襲ってきた眠気に逆らわず、意識を手放そうとした。
――ふに。
「…………?」
眠りに落ちる直前に、額に何か柔らかなものが触れる。
しっとりしてて、ふにっとしてる弾力のある何か。痛みは全く無い。
私はこの感触、よく知っている気がする。
薄目を開けると同時に、にゃあ、と可愛らしい鳴き声が聞こえた。
視界いっぱいに広がるのは、真っ黒な毛並みと宝石の如き青い瞳を持つ猫の顔。寝ぼけた頭でも忘れるはずもない、かわいい、かわいい、愛猫ネロの顔。
「ねろー……おはよ」
私の頭を踏みつけて、覗き込んでいる愛猫に手を伸ばす。抱き寄せても抵抗はなく、腕の中に大人しくおさまった。頬擦りをすると、迷惑そうに一声鳴いて、可愛いおててに押し返されたけど。
あー、これこれ。このつれなさと世界が嫉妬する可愛さ。
ネロだー。私のかわいいネロだー。
ネロを抱えたまま、半身を起こす。窓から差す朝日に照らされているのは、ルネサンス様式の広い寝室。私の見慣れた景色。
「そうだ、帰ってきたんだった……」
ヴィント王国の城へと招かれ、歓待された後、私はネーベルへと帰国。
箱入り娘だった私の大冒険は、昨日、終わりを迎えた。
慣れ親しんだベッドのお陰か、帰ってきたという安心感か。昨日は久しぶりに熟睡出来た気がする。体はまだ疲労を訴えるが、気分はすこぶる良い。今なら、なんでも出来そう。
暫くベッドの上でゴロゴロしていると、侍女の皆さんがやって来た。
笑っているけれど、なんか迫力あるのは気の所為?
……気の所為ではないね。ネロが逃げたもの。
昨日は私が疲れ切っている事が分かったからか、最低限のケアだけで済ませてくれた訳だが、今日はそうはいかないらしい。
肌や髪、爪の手入れを、もういいってくらい念入りにされた。ピッカピカにされた。どうやら、旅の間にボロボロになった私の状態に我慢が出来なかったらしい。プロ根性に火が着いたんですね、分かります。そして、ズボラでごめんなさい。
結果、朝から磨き上げられた私は、既に疲労困憊。さっきの全能感はまやかしに過ぎなかったらしい。
フラフラになりながらも支度を終えた私は、兄様のいる執務室を目指す。起きたら来るようにと、伝言を受け取ったからだ。
部屋に着くと入り口に立っていた兵士が、中へ取り次いでくれた。
ちなみに今日の私付きの護衛騎士は、クラウスではない。怪我が治りきらない彼はもう少しだけ、休養して貰っている。
兵が中へ入ってすぐに、ガタンと大きな物音がした。
何事かと目を丸くしていると、さして間を開けずに扉が勢いよく開く。飛び出してきた人は、必死な形相で私を見た。
走ったせいか、クセのないプラチナブロンドが乱れて額にかかっている。普段は怜悧な光を宿すアイスブルーの瞳は、不安げに揺れていた。
「兄様……?」
「っ……」
勢いに気圧され、戸惑いながらも名を呼ぶ。
すると、彫像の如き端正な美貌が、痛みを堪えるように歪んだ。兄様は何か言おうと口を開いたが、結局言葉を紡ぐことなく閉じる。
兄様は私の手をとり、引く。短く「おいで」と呟き、私を中へと招き入れた。
室内に入るとすぐ、レオンハルト様と目が合う。
私達よりも先に母国へと帰っていた彼と会うのは、十数日ぶりだ。言葉を交わす前に、何故か訳知り顔のレオンハルト様は、入れ違いで部屋を出る。
残されたのは、私と兄様だけ。
綺麗に整頓された執務机の前辺りまで来ると、兄様は私を振り返った。
こうして間近で向き合うと、身長差が開いた事に気付く。この半年で私も背が伸びたと思うんだけど、どうやら兄様の方が成長したみたい。
そして変化は、身長だけではなかった。
「兄様、少し痩せました?」
兄様は元から細面だったが、頬の辺りが更に少し削げた気がする。
心配になって大丈夫かと問うが、兄様は答えない。無言のまま彼は大きく手を広げ、私を抱き締めた。
包み込むような力加減で、痛くはない。むしろホッとする。やっと帰ってきた、もう怖いことも痛いこともないんだって、体中の力が抜けていく。
「ローゼ」
噛み締めるように、名を呼ばれた。
兄様の背中に手を回す。細身ながらも頼もしい胸に頬をくっつけると、優しい鼓動が伝わってくる。
「ただいま、兄様」
「ああ。おかえり、私の大切なローゼ」
兄様は、私の頭を撫でる。
その手は、ただ只管に優しくて。小さな子供になった気分だ。
「初めての旅はどうだった?」
「大変でした! 私、自分で思うよりずっと不器用だったみたいです。笑っちゃうくらい出来ない事ばかりで、何度心折れたか分かりません」
「うん」
「でも優しい人達が助けてくれて、なんとか乗り越えられました」
「それは良かったな」
「はい。兄様に聞いて欲しい話が、沢山あるんです」
満面の笑みを浮かべて兄様を見上げると、同じように緩む眦。
細められた冬空色の瞳が、とろりと溶けた。
「私もだ。お前の話を、沢山聞きたい」
兄様ってば、孫馬鹿なお爺ちゃんみたい。
嬉しいけれど、恥ずかしい。くすぐったい気持ちになりながら、私は抱きついていた手を離した。
「では、兄様のお休みの日に、また会いに来ますね」
そう言った途端、兄様は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……今ではなく、か?」
「はい。お仕事頑張ってくださいね」
軽く胸を押すと、降参とばかりに兄様は両腕を上げた。一歩離れて見つめ合っていると、タイミングを見計らったかのように扉が開く。
中へ戻ってきたレオンハルト様は、私達の様子を見て相好を崩した。
「そろそろお時間ですと、お伝えしようとしたのですが」
「丁度、妹に振られたところだ」
「流石は姫君です」
レオンハルト様は私と兄様を見比べた後、喉を鳴らして笑った。
誉められているのかは微妙なところだが、前向きに受け取っておこうと思う。
.




