転生王女の多幸。(2)
「…………」
熱された鉄板を見つめたまま、私はゴクリと喉を鳴らす。丸く伸ばしたチャパティもどきの生地を持つ手は、プルプルと震えている。何十枚、いや、クーア族の村での暮らしを入れたら三桁は焼いた筈なのに、初めての時より緊張していた。
落ち着くのよ、ローゼマリー。
何時も通りやれば、失敗なんかしないわ、きっと。うん、たぶん。えーと、角度は四十五度くらいから滑り込ませればいいんだっけ?
何時も通りと心の中で唱えているのに、謎のこだわりが浮上して更に混乱を招く。
深呼吸を繰り返し、いざ調理を開始しようとした、その時。
見計らったかのように、背後から声をかけられた。
「……姫君?」
「ひゃい!?」
変な声でた!
しゃっくりのような自分の声に驚くのと同時に、指先から滑り落ちた小麦粉生地が、見事鉄板の上に着地した。
「な、ななななんでしょうっ?」
体ごと振り返ると私のすぐ後ろに、レオンハルト様が所在なげに立っていた。
見上げた彼は少し困ったように笑う。
「いえ、その……オレにも、何かお手伝い出来ることはありますか?」
「大丈夫です! レオン様は、座っていてください」
一緒に料理なんて、心臓が何個あっても足りない!!
そう判断した私は、即座に却下してしまった。するとレオンハルト様は、そうですかと呟き、離れていく。その後姿が、少しシュンとしているような気がした。かわいい。しょんぼりしたレオンハルト様かわいい。
せっかく厚意で申し出てくれたのに、申し訳ないと思う。
思うけれど、私の心臓の耐久度とレオンハルト様への免疫のなさを鑑みて、英断だったと言わざるを得ない。
レオンハルト様が間近にいたら、確実に料理どころではなくなる。
うんうん、と自分の判断を褒め称えていた私は、ふと気付いた。
……あれ?
さっきの会話……なんか新婚さんっぽくない?
『なんか手伝おうか?』『いいのよ、貴方は座っていて』って、まんま新婚さんの会話じゃないかな!?
「っ……!!」
己の頬を両手で挟みながら、私は悶えた。指先についていた粉が頬についたけれど、知ったことではない。
待って! そんな大事なイベントを無意識にスルーしていただなんて、冗談じゃない。やり直しを要求する。誰か、クイックロードしてください!
そしたら、スチルも音声もちゃんと保存しておくから! 五感をフルにつかって堪能するから……!!
ああ、もったいない……せめて、今日という日を事細かに覚えておこう。天気、気温、湿度、えーとあとは……なんか香ばしいにおいがする…………ん?
「……あっ!!」
すん、と鼻を鳴らした私は、ようやく目の前で放置され続けていた鉄板の存在に気付いた。慌ててひっくり返した生地は、端の方が焦げてしまっている。
「あああ……」
やっちゃったー……。
焦げている部分は少しなので、食べられないことはない。でも、私が目指していた完璧な出来とは程遠い。情けない声を出しながら、私は項垂れた。
でも、軽く失敗したお蔭で緊張は解けたかも。
鍋でひよこ豆を煮ながら、フライパンで玉ねぎを炒める。透き通ってきたらニンニク、生姜を追加。炒めていると、お腹の虫を刺激する良い香りが漂ってきた。
頃合いをみて、刻んだトマトと鶏肉を投入。お、いい音。ジュウジュウと鳴るフライパンを軽く揺すりながら炒める。
これだけでも結構美味しそうではあるけれど……ここで取り出しますは、クーア族の皆から貰ったスーパーイースー。ドラ◯もん風に言ってみたけれど似てない自信しかない。
ターメリック他三種のスパイスを加え、更に炒める。暫くしたら煮込んでいたひよこ豆と水を適量。
軽く煮込んで、塩胡椒で味を整えたら……。
チキンとひよこ豆のトマトカレー&チャパティ(仮)の完成。
夜食に向かないとか言わないで欲しい。私だって、出来る妻みたいに鯛茶漬けとか用意したいよ。でも材料がないんだもの、しょうがないじゃない。
振り返ると、レオンハルト様と目が合った。
もしかして、ずっと調理をしている姿を見られていたんだろうか。そう思うと恥ずかしくて、視線を逸らして器を手にとった。カレーを盛った器と少し焦げたチャパティをレオンハルト様の前に置く。
「これは、なんという料理ですか?」
「えーっと、これはカレーといいます。トマトカレー」
「トマトカレー」
ほう、と頷いて、レオンハルト様は興味深そうに復唱する。
そして彼は、いただきます、と手を合わせてからスプーンを手にとった。
あー、ドキドキする。心臓が痛い。
気を紛らわせるために、コップに水を注いで、レオンハルト様の手に届く位置に置いた。ちらりと視線を向けると、形の良い口にスプーンが入るところだった。反応を見るのが怖くて、ぎゅうと目を瞑った。
数秒の沈黙を破ったのは、レオンハルト様の小さな呟きだった。
「……うまい」
自分に都合の良い聞き間違い、もしくは空耳だと、ネガティブに自分に言い聞かせる。だが期待が抑えきれずに、恐る恐る目を開けた。
レオンハルト様は鶏肉とひよこ豆をスプーンで掬って、大きく開けた口に運ぶ。咀嚼する彼の、普段は落ち着いた印象を与える墨色の瞳が、輝いているように見えた。
ちぎったチャパティを頬張ると、これまた「うまい」と言ってくれる。相当お腹が減っていたのか、カレーとチャパティが凄い勢いで消えていく。それなのに食べ方が汚くならないのが凄いな。
「おかわりありますが……」
「いただきます」
即座に皿を突き出され、驚くのと同時に凄く嬉しくなった。
お皿にカレーを盛って渡してから、向かいの席に座って、レオンハルト様の食事風景を眺める。
どんどん皿の中身が減っていくのは、見ていて楽しい。チャパティ、三枚じゃ足らなかったかなー。
いっぱい食べる君が好き、なんてCMがあったけれど超分かる。健啖家って素敵だよね。
好きな人が、目の前で幸せそうな顔をしてくれる。それだけでも嬉しいのに、彼を幸せにしているのが私の作った料理だなんて、こんなにも嬉しい事はない。
私は暫し、幸せな時間に浸っていた。
レオンハルト様が食べ終わる頃を見計らい、湯を沸かし始める。
すると食べ終わったレオンハルト様が、食器を持って来てくれた。
「ご馳走様でした」
そう言って笑うレオンハルト様は、少し照れくさそうだった。
擽ったい気持ちになりながら、お粗末様でしたと応える。食器を受け取ろうとすると、これくらいは自分がやりますと、やんわり断られた。
袖を捲って洗い物をするレオンハルト様に、つい見惚れてしまう。男の人の腕捲りって、格好良いというか、色気があると思うのは私だけだろうか。
「カレーというのは不思議な料理ですね」
「えっと、そうですね」
危ない。筋張った腕に見惚れていて、危うく聞き逃すところだった。
「不思議な香りと辛さなんですが、それがまたなんとも食欲を刺激する。あの平べったいパンとも良く合って、凄く旨かったです」
「お口にあって良かったです」
褒められて嬉しいけれど、恥ずかしい。
レオンハルト様から視線を外し、沸かした湯でお茶を淹れる。
「貴方は菓子だけでなく、料理も上手なんですね」
「あ、ありがとうございます……」
恥ずかしくて、声が小さくなってしまった。望んだ展開の筈なのに、なんだろうこの居た堪れなさ。照れくさくて逃げ出したくなる。
洗い物を終えたレオンハルト様にお茶を差し出す。
手拭いで水気を拭った彼は、私からカップを受け取ろうとして止まった。不思議に思って視線を落とすと、レオンハルト様の視線は私の手に注がれていた。
細かい傷がいっぱいで、爪もちょっと欠けている私の手。女の子の手としては、かなり残念な部類になるのでは。
城にいた頃はメイドさんが丁寧に磨き上げてくれていたけれど、今は自分で気をつけなければ、あっという間にぼろぼろになってしまう。
さっきまでとは、別種の恥ずかしさがこみ上げてくる。
すぐに引っ込めて背中に隠してしまいたかったが、カップがあるので出来ない。そうこうしている間に、レオンハルト様は私の手から、そっとカップを取り上げた。ほっと安心して、手を引こうとしたが、レオンハルト様の手に止められる。
彼は受け取ったカップを机に置くと、両手で私の手を下から掬い上げるように持った。
.




