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偏屈王子の希望。

※ヴィント王国第二王子 ナハト・フォン・エルスター視点です。

 

 夜の森を駆ける。


 一秒でも早くと気持ちは急くが、暗闇の中では足場さえも覚束ない。

 月光も届かない森の中は、純粋な闇が広がる。松明で照らされた足元以外、世界が全て消えてしまったかのようだ。先の見えない暗闇が、まるで未来を予兆しているようで、私の中の不安を掻き立てた。


「っ……」


 頬を鋭いものが掠めた。反射的に掌で押さえると、ぬるりとした感触がある。鉄さびに似たにおいが鼻孔を掠め、血だと分かった。たぶん、木の枝に引っ掛けてしまったのだろう。


「ナハト様?」


「問題ない」


 先を歩くオルセイン殿が、気遣うように名を呼ぶ。私は頬の傷を手の甲で拭い、再び走り出した。


 足はとうに限界を超えている。気を抜けば膝から崩れ落ちそうだ。

 自分の荒い呼吸が煩い。呼応するような鼓動の音が、酷く耳障りだ。


 だが、立ち止まることは許されない。

 民と友の命がかかっている。足が折れても、立ち止まってたまるか。


 気力のみで駆け続け、森を抜ける。

 木陰で大人しく待っていた馬の綱を解き、跨る。一頭は若い騎士……ペーターが乗り、私は行きと同じくオルセイン殿の馬に乗せてもらう事にした。


 土煙をあげて、馬が駆ける。


 オルセイン殿の手綱さばきは見事だが、それでも揺れは伝わってくる。蓄積された疲労もあり、意識が遠退きそうになった。

 掌に爪を立てて、意識を保つ。


 無理やり顔をあげた私の視界の端に、小さな光が映った。


「……?」


 遠く、揺らめく光。

 ぽつぽつと灯るそれは、松明の炎のようだった。


「オルセイン殿!」


「はい」


 肩越しに見上げ、炎を指差す。

 オルセイン殿は手綱を引き、馬を止めた。少し後ろを走っていたペーターは、不思議そうな顔付きで近づいてきた。


「どうかしたんですか?」


 首を傾げるペーターに向け、人差し指を唇に押し当て、言葉なく『静かに』と示した。

 距離はかなり離れている上に、こちらは松明もつけていない。気付かれる可能性は低いが、念のためにだ。


 じっと息を殺して、見守る。

 松明の数からして、おそらく十人前後。


「森の方へ向かっていますね」


 オルセイン殿が、潜めた声で言った。

 だんだんと遠ざかる光は、彼の言うように森の入り口のある方角へと向かっているように見える。


「こんな時間に?」


 日付は疾うに変わっている。

 真夜中というよりも、明け方という表現の方が近いくらいだ。一体、森に何の用があるというんだ。


「見張りの交代では?」


「……」


 ペーターの言葉に、私はすぐに頷けなかった。

 見張りの交代にしては、人数が多すぎはしないか。だが、違うと断言も出来ない。


「如何なさいますか」


 オルセイン殿が問う。


 私はどうするべきだ。進むか。それとも森に戻るか。悩む時間すら惜しい。

 私は不安を振り払うように、頭を振った。


「……先を急ごう」


 目的は分からないが、命が惜しければ森の中までは入らないだろう。

 悩むのも迷うのも後。私が今するべきは、一刻も早く救援を連れて戻る事だ。


 頷いたオルセイン殿の合図に従い、再び馬が駆け出す。

 何かに引き寄せられるように、私は一度振り返る。遠くなっていく小さな光が、やけに強く網膜に焼き付いた。


 前を向いた私は、ぎゅうと胸の辺りを掴んだ。

 気のせいだと言い聞かせても、根拠のない不安は消えてはくれなかった。


 何故、こんなにも胸が騒ぐ。

 息苦しいのは、きっと風圧のせいだけではない。


 この感情はなんだ? 恐怖、緊張、焦燥?

 とんでもない間違いをしでかしてしまったような不安感に、急き立てられる。


「止まってくれ!」


 気付けば私は、叫んでいた。

 唐突な制止に、オルセイン殿は驚きながらも手綱を引く。利口な馬は、さして暴れもせずに止まってくれた。

 横を通り過ぎてしまったペーターが、しばらくして引き返してきた。


「ナハト様、どうかされましたか?」


「……」


 オルセイン殿に問われて、すぐに答えは返せなかった。この期に及んで私はまだ迷っている。本当に私の選択は正しいのか。ただ時間を浪費するだけになりはしないか。


 だが、この胸騒ぎを無視する事は出来なかった。


「意見を変えてすまないが、やはり戻って欲しい」


「先程の一団を追いますか」


「頼む。嫌な予感がするんだ」


 私がそう告げると、オルセイン殿は表情を引き締めた。

 戸惑うペーターに戻る事を伝え、オルセイン殿は馬首をめぐらす。


 来た道を、再び駆け抜ける。

 早く、もっと早くと祈るように思う。風圧で正面を向く事さえ辛いくらいなのに、流れていく景色がゆっくりに見える。もどかしいとさえ感じた。


 ドクドクと心臓が嫌な音をたてている。

 一瞬にも何時間にも感じる時間が過ぎ、やがて森が見え始めた。


 いくつもの松明の灯りが、森の入り口に留まっている。やはり、見張りの交代だったのだろう。私の考え過ぎか。


 オルセイン殿が、馬の速度を緩める。


 一気に体の力が抜けた。ほう、と長く息を吐き出す。

 時間を無駄にしてしまった事に抵抗はあるが、思いすごしだった事への安堵の方が勝る。


 肩越しに振り返ると、オルセイン殿と目が合う。彼とペーターに詫びてから、また王都へ向けて出発しようと思った。


 しかし私が口を開く直前、強い風が吹き付けた。


「……っ!?」


 風が運んできた臭いに、私は目を見開く。オルセイン殿も気付いたのか、厳しい顔付きで彼は森の方角を睨んだ。

 鼻を突くような強い油の臭い。それは松明を灯すためだけの量ではなく、まるでぶち撒けたような異臭。


「オルセイン殿!」


 叫ぶよりも僅かに早く、馬が駆け出す。

 今までは私に配慮してくれていたのだろうと思うほど、苛烈な勢いで。咄嗟に馬の首に捕まりながら、前を睨む。


 松明の炎がだんだん近くなり、振り返って驚く人達の顔が、ぼんやりとだが視認出来た。迂回せずに、人と人の間をすり抜けるように中央を突破する。


 噎せ返るような油の臭いに眉を顰めた。

 辺りに転がる空樽の縁から、僅かに残った油が滴り落ちるのを視界の隅に捉え、唇を噛み締める。森の木々に油を撒いた意図を想像するだけで、吐き気がした。


 馬首を返し、森を背にして向き合う。


「……何をしている」


 激情を押し殺して、問う。冷静さを保とうとしたが、声は酷く掠れていた。


 端からぐるりと顔を眺める。

 体格の良い男達の顔に、ほとんど見覚えはなかった。だが、一人、二人。見かけた事のある顔が混ざっている。


 唐突に現れた私達を警戒し、弓や剣に手を伸ばす男達の中央。外套を目深に被った細身の人間が立つ。顔は見えない。細身という以外に得られる情報はなく、男か女かさえも分からない。


 だが、私には確信があった。


「何をしているのかと、聞いているんだ。――フィリップ」


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