第二王子の決断。
※ヨハン・フォン・ヴェルファルト視点です。
レオンハルトは水筒の水で布を濡らし、見張りの男の顔を拭いた。汗や汚れを拭っていると、男の瞼が震える。ゆっくりと現れた榛色の瞳は、焦点があっていなかった。熱に浮かされているのか、頭がまだ半分眠っているのか。虚ろな瞳に意志が宿るまで、十数秒の時間を要した。
何度か瞬きを繰り返した男は、目の前のレオンハルトを認識した途端に、体を起こして飛び退った。しかしすぐに、ふらつき地面に膝をつく。体が自由に動かない事に苛立ったように、男は低く舌打ちをした。
「誰だ」
問う声は酷く掠れていた。
「マルクスさん、無理に動かない方がいいです」
「なんでオレの名前を…………、……っ!?」
訝しげに眇められた目が、僕を捉えて見開かれる。
「……まさか、ヨハン様?」
「はい、お久しぶりです」
「なん、……っ、ぐッ」
なんでここに、と問おうとしたであろう言葉は半ばで途切れ、マルクスは口元を手で押さえながら、苦しげに呻く。レオンハルトは背を丸めたマルクスの体を支え、布を手渡した。そして苦痛を緩和させるように、マルクスの背を擦る。
「っ、いい……、触るな。病が移るぞ」
マルクスは、やんわりとレオンハルトの手を拒んだ。そして僕は、彼の言葉に息を呑む。
そうだ。触れるだけで移る病もある。マルクスの病名は分からないが、衣服越しとはいえ何度も触れているレオンハルトは、安全とは言い難い。
頭では理解していたはずなのに、一瞬でも狼狽えた己が情けなかった。
「気にするな」
しかしレオンハルトは、動揺の欠片も見せなかった。
精悍な美貌に苦笑いを浮かべる。
「この程度の接触で移るのなら、どうせもう手遅れだ。それよりも、水を飲めるか?」
「あぁ、すまない……」
レオンハルトは水筒の蓋を開け、マルクスが飲むのを手助けしている。病を移されるかもしれないというのに、レオンハルトは落ち着いていた。病に罹らない自信があるのか、それとも病人を気遣っての事なのかは分からない。
「助かった」
水を飲み終えたマルクスは、長く息を吐き出す。落ち着くのを待っていたかのように、ナハトが歩き出した。
差した影に顔をあげたマルクスと目が合うと、ナハトは静な声で語りかける。
「貴殿は、辺境騎士団に属する騎士か?」
「! ……まさか、貴方様まで」
マルクスは眼前に立つ少年が誰なのかを理解し、驚愕の表情を浮かべる。震える声で呟いた彼の顔は、やがて諦めのソレへと変わる。
蹌踉めきながらも、マルクスは跪いた。
「お見苦しい姿で、申し訳ございません。私は西方辺境騎士団副団長、マルクス・ゲルトナーと申します」
マルクスは頭を垂れる。落ち着いた声音は、裁きを待つ罪人のようですらあった。
「マルクス。君は病が移ると言ったな? つまり、この村で病が流行っているということで間違いないか」
「御意にございます」
逃げ道を塞ぐような容赦のないナハトの問いに、マルクスは躊躇いなく是と返した。村の中を調べれば、遅かれ早かれ露見する事とはいえ、随分と潔い答えだ。もしかしたら彼は、暴かれるのを望んでいたのかもしれない。
「グレンツェで流行っていた熱病が終息したのではなく、この村に……」
「副団長がいないぞ!?」
続けようとしたナハトの言葉を遮るように、大きな声が聞こえた。
どうやら見張りをしているマルクスの姿がない事に、気付いたらしい。村の入口に人が集まり始めた。
「マルクスー! どこだー!?」
探す声が近づいてくる。
どうする、隠れるべきか。しかし隠れるにも、音を立てずにマルクスを動かすのは難しそうだ。悩んでいる間にも、距離は縮まっていく。
レオンハルトは少し考える素振りをしてから、マルクスと視線を交わし頷き合う。
「ここだ」
立ち上がったレオンハルトが声をかけると、辺境騎士団の騎士であろう男達はギョッと目を剥く。
「何者だ」
三人のうちの一人が剣を抜くと、倣うように後の二人も剣を抜く。
「止めろ」
マルクスが声をかけると、その存在に気付いたのか男達の視線が更に剣呑なものとなった。捕らわれていると判断したのだろう。
「マルクスに何をした」
「何もしてない。少し落ち着け」
「何もしないで副団長がそんな風になる訳ないだろ!?」
レオンハルトに食ってかかったのは、若い男だった。問答無用とばかりに剣を構えて、襲いかかってきた。
しかしレオンハルトは焦る様子もみせずに、溜息を一つ吐き出す。武器を構えることもなく悠然と立ったまま。
掛声と共に振り下ろした若い男の剣を、レオンハルトは僅かに上体を反らしただけで避けた。避けられた事に驚き、男は何度も剣を振り下ろすが、レオンハルトは全てを軽々と避ける。そして男の手を掴むと捻り、剣を取り上げた。
「ペーター!!」
捕まった仲間を助けようと、別の男がレオンハルトに襲いかかる。レオンハルトは若い男を押し、反動で斬撃を躱した。そのまま切り込んできた男の手を掴むと、勢いよく引き、バランスを崩した背を蹴り倒す。
振り返りざまに、もう一人の男の攻撃を避ける。男の首の後を掴んで引き倒し、地面に押さえ付けて腕を捻り上げた。
瞬きする間の出来事に、僕もナハトも唖然とする他ない。強いのは知っていたが、まさかこんな一瞬で制圧してしまうとは。
「……どっかで見た事がある顔だと思ったが」
木の幹に背を預けたマルクスは、呆れと称賛とが入り混じった顔でレオンハルトを見上げる。
「まさかこんな僻地で、黒獅子に会えるとはなぁ」
「止めてくれ」
喉を鳴らして笑うマルクスに、レオンハルトは苦い顔付きになった。
「黒獅子……って、ネーベルの英雄の!?」
若い男が、ガバリと起き上がる。
続いて他の男達も、自分の置かれた状況も忘れてレオンハルトを凝視した。注目されたレオンハルトは居心地が悪そうにしている。
近隣諸国に名が知れ渡り、若い騎士の憧れの存在であるレオンハルトだが、あまり目立つのが好きではないようだ。
「なんで、……なんでこんな所に、黒獅子将軍が……?」
「私達の護衛だ」
戸惑う若い騎士に声をかけたのは、ナハトだった。
護衛? と繰り返す若い騎士は、どうやらナハトの顔を知らなかったらしい。だが他の二人は気付いたらしく、顔面蒼白になった。
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