欠片(3)
ちゃんとしたおせち料理なんて食べたのは、何年ぶりだろうか。ましてや今までにお目にかかったこともないような、超豪華版だった。何しろ全体的な色合いからして異なっている。少し前にはこれが宙を舞う大喧嘩があったというのだから、ユミコはとんでもない罰当たりに違いなかった。
ヨリは上着を羽織ると、賑やかな部屋を後にして縁側の方に向かった。あの集団の中では、ヨリだけが部外者だった。ハジメの付き合っている彼女は月緒家の嫁になることが前提であるし、テルアキは言わずもがなだ。年配の男二人は、妙に意気投合してしまったらしい。ユミコはテルアキをエイジに取られて、すっかりむくれていた。
今年の月緒家の正月は、目出度いこと続きのお祝いだ。エイジは話に聞いていた程は怖くもないし、想像していたよりは全然素敵な父親だった。少なくとも、ヨリの家に常駐している屁っこきマシーンなんかよりはずっと魅力的な男性だ。
その横に付き従っているハツエも、甲斐甲斐しい奥さんという感じがしてヨリには新鮮だった。ユミコの家庭環境は確かに極端ではあるが、決して悪くはない。ユミコは仲の良い家族に囲まれて大事に育てられてきた、お嬢様であるといえた。
外の空気は、刺すように冷たかった。ほう、と息を吐くと白い塊が随分と長く残る。月緒家の屋敷は、見た目は古いが空調とか生活のための基本的な設備はしっかりとしていた。エイジは新しいもの好きで、仕事の方にもじゃんじゃんとそういったものを取り入れているらしい。結構な年齢になりつつあるが、まだまだ現役を退く意思はないとのことだった。
「あれ、ヒロキくん。こんなところにいたんだ」
「ああ、北上さんか」
縁側には先客がいた。ここまで車を運転してきてくれたヒロキが、コロマルの身体に付いた雪を払っていた。コロマルは見た目は愛嬌があるが、月緒家の立派な番犬だ。見慣れないテルアキとヨリに向かって、歯茎丸出して吠え掛かられた時は恐怖を覚えた。一度ユミコが叱り付けると、コロマルはすぐに学習して大人しくなった。すごい。ユミコの手にかかれば、猛犬も幼馴染のイケメンも四十代のオジサンもイチコロだ。
「こんなところにいたんですか?」
「部外者だからね。まずは家族水入らずが良いかな、って」
そういえば車を降りてからこっち、ヒロキの姿は一度も見かけていなかった。確かに、テルアキが紹介される場にいたのではいたたまれないだろう。ヨリはヒロキの近くに腰を下ろした。コロマルが首を傾げて、その場に座り込む。さっきはあんなにすごかったのに、何でそんな人畜無害なふりが出来るんだ。ヨリは呆れて舌を巻いた。
「それを言ったら、私も部外者なんですけど?」
「北上さんは大事なお客さんだ。風邪でも引かれたら俺が困ってしまう。休みたいのなら、空いている部屋まで案内しますよ」
「お断りします。私はここで、外が見たいので」
白に埋まった月緒家の庭は、それはそれで見応えがあった。踏み荒らされていない滑らかな積雪だけでも、充分に美しいのに。なだらかな起伏に、見事な枝ぶりの庭木が雪に包まれている様は震える程に幻想的だった。
「都会の人は、みんな雪が珍しくって面白いって言うね。俺なんかは、寒いし濡れるし重いし、あんまり良い思い出がない」
「毎年だとそうかもね。でも、私も好きなのは見るだけかな。雪かきとか面倒くさいし」
ヨリが子供の頃、東京でもかなりの雪が降ったことがあった。その時ヨリは家の前の雪を片付けるのに、散々な目に遭わされていた。楽しかったのは、本当に最初だけ。ハマって動かなくなった車を押し出したり、凍った塊をスコップで砕いたりと、二度とこんなに降らないでほしいと天気を呪ったものだった。
「北上さんはスキーとかスノボとかやる人? 明日、ユミコが連れてってほしいとか言ってるんだけど」
「やる。けど、ヒロキくんにあんまり無理なお願いをするつもりはないかな」
ユミコはどこまで加減がないのか。心の中で、ヨリは思いっきりツッコんでおいた。またヒロキの運転する車の中で、オチのない夫婦漫才を繰り返すつもりか。ヒロキの精神が鍛えられる前に、ストレスで胃がやられてしまうだろう。恨みもあるのかもしれないが、幼馴染に対してあまりにも容赦がなさすぎるのではないか。
「お気遣いどうも。でも、動いている方が落ち着くんだ。何もしていないとさ、その方が腐ってきちゃって」
それは――ヨリも同じだった。クラリネットから離れても、ヨリの気持ちはいつまでも揺れていた。突然何の前触れもなしに胸の奥が苦しくなって、泣き叫びたくなる。溢れ出してくる全てを忘れたくなって、無理にでも楽器から離れるために爪を装飾して。
なのに、何一つとして解決にはならなかった。
「後悔……してる?」
ヨリは、後悔させたかった。うんと綺麗になって、魅力的になって。選ばなかったことを、人生で最大の失敗であるとまで思わせたかった。ほら、こんなに素敵なヨリを手に入れることが出来たはずなのに。馬鹿だね、って。もったいなかったな、って。
「いや、それはないかな。俺はいつだって、正しい選択をしてきたって思ってる。その証拠に、ユミコはちゃんと幸せになってくれた。俺と一緒になることだけが、ユミコの幸せじゃないんだ」
強がりだ。どうして男の人は、こういう時に無理に自分を殺してしまうのだろう。ヒロキはうつむいたままで、ヨリに顔を見せようとしなかった。コロマルが、小さく鼻を鳴らした。
「悔しかったら、泣こうよ。私はそうしたよ」
苦しくて、苦しくて。どんなに喚いても、叫んでも、まだ足りなかった。どうしてヨリでは駄目だったのか。理由なんか判っている。納得だって出来ている。でも、それでも。
荒れ狂う感情だけは、頑なにその現実を認めようとはしてくれなかった。
「もう泣いたよ。多分、一生分は泣いた。これ以上は勘弁だ」
――そう、だろうね。
ヨリだって、そうだった。沢山の時間をかけて、諦めようとした。自分の中に湧き上がってくるしつこい想いを、何人も何人も殺してきた。誰かのものになって、二度と手に入らないところにまでいってしまったのに。まだ時折、思い出したかのようにヨリの中に現れる。
夕暮れの教室で、クラリネットを吹く中学生のヨリ。廊下を歩く足音が近付いてくると、どきどきと心臓の音が強くなる。むしろそのまま、バレてしまえば良いのに。きっと手を伸ばせば届いた。そうなれば、二人の人生は滅茶苦茶になって。
少なくとも、気持ちと傷痕だけは残せただろう。
「正しいだけじゃ、欲しいものは手に入らないんだよ」
ヒロキだって、ユミコを自分のものにする機会はいくらでもあったはずだった。幼馴染で、許嫁。月緒家からは、何をしても良いと言われたに等しい状況まで与えられて。ヒロキは、ユミコの身体には指一本触れなかった。
ヨリと同じだ。正しさに囚われて、憶病になっていた。それが本当に必要だと思ったのなら、正しさなんて何の意味もなかった。
「テルアキさんはユミコのことを、例えどんな形であっても手放したくなかったんだって。それが愛人なんて関係であってもね。ユミコも最終的には、自分からテルアキさんの愛人になりにいった。あの二人は正しさよりも――お互いの存在を優先したんだよ」
汚れていても、おかしくても。人から後ろ指をさされて、悪と罵られる道であっても構わない。ユミコとテルアキの得た未来は、それだけの覚悟の先にあった。
「自分の家族の前で、あんなに堂々と『愛人』って宣言出来るんだから。すごい絆だよね」
お互いを信じて、愛し合っていなければ不可能な芸当だ。貼られているレッテルが何であるかなんて、てんで意味をなしていない。あの二人は、今が幸せの絶頂期であるに違いない。そりゃあ道中、イチャイチャぐらいはしたくなるだろう。
のっそり、とヒロキが立ち上がった。かつての自分の許嫁が、見知らぬ中年男性の愛人になっているという現実は……なかなか飲み込めるものではないだろう。それはヨリの事情の比ではないはずだった。
その気持ちを、ヨリは僅かでも酌めるつもりになっていたのだが。実際には、どうだったのか。ヒロキの表情は強張っているばかりで、ヨリには何の感情も読み取ることが出来なかった。
「北上さん、ここだと退屈だろうから、ちょっと面白いものを見せてあげるよ」
それだけ言うと、ヒロキはヨリの返事を待たずに歩き始めた。正しくは、ユミコのいる場所から少しでも離れたい、というところか。ヨリは無言でヒロキについていった。
いっそ、このまま何かあってくれた方が吹っ切れて良いのかもしれない。でも正しさの規範から逃れられないヨリとヒロキには、そんな冒険は不可能であると判り切っていた。
視界が白しかないので、距離感も何もあったものではない。おまけに起伏のない畑ばかりでは、方向感覚ですらあっという間に怪しくなった。前にいるヒロキを見失ったら、発見されるのは春だ。ヨリは必死になってヒロキの後を追った。
「それって、遠いの?」
「ん? すぐそこだよ」
田舎の人間の言う「すぐそこ」ほど信用の置けないものはない。それは既に学習済みだった。大体この月緒家の屋敷だって、ユミコは「駅から車でちょいちょい」だと表現していた。
「ちょいちょい」ってのが二時間以上を意味するとは、普通は考えない。だから「すぐそこ」とかいうのも、「日が暮れる前には辿り着けるくらいすぐそこ」とかいうレベルであるとヨリは予想した。こちとら都会生まれの都会暮らしなんだから、ユミコもヒロキももっと加減してほしい。
「ほら、それだ」
ヒロキが立ち止まって、雪野原の一部を示してみせた。うん、雪だ。白い。それ以外に何もない。成程、これが面白いのか。ユミコの地元には、そうやって女の子を連れ出す習慣があるのだと認識した。残念ながら今はむかっ腹が立って、とてもそんな気分にはなれそうにないが。
「雪しか見えないんですけど」
「もっとよく見てくれ。雪の下から少し顔を出しているだろう」
確かに、真っ白の中に染みみたいな色合いがちらほらと浮き出ている。黄緑色の、大きな葉っぱだ。ひょっとしたら、とヨリはその一つに近付いてみた。
「う、うわぁ!」
雪に埋まっていて判らなかったが、そこには畑の畝があった。足が一気に沈んで、変な悲鳴を上げてしまう。ヒロキが素早く反応してヨリの腕を掴んでくれた。
「気を付けて」
さりげない物言いが、更にカチンときた。紳士だし、力は強いし。なんだこいつ、イケメンか。
ユミコ以外の女には、一律そういう対応をしているとみた。天然のジゴロじゃないか。ヨリは不機嫌になってきたが、素直にヒロキのエスコートを受けながら雪に覆われた畑の中に侵入した。
「ゆきわりキャベツとか、雪下キャベツって呼ばれている奴だ。今、ここで試験的に栽培している」
ヨリも何かのテレビ番組で見たことがあった。こういった高ストレス環境に置かれることで、キャベツは普段以上に栄養素を蓄えようとする。結果として、甘くて美味しいキャベツが出来上がるのだそうだ。
「この時期だと虫も付かないし、何より冷えててこのまま食べても美味い」
ヒロキはその場にかがみ込むと、一際大きなキャベツを一玉取り上げた。農家の息子ともなれば、鎌の一本ぐらいは常備しているのは当たり前のことなのか。この辺りも、ヨリの知る常識とは違う世界に生きている感じだった。
「身が詰まってる。触ってみるか?」
ヨリはスーパーで買い物をする時みたいに、キャベツの表面を叩いてみた。うん、ぎゅうぎゅうだ。以前ユミコの家から送られてきた野菜を見た時もそうだが、どれも出来が素晴らしく良い。特に最近は野菜が高騰しているので、ヨリの家では重宝させてもらっていた。
そうなると、味の方も当然気になってくる。ヨリは大きな葉を一枚めくって千切ろうとした。
「あ、爪」
「ん? ああ、邪魔よね」
ぱちん、とヨリは付け爪を外した。こんなところで可愛く着飾ったって、何の意味があるのか。クラリネットの音色だって、山に吸い込まれて消えてしまうだけだ。それより腰からさりげなく鎌でもぶら下げておくべきだろう。
「取れるのか、それ!」
ヒロキが素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。自分の爪にやりたいのはやまやまだが、実家暮らしで手伝いを要求されるとなるとなかなかどうしてそういう訳にもいかない。ヨリは取り外しの利くネイルチップを愛用していた。
「はぁー、米炊く時とかどうしてんのかと思ったら、そういうことか」
「何よ。料理もするし、洗濯だってするわよ」
ヨリの家には母の他に、弟と、屁っこきマシーンがいる。この役立たずの男どもがいる環境で、ヨリだけがファッションにばかりかまけて家事をサボる訳にはいかない。そういうのを自由に出来るようにするのは、就職して独り暮らしを始めた後にとヨリは決めてあった。
「都会の女は、家のことなんて何もしないって思ってた?」
「いや、そうじゃないけどさ」
いや、絶対にそう思っていた。失礼極まりない。ヨリだって、その気になれば身の回りのことぐらい全部自分でこなせる自信があった。あのユミコだって、何とか出来ていたのだ。なんてことないだろう。
「普通の女の子なんだなって、そう思ったからさ」
そりゃそうだ。一体全体、今の今までヨリのことをなんだと思っていたのか。折角色々と慮って、悩みごとを聞いてやっていたつもりでいたのに。
キャベツは甘みが強くて、とても美味しかった。不愉快で失礼なヒロキは、心なしか笑う回数が増えていた。こうやっていれば、ヒロキの方こそ普通の男の子だ。ヨリはいつの間にか、ヒロキと手を繋いで歩いていた。
凍えるような寒さに耐えて、忍んで。その身の中に、温かさを溜めておいた。それを今、お互いに感じている。
春はきっと、すぐそこにまで来ていた。




