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愛人契約はじめました  作者: NES
第9章 いつかのねがいをこめて
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いつかのねがいをこめて(3)

 蝋燭ろうそくの炎が燃えている。めらめらと揺れるオレンジ色の光の向こうに、白い顔が見えた。おだやかな眼差し。黒い瞳に炎の断片がうつって、きらきらと輝いている。

 その頬に触れて、柔らかさを確かめた。とても心地好い。背筋がぞわぞわと毛羽けば立つようだ。これが、自分にあてがわれる嫁となる。そう考えると、エイジの中には黒い欲望と――


 小さな罪悪感が芽生えた。


「ハツエさん、俺はこの月緒の家と、農業しか知らない男だ。そんな男の下にとついでくるあんたのことを、俺は……哀れだと思う」


 ハツエは綺麗な娘だった。月緒の家との関係を持ちたがる一族から、見合いの相手として送られてきたのが切欠きっかけだ。エイジは一目でハツエのことが気に入り、縁談をまとめてしまった。元より、選択権は全て月緒の家にある。ハツエ本人の意思は微塵みじんも考慮されない、ひどいものだった。


「あんたはこれからこの何もない家で俺のものにされて、子供を産まされて、ずっとここで生きていくんだ。俺に気に入られたからっていう、それだけの理由でな」


 山と畑しかない土地で育ったエイジには、ハツエという女はとてもまぶしく見えた。良家の子女として、何不自由なく暮らしてきたお嬢様だ。話をしているだけで知性と上品さが感じ取れる。そのたおやかな花を、自分の手でへし折って、ぐちゃぐちゃにしてしまいたい。そんな粗暴な欲求が、エイジの中では渦巻いていた。

 ハツエはエイジの後ろに、そっと付き従って歩くような女性だった。エイジの言葉には、それが何であってもうなずいてみせた。乱暴に手を引かれて、唇を奪われて。その純潔を汚されても、ハツエの態度には変わるところはなかった。


 いつ何時なんどきであってもただ黙って、エイジによってなされるがまま。それが、ハツエという女だった。


「あんたは――後悔していないのか?」


 ハツエには他に、いくらでも生きる道はあったはずだった。何の変哲もない会社員とでも結婚して、ごく普通の家庭と、ごく普通の幸せを得ることも。ハツエのような女性には、それこそが相応しいとエイジは考えていた。少なくとも、こんな粗雑で、女の扱いなど何も判らぬ男のところになどくるものではない。いかに月緒の家がそれを求めたとしても、逃げ口上の一つくらいはひねり出せただろう。


「随分と、不思議なことをおっしゃるのですね」


 ハツエの声は、毅然きぜんとして揺るぎなかった。エイジがどれだけ壊そうとしても、ハツエの奥深くにあるそれには傷一つつけられない。りんとしたその表情に、エイジはしばし見惚みとれた。


「私は月緒の家に貰われた身でございます。月緒の世継ぎを産むことを望まれて、そのための行為をいたすことに何の異議がありましょうか。どうぞ、エイジさんのお好きなように」


 冷たいようで、その物言いには不思議と血の通った感情が込められていた。エイジは無言でハツエの身体に手を伸ばした。最初の時も、そうだった。ハツエは抵抗もせず、泣き言も漏らさず。ただ荒れ狂う嵐に身を任せて、エイジを受け入れてくれた。この武骨で、どうしようもなく粗暴な男を、だ。ぐい、と力を入れる。引き寄せられたハツエの髪から、甘い香りがした。


 興奮して――それでいて、落ち着く。この感覚は何だろうか。エイジが幼い頃、母親にあやされていた時の記憶に似ていた。女を抱いていれば、どれも同じような快楽の波が訪れる。だがハツエだけは明らかに、何かが異なっていた。


「ハツエさん。あんたは、俺のことをどう思っている?」


 月緒の家の、どうしようもない跡取り息子。運悪くこいつに見初みそめられたせいで、ハツエの毎日は地獄に転じた。親族たちはハツエを差し出すことで、月緒の家から様々に優遇される権利を得た。そのための人身御供だ。こんな男としとねを共にして、よろこぶ者などいるはずがない――



「好いておりますよ」



 エイジの視界が、ぐらり、と揺れた。まただ。何度訊いても、この答えが返ってくる。ハツエの本当の心は、厚い壁にはばまれた向こう側に隠されていて。エイジには、まるで見ることが出来なかった。


「嘘だ」


 後はただ、ひたすらに。がむしゃらに。エイジは、目の前にあるものをむさぼり続けた。形をくす程に、熱い。どこまでも柔らかくて、なめらかで。こばむことも、さえぎることもしない。行為にふける内に、エイジは知らぬ間に涙をこぼしていた。


「俺はあんたに好かれたい。それでも俺には、あんたにこんなことしか出来ない。俺は、どうしたら良い?」

「ですから、好いておりますよ、エイジさん。信じてくださいませ」


 いつもと同じだ。エイジはハツエの身体を強く抱いた。エイジという男は、空っぽだった。月緒という家に縛られて、虚勢を張って威張ることしか出来ない愚か者だ。土地をたがやして、食べ物を作る。それを繰り返すだけの、なんとつまらない人生か。


 それに付き合わされるハツエの、なんと理不尽なことか。


「ハツエさん、これだけは覚えておいてほしい。あんたが産むのは、月緒の家に望まれた子供ではない。俺が――他でもない俺が、好いたあんたに産んでほしいと願った子供だ」


 この気持ちを、『愛』と呼ぶのだと……エイジは知らなかった。判るのは、ハツエに対する強い執着だけだ。ハツエはエイジが果てるのを見届けると、絶え絶えな息の中でせつなげにささやいた。


「判っております。好いておりますよ、エイジさん」




 うっすらと眼を開けると、耳障りな機械音が聞こえてきた。自分の部屋にこんな物が置かれているというのが、忌々(いまいま)しい。エイジにとって、自室というのは唯一心の休まる場所でなければならなかった。普段は表に出すことのない何もかもを、隠すことなくさらけ出せる安息の空間。そこにどやどやと他人が押しかけてきて、あれこれと好き勝手にいじられるのだから、たまらない程に面白くなかった。

 月緒の家の当主も、泣く子と医者にはかなわぬか。小さなユミコを膝に抱いて、一緒にスクリーンに見入ったのはもうどれ程昔のことなのか。この何もない土地にあって、エイジの部屋はユミコに外に広がる世界を見せてやれるたった一つの『窓』だった。


「起きましたか、あなた」


 ハツエの声がしたので、ゆっくりと寝返りをうってそちらを向いた。エイジの居室に許可なく立ち入ることの出来る人間は、月緒の家でもたった二人だけだった。読んでいた文庫本から顔を上げると、ハツエはかけていた老眼鏡をはずした。


「ああ」


 随分とけたものだ。エイジは可笑おかしくて噴き出しそうになった。それでもこんなに恋しく感じるのだから、夫婦というのは不思議だった。掛け布団の下から、ハツエの方に手を伸ばす。それを察すると、ハツエは黙ってエイジのかたわらににじり寄って、優しく両(てのひら)えた。


 若い頃には、毎夜飽きることなく求め続けた愛しい妻。エイジはふぅ、と深い溜め息をいた。三人の子宝に恵まれて、月緒の家は安泰あんたいとなった。それを一番に望んでいた父親のことを、エイジは誰よりも憎いと思っていたのに。


 今では――その気持ちが痛いくらいに理解出来るまでになっていた。


「ユミコは、どうしてる?」

「お風呂に入ってますよ。お祭りが終わるまではいてくれるそうです。水仕事のお手伝いもだいぶ上手になって」


 一人暮らしにも、相当に慣れてきたということか。この家を飛び出して、一年半も経てば自然とそうなることは目に見えていた。住む場所も、恋人すらもここではない土地で手に入れて。いよいよ、ユミコは月緒の家の者ではなくなるのだ。


「悪いことをしたな」

「そう思うのでしたら、素直にそう言ってあげればよろしいのに」


 出来るはずがない。エイジは月緒家の当主であり、この村を、この土地をまとめ上げていく必要がある。それが農業以外の生き方を簡単に認めてしまっては、立つ瀬がないではないか。

 ましてや長男のハジメや長女のキヨカには、エイジは月緒家として生きていくことをいてしまった。どうしてユミコだけに、無条件な自由を授けてやることが許されようか。ヒロキとの婚約を反故ほごにしてしまった、西浦の家への体面もある。エイジには、ユミコに甘い顔をしてやれるいわれが何一つとして存在していなかった。


「あいつが月緒の家を出ていくというのなら、俺はあいつに好かれていては都合が悪かろう」


 それだけひどいことだって、今までに散々積み重ねてきた。エイジはユミコに、どうあってほしかったのだろうか。悪い父親だ。そんなことは判っている。


「なぁ……ハツエ?」


 ハツエは首を傾げると、身体を倒してエイジの枕の横に頭を載せた。こうやって、いつでもエイジが望むことをしてくれる。わがままで独り善がりで、本当にどうしようもないこんな男のために、だ。すぐ目の前に、ハツエの顔がある。結局、こんな年になるまでエイジはハツエのことを束縛して、はずかしめを与えたままだった。


「なんですか、エイジさん?」

「お前はここで俺と暮らして、幸せだったか?」


 最初の子供――ハジメが産まれた時に、ハツエは嬉しそうに我が子を抱いていた。自分の子供だ。ハツエとの間に子供ができたことに、エイジは身震いするくらいの興奮を覚えた。

 そして同時に、後ろ暗い気持ちにもなった。この子も、自分と同じ運命を辿る。この村で、地面をたがやすことで一生を終える。月緒の家の長男。きっとエイジと同じように父親を恨み、家を呪い、沢山の言いたかった言葉を飲み込んで。最後には、偏屈へんくつな年寄りとなって死んでいくのだ。


「ええ、幸せでしたよ。親子喧嘩だけは、もう少し減らしてほしかったですけどね」

「そいつはすまなかったな」


 長女のキヨカは、付き合った相手が助役の息子だった。反対する理由がなくてほっとした。それと同時に、妙な気を遣わせたのではないかと不安にもなった。当人たちはそんなエイジの葛藤などつゆも知らず、仲睦まじくやっているらしい。それならいい。問題は、全くもってどこに向かって放たれるのか判らない鉄砲玉である――次女の方だった。


「ユミコは俺のことを許さんだろう。顔を合わせれば大喧嘩だ」


 今日も派手にぶちかました。血圧が上がって、ハツエと医者が泡を食っていた。それが愉快で、むしろ元気になったくらいだった。ユミコはここにいた頃と比べても、ずっとたくましくて、強くなった。良いことだ。東京で生き抜いていこうとするのならば、それ相応の気概というものが必要になるだろう。


「――そうじゃなきゃ、あいつはこの家から出ていけない」


 ユミコには西浦のヒロキと、無理に関係を持たせようとしたこともあった。エイジには、エイジの考えがあってのことだった。ところがヒロキはエイジが思っていた以上にヘタレで、ユミコに指一本触れなかった。いや……逆に物凄い根性だったのか。

 ヒロキ本人は固辞しているが、ここはなんとしても月緒の家から良い嫁を紹介してやりたかった。余程ユミコのことを気に入ってくれているのだとは判るが、それはもう叶わぬ想いだ。家のことに巻き込んでしまった責任は、エイジにある。愚直に月緒に従う農家であろうとしてくれている西浦の家には、大きな借りを作ってしまった。


「エイジさんは、本当にユミコのことが好きですね」

「ふん」


 鼻を鳴らして、エイジはごろりとハツエに背を向けた。こうやってとこを共にしていると、話す必要のないことまで言葉にしてしまいそうだった。若いハツエの発した、甘い吐息のことを思い出す。沢山愛した。幸せにしたいと願った。そうやって何度も繰り返して、子供が出来るたびにハツエは嬉しいと言ってくれた。

 果たしてエイジの一体何が、ハツエに幸福をもたらせたというのだろうか。


「エイジさんはなかなか信じてくださいませんけど、私は本当に幸せなんですよ。好いた人と所帯を持って、好いた人の子を産んで。こうして家族になって暮らせるなんて、これ以上に幸せなことはないではありませんか」

「月緒家の暮らしぶりは、優雅な金持ちのそれとは異なろう。無理は言わんで良い」


 ハツエはエイジが何を口にしても、エイジのことを認めてくれる。それを知っているから、強がりだって言うことが出来た。まるで、子供だ。それは百も承知している。エイジがこうやっていじけていられるのは、この部屋の中でだけだ。自分を「好いている」と言ってくれる、たった一人の女性の前でのみ見せられる――ありのままの自分だった。


「だから、ユミコにたくすのですね。ユミコがうらやましいのですね」


 父親の葬式の後で、エイジはユミコを連れて外に出た。あんなに嫌いだった父親も、月緒の家も。この村も、農業も。それらは皆、エイジにとってかけがえのないものに変わってしまっていた。

 この子は、どちらを選ぶのだろうか。エイジはユミコに、全てを伝えておきたかった。月緒家の人間として、生きること。そして――


「あれはもう、月緒家の娘ではない。どこか、遠い世界に生きる者だ」


 ここではない場所で、自らの居場所を求めて生きること。その価値と、意味について。エイジは最も愛するユミコにだけは、理解しておいてもらいたかった。


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