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愛人契約はじめました  作者: NES
第9章 いつかのねがいをこめて
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いつかのねがいをこめて(2)

 マンションの部屋を訪れたのは、実に一ヶ月ぶりだった。自動で空調が働いているので、空気がこもっているということはない。誰もいない、しんと静まり返ったリビングで、テルアキは一人で立ち尽くした。


 思い返してみれば、ここ最近はずっとユミコがそばに居てくれていた。出かける時も、眠る時も。片時も離さずに、テルアキの近くで笑顔を見せてくれていた。


 テルアキはダイニングのテーブルに歩み寄ると、そっとその表面を指でなぞってみた。かすかにホコリが堆積たいせきしている。この場所で、テルアキは確かにユミコと同じ時間を過ごした。

 朝には出迎えてくれて、一緒にこのテーブルで食事をった。テルアキが部屋で仕事をしている間には、ユミコは大学で講義を受けていた。夕方になると大量の食材を買い込んだユミコが帰ってきて、また部屋の中が賑やかになった。そんな毎日が、まるで夢のように繰り返されていた。


 ユミコの寝室の扉は、半開きになっていた。以前、荷物を取りに戻った際に相当慌てて出ていったためだろう。隙間から、中の様子がほんの少しだけうかがうことが出来た。そこまで広くもない寝室の内部はきちんと整理されていて、物の数自体がそれほど多くもない印象だった。プライベートな空間をじろじろと見られては、ユミコもこころよくは思わないに違いない。テルアキは扉をしっかりと閉じておいた。


 今日の仕事――は、特にそこまで根を詰める必要のないものばかりだった。資産運用なんて聞こえは良いが、単に数字が右や左に行き来するだけだ。トラブルが起きていなければ、とりたててテルアキが動く必要はない。仕事部屋に入ろうとして、テルアキはくるりときびすを返した。


 今は、どうしてもそういう気分にはなれそうにない。


 リビングに戻ってくると、ソファに腰を下ろして背もたれに体重を預けた。出掛けに買ってきた新聞を取り出すと、目の前一杯に広げる。グレーの紙面の上に小さな文字が大量に踊っているのを見ると、ようやく落ち着きが取り戻せてきた。まだあれから、一日も経っていないというのに。テルアキの心は、得体の知れない焦燥感で満たされていた。


『お父さんが……父が倒れて、意識がないんだそうです』


 テルアキは素早く動いた。その場ですぐに、朝一番の新幹線のチケットを手配した。ユミコもこんな時に、ぐずぐずしているような女ではない。黙々と荷物をまとめ始めて、小一時間程で里帰りの準備を完了させた。

 二人とも、余計な言葉は一切発しなかった。つとめて事務的に、機械的にやるべきことをこなしていく。ただ、『少しでも睡眠を取っておくべきだ』として布団に入った際には――ユミコは小刻みに震えていた。肉親をうしなうかもしれないという恐怖心は、テルアキには痛い程に良く判った。ユミコの手をしっかりと握ると、テルアキは黙っておびえる小さな身体を抱き締めてやった。


 夜明け前に、テルアキの呼んだタクシーにユミコは乗り込んだ。テルアキは一緒についていこうかとも考えたが、それはやめておいた。そこはまだ、テルアキがおかして良い場所ではない。ユミコも「大丈夫です」とだけ言い残して、後ろも見ずに出発していった。


 口では汚くののしっていたとしても、血の繋がった父親だ。その命の危機ともなれば、何を置いても駆けつけるものだろう。ユミコの反応は、極めて正常であるといえた。テルアキには走り去っていくタクシーのテールランプを、呆然ぼうぜんと見送ることしか出来なかった。


『やっぱり、映画館で観るのとは違いますね』


 このソファの隣に座って、ユミコはそう笑いかけてきた。そんな日があったことが、遠い昔のようだった。テルアキはソファの表面に触れてみた。そこに誰かがいた形跡なんて、当たり前に残ってなどはいない。それでも、確かにユミコはいたのだ。


 一人でいることを、寂しいと感じるのが懐かしかった。テルアキはずっと一人だった。このマンションの部屋だって、当初は一人で使っていた。広すぎて、持て余して。一時期は、オフィス向けの物件に変えようかと思っていたくらいだ。


 それが、いつからだろうか。ここにある全てのものに対して、思い出が染みついてしまった。


 リビングは、ユミコと映画を観た場所になった。ユミコの大学が休みの日は、ここでお互い自分のしたいことをして過ごしていた。テルアキは新聞を読んで、ユミコはノートパソコンで翻訳のバイトを進めている。コーヒーの香りがただよいだしたら、それが休憩の合図だった。

 ダイニングは、『二人で』食事をするためにあった。テルアキの不健康な食生活について、ユミコはあれこれと文句をつけてきた。ユミコの作る料理は、最初のうちは不器用さをにじませたものだったが、徐々に上達し始めていった。オムライスを食べた時の衝撃は、いまだに忘れられない。あれ以来ユミコはテルアキを食事で泣かそうと躍起やっきになってしまって、正直困ったものだった。

 浴室では、ユミコが鼻歌交じりにテルアキの髪を黒く染め上げた。頭皮が健康であることは、唯一テルアキが自分が若いと思える部分であったのに。ひりひりと染みてくるような気がするたびに、禿ハゲの気配を感じてテルアキは絶望に襲われた。ユミコはテルアキのそんな心配など微塵みじんも関知しないで、無邪気にはしゃいでいた。

 玄関脇の物入れには、テルアキの古い新聞が大量に保管されている。ユミコがそれを見た時の表情が、テルアキにはとても新鮮だった。初めて、ユミコにあきれられた。ユミコの新しい顔を発見すると、テルアキはそれだけで嬉しかった。自分の内面に、忘れていたとても大切なものが湧き上がってくるのが感じられた。


「ユミコさん」


 何の気もなしに、ぽつりとつぶやいてみた。三月に出会って、愛人にならないかと持ち掛けた女子大生。その存在はテルアキの中で、どんどんと大きく膨らんでいって。今ではテルアキという器を満たして、あふれ出してしまいそうだった。


 ひょっとしたら、ユミコはもう帰ってこないのかもしれない。馬鹿な考えと判っていても、テルアキはそんな想像をせざるを得なかった。テルアキの人生は、これまでずっとそうだった。大切なものはみんな、取り返しのつかない姿と化して消えていく。父も、母も、弟も。ミヨコも――そして、ユミコも。


 テルアキはてのひらを握り締めた。新聞紙が潰れて、ぐしゃりと音を立てる。文字が歪んで、読めなくなった記事が意識の彼方へと追い出されていった。


「信じさせてください……ユミコさん」


 今はこの場所で待つと、テルアキは決めていた。絶対に消えないものだって、あるはずだ。テルアキがユミコの中に感じた希望は、きっとそう簡単にはなくなってしまったりはしない。


 コーヒーを淹れるために、テルアキは立ち上がった。ここにある豆とフィルターを、無駄にする訳にはいかない。ユミコが帰ってきた時には、飛び切り美味しいコーヒーを用意しておこう。




 陽の落ちかけた縁側で涼んでいると、ボス猫のハチがやってきてごろりと丸くなった。まるでユミコの座っているその場所が、本来は自分のものであると主張しているかのようだ。ユミコが中学生の頃は、ぷるぷると震えてばかりの臆病者だったくせに。生意気だな、とユミコはハチのあごの下をぐりぐりと撫で回してやった。挨拶が遅れて悪かったね。ハチはご機嫌で喉を鳴らし始めた。


「――じゃあ、命に別状はないんですね?」

「はい。ただあんまり体調が良くないことには変わりはないので、しばらくは安静にはしていなきゃいけないみたいなんですけど」


 ハチの耳が、ピクリと動く。脇に置いた携帯のスピーカーホンから、テルアキの声が流れて聞こえていた。とりあえずは無事にこちらに到着したことと、エイジの容態について報告しておかなければならない。ワンコールもしない内に通話が繋がったところから察するに、テルアキは相当に気をんでいた様子だった。


「それでですね。こちらではお盆のお祭りの準備が始まっていて、ちょっとそのお手伝いとかをしなきゃいけないみたいなんです」


 ユミコは申し訳なさそうに、電話に向かって頭を下げた。といっても、その姿はテルアキには見えてはいない。こういうのは、誠意のある態度をともなってみせることが肝心だ。ハチがごろんと体をひねらせて、真っ白なお腹を無防備にさらしてきた。ボスがそんな醜態しゅうたいを、簡単に見せてしまって良いものか。困った奴だ。うりうり。


「ユミコさんの家はその辺りの名士なんですよね。仕方のないことだと思います」


 名士……というか、影の支配者だった。地元で月緒家に逆らえる者など、誰もいない。ユミコがここまでわがまま三昧の生活をしてこれたのも、そのお陰があるからだった。今にして思い返せば、結構とんでもないことばかりしでかしてきた。ヒロキにも相当にひどい仕打ちをしてきたと反省している。それもあって、あまり積極的には実家に顔を出す意思はなかったのだが。


「良い機会ですから、里帰りを楽しんできてください。お父さんとも、この際ですからじっくりと話し合ってみると良いですよ」


 テルアキには、ユミコのように帰る故郷がない。父親も母親も死んでいなくなってしまった。こうして生家に戻って、のんびりとしていられることは幸福なのだ。テルアキの気持ちを考えるのなら、言われた通りにしておくのが良策なのだろう。


 しかし――


「それはちょっと、遠慮したいかなぁ」


 ハチが、くはぁ、と大きな欠伸あくびをした。今日少しエイジと会話を交わしただけで、ユミコはもうお腹いっぱいだった。随分と衰弱して、その体躯が小さくすら見えた父親のエイジは――中身の方はユミコが出ていく前のそれと、これっぽっちも変わっていなかった。


『何だお前、俺が死ぬとなったら遺産欲しさにホイホイと帰ってきたのか』


 第一声からして、これだったのだ。その言葉が、戦闘開始のゴングとなった。ユミコだって、人並みの情けくらいは持っている。老人相手に物理攻撃をかましたりはしない。戦いは舌戦ぜっせん、付近一帯にとどろく猛烈な口喧嘩となった。


 死にそうだというから取るものもとりあえず駆けつけてきたというのに、エイジの罵詈雑言は実に活き活きとしていた。それがユミコの怒りに、更に拍車をかけた。本当に、めちゃくちゃ良いところだったのに。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られてこえ溜めに落ちて、畑にかれて微生物どもに分解されちまえ。


『二人とも、いい加減にしなさい!』


 それを止めたのは、ユミコの母でありエイジの妻であるハツエだった。二人の喧嘩は、もはやこの家では風物詩みたいなものだ。それのせいで、今までどれだけの物的損害をこうむってきたことか。その最大の被害者がハツエであるという見解については、家族全員の意見の一致が得られるところだった。


「お母さんがいなかったら、お父さんはあの場でもう一回倒れて、今頃はお通夜でしたね。私は警察の事情聴取を受けてますよ」

「そうならなくて良かったです」


 だったら、最初から噛みついてこなければ良いのに。これまで色々とあった不愉快な出来事を脇に置いてまで、ユミコはこうして取るものとりあえずド田舎にまでせ参じてきたのだ。健気けなげな末娘の姿に、感動して涙くらい流してくれてもばちは当たらないだろう。エイジはどうしても性格が悪い。ユミコとは間違っても馬が合わなさそうだった。


「じゃあ、申し訳ないですけど一週間ほど留守にします。その、九月にはちゃんと埋め合わせをするつもりなので」

「そんな義理は必要ないです。俺のことは気にしないで、ゆっくりと羽を伸ばしてきて下さい」


 通話が切れると、急に虫の声が耳に届いてきた。東京と比べると、陽が落ちてからは気温がぐんと下がる。もう少しすれば、この縁側も肌寒く感じるくらいにまでなるはずだ。携帯を手に持つと、ユミコに構ってもらって満足したハチが悠々と去っていくところだった。あんなので、本当にボスがつとまっているのだろうか。


「ユミコ、電話終わった? もうすぐご飯だってよ」


 母屋の中から、姉のキヨカが顔を出してきた。キヨカもユミコと同じで、エイジが危篤と聞かされて慌てて帰ってきたクチだ。久しぶりに子供を旦那に預けて、今日は実家に泊っていくらしい。そのまま夏祭りの手伝いまでやってくれれば良いのに。役所の方も、それはそれで忙しいとのことだった。


「はぁい」

「今の、ひょっとして例の彼氏?」


 キヨカはニヤニヤとした笑みを浮かべた。ヒロキが余計なことまで報告してくれたせいで、ユミコに付き合っている男性がいることは月緒家の中では完全に知れ渡っていた。それは詰まる所――村中の全員が周知している、という状況に等しかった。これから一週間余り、誰かと顔を合わせるたびにそんなやり取りをしなければならないのか。そう考えると、ユミコは頭が痛くなってきた。


「まぁね。そう」

「結構渋い声だったよね? 年上?」


 妹の彼氏に、そんなに興味があるのか。兄のハジメは何も訊いてこなかったが、エイジは最悪だった。「東京で早速たらしこまれてきたのか、ああん?」ときたものだ。それが父親の言うことか。思わず手が出そうになるのを、ユミコは必死になって耐えなければならなかった。


「どうでも良いでしょ」

「良くないよ。ヒロキくん振ってまで東京にいってさ。そこで捕まえた男がどんななのかって、普通に気になるじゃん」


 二十二歳も年上の、デイトレーダーのおじさんです。


 ……などと正直に打ち明けようものなら、今夜は徹夜で緊急の家族会議に突入するのは必至ひっしだった。キヨカの旦那は、やはり地元の古い顔なじみの一人だ。助役の息子というところは、流石さすがに知り合った当初には意識はしていなかった。ただ、交際を始めるにあたってはエイジが厳しくその身の上を調査して、「これならよし」と恩着せがましく許可を出したということだった。


 ここではない、どこか遠い場所で。自分一人の力で、自分のいるべき場所を見つけ出して。そして、愛する誰かと出会う。


 それだけのことが、月緒の家では難しかった。キヨカにとっては、ユミコが東京でどうやって暮らして、どうやってテルアキと出会ったのかについては、是が非とも知りたいところなのだろう。


「大した話じゃないよ」


 どうせいつかは、ここに連れてくることになるのだ。その頃までには、エイジの体調はもう少しばかり良くなっていてもらわないといけなかった。テルアキの顔を見て、素性を知って。それこそ心臓麻痺で死なれた日には、目も当てられないからだ。


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