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愛人契約はじめました  作者: NES
第7章 ゆずれないばしょ
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ゆずれないばしょ(2)

 夏もいよいよその真価を発揮し出そうとしている。ユミコは白いノースリーブのワンピースに、つば広の帽子を合わせていた。汗でベタつくので、髪はアップにしてまとめてある。大人っぽさと清純さの共存。うん、悪くない。

 隣りにいるテルアキも、半袖シャツのサマールックだった。ユミコおすすめの七分丈のズボンは、断固拒否されてしまった。サングラスはかけてみたら怪しい華僑かきょうのマフィアみたいで、こちらはユミコの方が笑いすぎてギブアップとなってしまった。服装による若返り計画は、いまだに道(なか)ばだ。今後の展開が期待される。


「お、やっと出てきたな巌窟がんくつ王」

「どうも」


 『翡翠の羽』の入り口をくぐると、ケンキチがにこやかに挨拶の言葉をかけてきた。夏休み中なので、チカも元気にバイトしている。猛暑の中にりょうを求めてやってきた短大生たちで、店はそこそこに繁盛している様子だった。


「ユミコさんもいらっしゃい。今日はラブラブですね」


 ユミコとテルアキが手を繋いでいるのを、チカは目ざとく発見してツッコみを入れてきた。テルアキの眉間にシワが深く刻まれる。ユミコはすかさずテルアキの腕を抱き締めた。この程度冷やかされたくらいで、また自分の殻の中に閉じこもらわれてはかなわない。テルアキにはさっさと元の生活――ユミコとの愛人生活に戻ってきてもらいたかった。


「別に逃げたりしませんから、心配しないでください」

「それだけじゃありませんよ」


 二人は現状だと、年の差カップルと見られるにはまだ若干の違和感がともなっていた。いよいよ、『愛人』という表現が的確だった。年齢的な釣り合いというのは、なかなかどうして塩梅あんばいが困難なものだ。しかしだからといって、ユミコがおばさんファッションに身を包むことだけは認めざる行為だった。


「今日はリハビリも兼ねて、ケンキチさんとチカちゃんにお礼を言いにきました。本当に、ご迷惑をおかけしております」


 カウンターの席に並んで腰掛けると、ユミコはぺこりと頭を下げてみせた。テルアキもそれにならって、ぎこちなく一礼する。ケンキチとチカは顔を見合わせると、ふんわりと破顔した。


「テルアキが不安定なのは今に始まったことじゃない。それに、今回はユミコさんのお陰で回復もだいぶ早かった。お礼を言いたいのは、むしろこっちの方だ」

「そうそう。ユミコさんみたいな素敵なお相手がいるのに、とうが立ったおばさんなんかに未練タラタラのオーナーたちの方がおかしいんですよ」


 「ふごっ」とケンキチが妙な声を発した。テルアキの顔面も凍りついている。現役JKチカの口撃は、相変わらず情け容赦がなかった。とはいえ、このくらい強烈であった方がテルアキには良い刺激になるかもしれない。ケンキチに睨まれると、チカは鼻歌交じりにその場を離れて空いているテーブルをき始めた。



「……すまねぇな、その、ミヨコがやらかしちまったみたいで」


 ケンキチとテルアキ、そしてミヨコの三人は古い幼馴染だ。その複雑で微妙な人間関係について、ユミコはつい先日聞かされたばかりだった。ミヨコはケンキチとテルアキ共通の、初恋の相手ということになる。二人に想いを寄せられていたミヨコは、今ではそのどちらでもない誰かの下にとついでいってしまった。


 もっともテルアキに関しては、自分の中にあるミヨコへの感情に気が付いたのは、ミヨコとの再会を果たした後でのことだった。ミヨコは一度、テルアキの前から姿を消している。二十数年ぶりにお互いの存在を再確認して、テルアキはそこで初めてミヨコを愛していたという事実に思い至った。


 テルアキの近くにいることが、いたたまれなくなってしまったというミヨコの気持ちも。

 家族の形を保つために奔走ほんそうしていたがゆえに、それ以外のどこにも意識を向けられなかったテルアキの事情も。

 そのどちらについても、ユミコには理解が出来ているつもりだった。


「いいえ。いつかは向き合わなければいけないことだった、とは思いますから」


 ただし――どうしても許せないこともある。


「ミヨコの友達がこっちに残っててさ、テルアキが帰ってきたって話が伝わったみたいなんだよな。それで懐かしくなって、ふらりとやってきたって寸法だ」

「――何をしにですか?」


 びくん、とケンキチの肩が跳ね上がった。ユミコの声は、地の底から響くみたいに低くくぐもっていた。隣にいるテルアキが、ユミコの顔を覗き込んだ。ユミコはカウンターの上を、じっと見つめていた。その表情はまるでそこに、憎むべき相手の姿形すがたかたちが描かれているとでも言いたげだった。


「何ってそりゃあ……まあ、無事でいることぐらいは知りたかったんじゃないかな?」

「そうですか」


 それを知って、どうするつもりだったのか。家族全員と死別して、一人きりで生きているテルアキに会って。自分はテルアキとは縁もゆかりもない相手と結婚して、子供まで産まれて幸せであると見せつけにでもきたのか。ご苦労様なことだ。それでテルアキがどれだけ傷付いて、ユミコがどんなにつらい思いをしようが知ったことではない。


 判っている。ミヨコに、悪意なんてなかった。テルアキがどんな状態にあるのかなんて、ミヨコには知りようもないことだった。お互いに年も取って、過去には色々とあったけどそれなりの生活を手に入れたよね、って。


 そんな笑い話にでも、なれば良かった。その程度のことだった。


「ならもう……ここにはきませんよね。テルアキさんは生きてます。恐らくはミヨコさんがいなくなった頃から、ほとんど何も変わらないままに」

「ユミコさん――」


 ケンキチが何か言おうとしたのを、テルアキが目で制した。カウンターの上で、ユミコの手をそっと握る。白い指が絡まり合って、すぐに強く結ばれた。

 テルアキが感じた痛みと同じくらいの苦しみを、ユミコもまた受けることになった。それはテルアキの責任だ。ユミコという女性を、不用意に愛して。その心を手にするまでに至ってしまったことによる――罪だった。


「大丈夫ですよ、ユミコさん」


 テルアキには他に、ユミコに対してどんな言葉もかけられなかった。ユミコが今テルアキのために世話を焼いてくれているのは、その背後にミヨコの影が見え隠れしているせいだ。テルアキをとららえて離さない、ふる妄執もうしゅう。ユミコはその一切合切を、懸命に上書きしようとこころみていた。


 ミヨコはテルアキを、もう一度見捨てた。開ける必要のない思い出の箱の中身をぶちまけて。とっちらかして、そのままにして去っていった。今のテルアキとその周りにいる人たちがどうなってしまおうが、気にもかけようとしないで。

 ただ自分の要求を……「会ってみたい」というだけの欲望を満たすためだけに。大したことのない覚悟を持って、のこのことやってきて。ユミコとテルアキの、芽生えたばかりのささやかな幸福を台無しにしていってしまった。


「忘れないでくださいね、テルアキさん」


 てのひらの熱を感じる。同じように、テルアキにもユミコのことも感じてほしかった。そこにいるという、実在。亡霊でも、面影なんかでもない。確かに、ここに存在している一人の生きた人間のことを。


「九月になったら、約束の日がくるんですからね」


 その日が訪れるまでには、振り向かせてみせる。テルアキの愛する相手は、思い出というフィルタを通さない、本当の『月緒ユミコ』という女性だ。そうしたらユミコは、自分の持っている全てを明け渡してテルアキの愛を歓迎するつもりだった。




「こんなこと、何回繰り返したって無駄ですよ」

「そう思うのなら、倒れるまで働くのをやめれば良いんです」


 ミツヒロの言い分に、ミヨコはぐぅの音も出なかった。やはり今月も、これで三度目だった。ほとんど毎週のようにこうなっている計算になる。先月は無理矢理一週間程の休みを取らされたが、結局他のメンバーのヘルプのために翌日からは職場に復帰していた。もともと多忙なのだから、どう足掻あがいたところで結果は変わらなかった。

 それに休みの日に一人になると、ミヨコはそれだけで気が滅入ってきた。考えなくても良いこと、思い出さなくても良いことばかりが脳裏をよぎってしまう。誰もいない寮の部屋で、内なる声が五月蝿うるさくてじっとしていられなかった。


「粕谷先生も、こんな私と一緒にいても楽しくないでしょう? そろそろ午後の診療が始まりますよ?」

「今日の午後は非番です。どうせ呼び出されるのですから、ここで待機しています」


 空きベッドの上で意識が戻ると、必ずと言って良い程ミツヒロがそばに付いていた。ミヨコは点滴を途中で外して業務に戻ることが多いので、監視は必須なのだそうだ。それで医師一人を専有するとか、とんでもない贅沢だ。おまけに若い看護師たちからは、嫉妬の眼差しを浴びることになる。しかしだからといって、ミツヒロの忠告に従って仕事量を減らすのもミヨコにはしゃくさわった。


「粕谷先生のお気落ちは嬉しいですが、私にはそれを受け入れるつもりはありません。病院の他の子ではダメなんでしょうか?」


 ミツヒロがこうしてミヨコのことを気にかけているのは、個人的な好意に根ざしたものだった。先日それを本人から口に出して告白されて、ミヨコは動揺した。ミツヒロは優秀な医師で、他の看護師たちからの人気も高い。ミヨコもミツヒロとは、仕事をしていく上での良いパートナーシップを結んでいければ、とは思っていた。


「外科の子だと蒔田まきたさんとか。あと、内科の古屋さんも粕谷先生のファンだそうですよ。受付のエミカちゃんとか、可愛いですよね。私からのおすすめだったら、その辺りでしょうか」


 名前を挙げたのは、みんなミツヒロのことをしたっている、真面目で良い子たちばかりだった。看護師の仲間内でも、ミツヒロ争奪戦の中では一、二を争う有力株だ。一方のミヨコは、大番狂わせ(ダークホース)の扱いとされていた。それで上等だ。ミヨコにはミツヒロを個人的にどうにかしたいという願望は、まるで持ち合わせていなかった。


「僕はミヨコさんにお願いしたつもりだったんです。それはおすすめしてくれないんですか?」

「私は――出来ませんよ。そのことについても、お話ししましたよね?」


 ここでこうやってミツヒロと語り合うのは、ミヨコにとってはもう習慣のようになっていた。点滴が終わるまでの短くはない時間、ぼんやりと天井を眺めていてはまた良からぬ妄執にとらわれてしまう。話をしていれば、それで気をまぎらわすことが出来た。それがたとえミツヒロが相手であっても――会話の内容がミヨコの過去に関するものだったとしても、だ。


「テルアキさんとのことは、ちゃんと理解しているつもりですよ」

「だったらもう……あきらめてくれませんか?」


 ミヨコは自身の過去を、ミツヒロに打ち明けていた。心に抱いている苦しみは、誰かと共有することで半減させられる。長い間たった一人で背負い続けてきた荷物を、ミヨコは初めてミツヒロに預けることにした。それはミヨコがミツヒロという人物を、それだけの信頼に足る相手であると認めていたからだった。


 現にミツヒロはミヨコの話を黙って聞いた後で、それを誰かに漏らしている様子はなかった。ミヨコの事情を察して、その上でミヨコが働き過ぎて潰れないようにとあれこれと手を尽くしてくれている。その気持ちはとても嬉しいし、有難い。

 でもそれ以上の何かを求められるとなると、ミヨコには難しいとしか言いようがなかった。


「放っておいたら、ミヨコさんは死ぬまでこんなんじゃないですか」

「粕谷先生のやることではない、と言っているのです。私にはこうしなければならない理由がある。粕谷先生には、もっと相応ふさわしい相手とか、いるべき場所があると思うんです」


 少なくともそれは、ミヨコの隣なんかではなかった。ミヨコはただ、罪滅ぼしがしたいだけだった。それも、自己満足にも等しいものにすぎない。誰に対してなのかもはっきりとしない、おぼろげで輪郭のない陽炎かげろうのような――慚愧さんきの念でしかなかった。


 テルアキの母親が死んで、ミヨコは自分がいかに無力で、自分勝手な存在であったのかを思い知らされた。テルアキに合わせる顔なんてなかった。親戚の家に越していくテルアキを、見送ることですら出来なかった。

 ミヨコ自身もまたその町を離れて、新しい生活を始めた。心の奥底には、ずっとテルアキのことがわだかまり続けていた。テルアキはどうしているだろうか。弟のヨシヒコは元気だろうか。そこにはもう自分が入って良い場所なんかないのだと、思い返すたびに涙があふれて止まらなかった。


「ちょっとでも誰かを生かす助けになれたのなら、私はそれで良いんです。私が滅茶滅茶にしてしまったテルアキの家族の代わりに、一人でも多くの人の命を救うことが出来れば」


 それでも――テルアキの母親はもう帰ってはこない。ミヨコの贖罪しょくざいは、決して終わることはなかった。取り返しのつかない後悔に流されるまま、ミヨコは看護師として命の最前線に立ち続けていた。ミヨコの存在がミツヒロの眼に留まったのも、そういった人の生命について痛い程に真摯しんしな姿勢を注目されたからだった。


「やめてください。僕はミヨコさんが、これ以上壊れていく姿を見ていたくありません」


 ミヨコのてのひらを、ミツヒロが握った。どうしてだろうか、ミヨコはふと、もう一人の幼馴染であるケンキチのことを思い出した。そういえばテルアキの母親の葬儀の後、ケンキチが泣きじゃくるミヨコの手を引いてくれたのだった。

 あの時のミヨコは、ケンキチの気持ちを無視するしかなかった。それこそテルアキの近くにいるために、ケンキチを利用することになってしまう。これ以上、嫌な女になんかなりたくない。ミヨコはテルアキと疎遠になるのと同時に、ケンキチとも知らない間に距離を置くようになっていった。


 そうしてまた、こうやって誰かの想いを踏みにじるんだ。好きになんて、なってもらわなくても構わない。ミヨコはどうせ、誰も愛することなんか出来はしなかった。テルアキへの罪悪感が、いつまで経っても消えてくれそうにない。最後のその瞬間まで、その罪をいてもがいて。

 一人ぼっちで、暗闇の中に沈んでいくんだ。


 ……かつてテルアキの母親が、そうしたみたいに。


「ミヨコさんは死なせません。僕が必ず助けます。何回でも、何百回でも」


 ミツヒロの声が、耳元のすぐ近くで聞こえた。抱き締められていると気が付くまでに、少しの時間が必要だった。変な人だ。今にも泣き出してしまいそうな、子供みたいな顔をしている。難しい手術に挑む際には、あんなにたくましくていさましい表情を浮かべるのに。ミヨコでなくても、女性看護師ならみんなそれでイチコロに間違いなかった。

 点滴がもうすぐ終わる。そうしたら、この愛おしい時間ともお別れだ。ミヨコは最後に、そっとミツヒロの背中に手を回した。死にたくないなんて考えるのは、本当に久しぶりのことだった。


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