22-(3) 救いなき救いを
我に返った来栖が最初に考えたのは、この目の前の亡骸をどう処分すればいいかというこ
とだった。
罪の意識、焦り、囚人服の未来。
様々な感情とイメージが脳裏に去来したが、今や一線を越えてしまった彼にとってそれら
は、以前に比べて随分と些末なことのように思えた。
幸い、ここは飛鳥崎でも郊外も郊外。山野の類ならば飽きるほどある。
この時、他に誰もいなかったことが更に行動を後押しした。来栖は意を決するとすぐに動
き出し、血だまりや室内に飛び散った血を隅々まで拭き取った。その上で男を何重にも麻袋
とビニールシートで包み、一人車を走らせる。
日はすっかり沈み、曇天の空は辺り一帯を普段以上に闇で覆い隠していた。
来栖は山野の奥深くへと入り込み、人手の入っていない林の中に男の死体を埋めた。ザク
ザクと、日没の暗がりに響いたスコップの音が耳に張り付いている。急いで教会に戻ると、
繰り返し繰り返し手を洗った。汚した、汚した、汚した……。その行為は結果この日何時間
も続くことになる。翌日も、そのまた翌日も、はたと気になればすぐさま蛇口へ向かった。
来栖は暫くの間、この一連の症状に悩まされることになる。
当然ながら、もう神父として祭壇の前に立つ事はできなくなった。できる訳がない。
何度振り払っても消えぬ事実と、自らの意識。心安らぐ暇さえなくなった彼は、以来ずっ
と教会奥の自室に閉じ篭もる生活を余儀なくされていった。
「神父様、大丈夫かねえ?」
「何か、病気になったって聞いたけど……」
「お見舞いに行った方がいいのかしら?」
「行くって……どっちに? 奥の家の方か? それとも病院か?」
「そもそも俺達、神父様のプライベートって知らないからなあ」
「あまり詮索するのも良くないだろう。祈ろう。神父様の為にも、この町の為にも」
時折、祈りに訪れる住民達の気配がした。ひそひそとしたやり取りが聞こえた。
しかし来栖は憤っていた。あの母子の死も、あの男の行方知れずも、さも他人事のように
奇麗事で濁し、直接触れようとはしない。自分だけは助かろうと、内心ただその為だけに
祈る。
……腹立たしかった。憎々しかった。何もかも遅過ぎるんだ。結局誰一人彼女達に手を伸
ばさなかった癖に、あくまで自分達は善人面をする。面倒を嫌い、身勝手で、何も学ぼうと
はしない。ただ誰かが、他の誰かが助けてくれる──犠牲になってくれる“英雄”が現れる
と、当たり前のように信じて疑わない。
……嗚呼、そうだ。そんな他力本願を、人は信仰と呼ぶのだ。
今なら解る。この砕けた硝子のように脆い、かつての信心の無意味さなど。
祈るだけでは誰も救えない。何も変わらない。彼らが誰かに頼りきり、外野の存在である
ことに疑問を持たない限り、救いを叶える力は常に需要に対して圧倒的少数なのだから。
不条理だ。
はたしてこの世とは、常に“怠慢”な輩が、真に敬虔な者達を無慮に奪っていくのだと。
やがて来栖は、自ら信仰の道に進んだことそれ自体も後悔し始めていた。激烈なまでに自
らを責め、憤った。己の弱さが、彼女達の殺生を招いたのだと。
──いっそ始めから、心のままに生きていたら……。
事件から一週間、二週間、一ヶ月。閉じ篭る日々は延々と積み上がり、来栖は酷くやつれ
て人前に姿を見せなくなっていた。最早身体を動かすことも、尚も祈りに訪れ、縋る住民達
の気配を知ることすらも苦痛だった。己の中の怒りが、もう自らの制御すら離れては勝手に
火をくべ、酷い痛みをもたらしてくるからだ。
(もう、駄目かもしれない……)
そんな、ある日の出来事だった。すっかり弱った身体を引き摺りながらも、それでも用を
足して自室に戻ってきた来栖が目にしたのは、勝手にこの部屋に居座る見知らぬ二人組だっ
たのである。
「やあ。戻って来たか」
「な……?! な、何なんだ君達!? い、いつの間に……。いや、そもそもここは関係者
以外立入禁止で──」
「いいじゃない、別に。小さい奴ねえ……。で? あんたが来栖信彦で合ってるのかしら?
ここの神父で、一月ほど前、人を殺した」
「ッ?!」
数秒呆気に取られたが、性質の悪い進入者だろうと思い、追い出そうとする来栖。
だがその直後、しれっと二人組の片割れに言われた一言に、彼は一瞬世界が凍りついたか
のような錯覚に叩き落される。
「正解のようだな」
「そのようね」
何も答えられなかった。否定すれば疑われる。いや、既に知られているのだ。だがそもそ
も、彼らはどうやって……?
「そう身構えなくてもいい。私達はただ、君を迎えに──助けに来たのだからな」
「……助けに?」
「ええ。貴方の望み、叶えてあげる」
言って、二人は立ち上がった。そして戸惑う来栖へと歩み寄り、スッと奇妙な短銃型の装
置を差し出してくる。
「さあ、引き金をひきなさい。全部終わらせましょ?」
「……」
暫く視線を落として、揺らぐ瞳を見開いていた来栖。
だがやがて、彼は吸い込まれるようにこの装置に手を伸ばしていた。その様子に二人は小
さく、ニヤリと口元に弧を描く。
ゴスロリ服の少女と、高そうなスーツに身を包んだ男。
本当の始まりは、ここからだった。




