3-(0) 翳りの笑み
その日は特別の始まりで、当たり前になる毎日が始まった日でもありました。
その日、長く売れ残っていたお隣さんに新しい家族がやって来ました。私は幼馴染のソラ
ちゃんと一緒に、引越しのトラックが横付けされたままのこの新居へと様子を見に行ってい
たのです。
『オーライ、オーライ!』
『この棚は何処へ?』
『そうですね……。リビングの壁際にお願いします』
忙しなくトラックから荷物を運び出していく業者のおじさん達。
そんな彼らに時折返事をし、感慨深げにこの戸建てを見上げていたのは、紺のスーツに身
を包んだ女の人でした。
『……』
綺麗な、いえカッコイイ女性だなと思いました。
びしっと着こなしたスーツの下から主張する身体のライン。それを恥じる事もなく何処か
凛として、覚悟を決めたかのようにして空を仰いでいる姿。
私達は一度、お互いに顔を見合わせました。そんな新しいお隣さん達にないものに、次の
瞬間には気付いていたからです。
『……あら?』
女の人がこちらに気付きました。私達を──立っている私の家の軒先を見て、すぐに察し
たようで、とても優しい笑みを向けてくれます。
『貴女達、そこのお家の人? どうも初めまして、佐原です。今日からここに住む事になり
ました。宜しくね?』
『は……はい』
『うん。よろしくね!』
最初の挨拶。ファーストコンタクト。
思えばあの頃から私はおどおどしていて、ソラちゃんは物怖じしない子だったっけ。
私達はお互いに名乗り合います。この女の人──つまり香月おばさまは「そっか~」と言
いながらニコニコと何だか嬉しそうです。
……でも、そこにはもう一人を除き、お父さんらしき人の姿はありませんでした。
『へぇ~……おばさん、あいてぃーの人なんだ』
『ええ。だからあまり家には帰れないかもしれないけど……。さぁ、ほら睦月。貴方も挨拶
しなさい』
『……』
代わりに、居たのは一人の男の子でした。じっとおばさまに、母親の陰に隠れるようにし
て彼はじっとこのやり取りを見ていたのでした。
(むつき……君?)
背格好は多分私達と同じくらい。だけどこの頃は、活発なソラちゃんよりも彼は小柄だっ
たような気がします。大人しい男の子でした。
だけど、私の心を捉えて離さなかったのはもっと別の事。
確かに彼は──むー君からは、悪い子だという直感、悪意を感じませんでした。
でもその一方で私はざわりと、不安……のような感覚を覚えます。
何というか、彼は確かに目の前にいるのに存在感が薄くて、まるで“世界から取り残された”
まま、そこにいるかのような感じがして……。
『……こんにちは。佐原睦月です』
ざわわ。あの時は自分でもよく分からなかった胸奥のざわめき。
それでも彼は目を瞬く事もせず、じっと暫く黙った後、そう短く簡単に言いました。
よろしく~。ソラちゃんが笑っています。気付いていないのでしょうか? 尤もあの時の
私も、結局この感覚をはっきりと言葉にするだけの知識や経験を持ち合わせていなかったの
ですけど……。
『……。こんにちは』
返ってきた言葉。それは何だかか細くて、不自然なほどに丁寧でした。
私達は笑みを繕います。
そんな中でもずっと、彼は薄く貼り付けたように“微笑って”いました。




