魔腑の洞①
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カッスル・シナートは帝国の生まれではなく、帝国の事実上の属国、ロナン王国の出身である。
幼少時のカッスル少年は読書家で、中でも冒険王ル・ブランが書いたと言われる物語が大のお気に入りだった。
──冒険王ル・ブラン
その名は伝説に彩られた大冒険者であり、彼の生涯にわたる冒険の記録は多くの者たちにとって、憧れと尊敬の対象となっていた。
ル・ブランはまるで夢のような天空都市、不思議に満ちた地底都市、そして神秘的な海底都市など、世界中のあらゆる秘境に足を踏み入れ、その詳細な記録を書に残した。
また、第一次人魔大戦の中期に生まれたとされるル・ブランだが、その生涯については謎に包まれている。何故なら彼が訪れたとされる秘境を他のどの冒険者も見つけ出すことができず、その信憑性が疑われているからだ。また彼が初代勇者と親交があったという噂もあり、その事実は今も確かめられずにいる。
その実在すら疑われるル・ブランだが、彼の物語に胸を躍らせた者は数知れず、カッスル少年もまたその一人であった。
彼は実に真っ当に鍛錬を積み、実に真っ当に知識を蓄えていき、実に真っ当に戦う業を磨いていった。
勿論独学には限界があるが、レグナム西域帝国からの物的資本、人的資本がロナン王国に大量に流入してきているという状況が幸いした。
当時の帝国は10代皇帝ソウイチロウの治世下にあり、彼は急進的な領土拡張主義を取っていた。
ロナン王国も帝国という名の大波にあっさりと呑み込まれるが、様々な理由により国体の存続を許される。ロナンがロナンとして存在していたほうが都合の良い事情があったのだ。
帝国はロナンに資本を注ぎ込み、ロナンは帝国侵攻以前より遥かに栄える事となった。
カッスル少年はそういう情勢下で生まれ、そして成長していった。恵まれない環境にも屈さず、克己の意思を忘れない者は確かに強くなる。しかし、恵まれた環境で努力を惜しまない者も強くなる。
その証明が金等級冒険者"探索者"カッスル・シナートという男であった。長じた彼は世界中のそこかしこに足を運び、様々な遺跡、迷宮、秘境を探索してきた。
彼の象徴とも言える"うねりの魔剣"は東域のとある迷宮で手に入れたものだった。非常に魔力を伝導させやすい金属で作られており、しなり、伸び、螺旋を描く剣身は現在の鍛冶技術では作成し得ない。迷宮という空間では、時に古代の財宝を手にできるチャンスが訪れる。
"迷宮"というのは極めて強大な個が周辺環境を改変した空間を言う場合と、もしくは何者かが意図的に作成した構造物を言う場合とがあるが、カッスルはその両方を多く踏破していった。
迷宮踏破、秘境踏破にあたって危険な存在と対峙した回数は数知れない。その中には竜種すらも居た。
しかし、自身の未知を既知へと変える時の喜びたるや!
カッスルはその喜びを、快感を覚えるたびに総身に幻想のエネルギーが満ちていくのを感得するのだ。
その時のカッスルはまさに万夫不当の力を発揮する。
魔王が住まうだろう根拠地も、タイプはどうあれ"迷宮"であろうと予想する事は容易で、その踏破を目指すのならばカッスルの経験……能力は非常に役立つだろう……そう考えた帝国が彼へ声を掛け、そしてカッスルもまた未知を既知とすべく魔王討伐の大任を引き受けたのである。
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カッスル・シナートの心の底には魔物がひそんでいる。未知を既知へと変える時に悦びを感じ、力へと転換できる彼だが、未知が未知のままであった時、恐怖感や不安感を感じてしまう。
そういった感情は"魔物"の根源である。古来、人々はそういった感情に形を与えて世に解き放ってきたのだから。
カッスルの精神世界には巨大で真っ暗な穴があいていて、魔物はそこから這い出てくるのだ。カッスルは必死でそれを埋めようと穴に知識の砂を満たし続けている。魔物が這い出てこないように。
なぜなら魔物が完全に這い出てしまうと、彼の愛する"世界"が壊れてしまうからだ。これはあくまでも、不安や恐怖が現実のものとなってしまう事の比喩だが、カッスルはこうした根源的不安を抱えている。
だがこれは無限のループであり、新たな未知が現れる度に、その強迫神経症めいた不安感はさらに強まっていく。つまり、魔物が這い出てくる。未知を知ったとたん、次の未知への恐れが生まれ、再びその恐れを"知る"……穴へ砂を流し込むことでしか解消できない。
今がどういう状況なのか、行く手に何が立ちふさがっているのか、あらゆることをカッスルは知りたいと思っている。
言ってしまえば、カッスルは心の病気なのだ。
強迫性障害(OCD)、不安障害、偏執症、 PTSD(心的外傷後ストレス障害)あたりがあげられるだろう。
カッスルが"こう"なってしまった根源的原因は、彼が極めて真っ当に育ち、極めて真っ当な人間としての情を持っていた事かもしれない。
彼は国を、両親を、友人を、恋人を、母国に住まう人々を好ましく思っていた。亡くしたくない、失くしたくないと思っていた。
だが彼の母国、ロナンはレグナム西域帝国の事実上の属国であり、ロナンが政治的な理由により帝国に存続を許されているだけだと知った時、カッスルの精神世界には不安という名の大きな黒い帳がおりた。
国が滅びればそこに住む人々がどうなるか。
ましてや大中小、様々な国々を滅ぼして領土に組み入れてきた帝国の手に掛かればどうなるかなど子供でも分かる事だ。
幸せな生活の全てが砂上の楼閣だと知った時、カッスルは恐怖し、不安に思い、そして安堵した。
なぜ安堵したのか。
それは"知って"さえいれば備えられるからだ。
何よりも恐ろしいのは知る機会を与えられず、一方的に混沌の渦中に叩き墜とされる事である。そして、安堵と共にカッスルの精神の何かが変質した。
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壁面の違和感に真っ先に気付いたのはカッスルであった。
「なぁ、カプラ。ちょっとこっちにきてくれよ」
カッスルが呼びかけると、カプラは無言のまま音も無く彼に近づいた。カッスルはそんなカプラに壁面のとある箇所を指で指し示す。
「なにか変なんだ」
カッスルの言葉を受けてカプラは暫時その箇所に視線を注ぐが、やがて小首を傾げた。
「……?」
彼女には何がどう変なのか良く分からなかった。変と言えばこの大陸の全てが変だ……それがカプラの思いである。
カッスルは腰に佩く"うねりの魔剣"の柄に手を置き、軽く魔力を流す。すると剣を繋ぎとめていたバンドがぱちんと音を立てて外れた。
"うねりの魔剣"は特殊な形状の剣で、いわゆる斬撃の類は一切出来ない。カッスルはイム大陸の東西南北、様々なダンジョンに足を運んでおり、東域のダンジョンでこの魔剣を見つけた。
"うねりの魔剣"は先述した様に斬撃が一切できない。しかし代わりに突きに特化しており、第二次人魔大戦の際、アリクス王国の貴族であるグレンダン・ロストヴァリ※1がこれを愛用したと言う。もっともグレンダンの場合はダンジョンで直接見つけたのではなく、献上品としてあがってきたものを愛用していたとのことだが。
※1グレンダン・ロストヴァリ:なろう&カクヨム/曇らせ剣士シドの輪廻冒険譚②、ハーメルン/曇らせ剣士シド第2話『やはり屑』参照
グレンダンは当時のアリクス王国で突きの名手として知られていたが、しかし魔軍との小競り合いで、魔将と相対し、敢え無く殺された。ロストヴァリ家は歴史書に小さく記される他愛ない野戦で滅び、現在はその地はダンジョンと化している。
そしてグレンダン・ロストヴァリの愛剣は時を巡って西域の冒険キチの手に渡ったというわけである。
兎も角も急に剣を抜いたカッスルに、カプラは警戒の様子を隠そうともしない。
魔族のいわゆる"成りかわり"はカプラも知っており、アリクス王国でも件の魔族の為に多くの被害が出ている。
「別に突き掛かろうってわけじゃねえよ。素手で触れたくなかっただけさ」
カッスルは警戒態勢を取るカプラにそういうと、剣の先端をゆっくりと壁面に近づけた。
ぞぶり、と先端は壁に埋まる。
「……幻影? 抜け穴か?」
カプラの呟きにカッスルは答えない。
彼にもなぜそうなるかがよく分からなかったからだ。ただ……
──ズレている
と、そう感じただけである。
ズレとは何か、カッスル自身にも説明が出来ない。ただ、彼は昔からこのような"ズレ"を感知する事ができる。何かが違う、なんだか変だ、違和感がある……そういった感覚を、カッスルは総じて"ズレ"と言い表していた。
この感覚能力の根源は、ロナン王国の仮初の平和に対して感じた違和感である。
若きカッスルはレグナム西域帝国の機嫌一つで吹き飛ぶ母国の在り方、そして、その不安定なロナンで幸せそうに暮らす人々の有様に強い違和感を覚えていた。それはまるで、薄氷の上で戯れる子供たちを見る時のような気持ちであった。
──危ない事が分からないのか?
──危機に気付いていないのか?
──1歩間違えればたちまち踏みしめる氷の盤は砕け、凍てつく水中に叩き落とされるというのに
自身と外の世界の"ズレ"を、カッスルは超感覚の一つとして感得している。
ずぶり、ずぶり、と"うねりの魔剣"が壁にうまっていき、やがてカッスルの手、手首、腕……そして体と壁の中へ吸い込まれていく。
「大丈夫そうだ、中に潜り込めそうだぜ。危険も……ない。今の所は。どっちにしても抜け道があるのは助かるぜ。正門からは……余り入りたくない。ただの勘だけどな」
カッスルはそれだけ言い残し、とぷん、と壁の中に完全に潜り込んでしまった。
カプラはそんなカッスルに追随する事はなく、見守る事に徹していた。カプラの斥候としての勘もこれは抜け穴の類で罠はないと囁いていたが、二人の見立てが外れて、罠である可能性もないとは言えない。
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「これは……」
カッスルは呟いた。
城の内部はダンジョンのようなものかもしれない、とは事前に説明を受けていたが、確かに尋常なものではなかった。
だが、ダンジョンではない。
内壁は赤黒い何かで覆われていた。
例えていうならば……
「まるで、体の中だな」
不意にカッスルの横で声がする。
うお、とカッスルが飛び上がると、そこにはカプラが立っていた。
「色々考えたが、お前を放っておくと勝手に進んでしまいそうだ。それでお前が死んだりしたら、わたしたち全員の不利益になる……気がする。だから私も中に入った。取り敢えず足を踏み入れただけで殺しにかかるような罠がない事には安堵したが……気持ちの悪い場所だ。だが仕事は仕事だからな、入口だけ見つけました、では話にもならん。最低限、この階層だけでも探っておくか? 見た所、奥に扉が見えるようだが……肉らしき、な」
そんな事を言うカプラを無視して、カッスルが壁を指でなぞると、壁がぷるぷると震え、液体のように波立つ。壁は血肉のような赤黒さを帯び、粘液で覆われているかのようにも見えた。それらがはっきり見えているのは、カッスル達が明かりを持っているからではなく、光源があるからだ。薄ぼんやりとした光……ウィスプにも似た円形の明かりがそこかしこへ浮いて内部の様子を照らし出している。
カッスルの指は震え、顔面にはびっしりと汗が浮かんでいた。それでいて目が爛と輝き、妖気の様なものを発されているのがカプラには分かった。
──こいつ、魔力が増えている
そして饐えた匂い。それは何かに、誰かに怯え、恐怖に震える獲物の肉体から発される香りだ。カプラは"仕事"でそういった匂いを沢山嗅いできた。そんな彼女の見立てでは、カッスルは間違いなく怯えている。しかし怯えて縮こまるどころか……
──こいつも、あの勇者と同じか。気味が悪い……だがこの状況では頼りにはなるか
自称勇者のクロウと同じ扱いをされたカッスルだが、カプラの内心には少しも気付いた様子はない。
「見た目だけじゃなく、感触もまるで生き物みたいだな。この城、いや……怪物の体内? ……は外からだと全く分からないな」
カッスルがそこで言葉を切ると、周囲の空間が微妙に脈動する。まるで心臓が血を送り出すように、空間全体が一個の生命体であるかのような感覚に包まれる。
「おい、カプラ。床を見てみろ」
カプラが視線を下に落とすと、床もまた赤黒く、柔らかな泥のような質感であった。そして、その床がゆっくりと波打ち、まるで消化器官が食物を運ぶように、二人を前へと押し出そうとする。
「広さは……外から見る倍以上はありそうだ。肉の塔、その内部っていう感じだな。いくつかの階層に分かれているんだろうが、外から見た感じだと精々が10階層。ただ、外からの見た目はあてにはならないだろうな。空間が歪んでいるのか? ダンジョンでは極まれに見かける現象だ……」
カッスルは上を見上げた。
視線の先には脈打つ肉の天井がある。
「周囲に気配はない。まず周辺を散策して、そして上層への通路を見つけるぞ。私たちは私たちの仕事をする。私たちの仕事というのは後発の安全確保だ。その過程で死んだとしてもそれも仕事の内だ。もっとも私は死ぬつもりはないがな」
カプラは注意深く周囲を見回してから言った。
声色は硬いが、平静といっていい範囲だろう。
斥候はいつ如何なる時も狼狽えてはならないというのは、見習い斥候が冒険者ギルドで最初に学ぶ事だが、このような異常空間でも平静を保つというのは並々ならない事であるのは言うまでもない。
モノクロの絵があがってきてですねー!それがホントかっこよかったんです




