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観音浄土をめざして~疑似体験ツアー【明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!】  作者: 尾妻 和宥


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39.「おぬしのなかにいた弱気な金光坊も救われた」

 死んだのだろうか?

 小賦はそばに寄ってみた。

 大の字になった金光坊の身体は、いちばん暗いところに転がっている。


 小賦の心臓が踊った。

 おかしい。そんなはずはない。

 心なしか、いましがたまで争った金光坊の体型とは異なる気がしたのだ。見慣れた筋肉質の身体つきをしている。

 まさか……。


 灯明皿がそばにあった。

 もどかしい思いで火打石を打ちつけ、火をつけた。

 炎を遺体に近づけた。

 とたんに小賦は悲鳴をあげた。

 良心の呵責かしゃくに打ちのめされた。

 床に倒れているのは金光坊ではない。祐遍だった。

 火傷を負っていた顔が無残にも切り裂かれ、ひどいことになっていた。


「ごめんなさい、祐! あなたを殺してしまった……」


 小賦は膝をつき、祐遍の身体に覆いかぶさって泣いた。両手で顔を挟み込み、胸に抱いた。

 ……とくん、とくん、とくん、とくん。

 いや、死んではいない。かすかだが、祐遍の胸の鼓動が聞こえた。

 祐遍のうつろな眼がまばたきをくり返し、小賦をとらえた。


「……これでよいのだ、オブどの」と、咳き込みながら言った。「私はどんな形であれ、いずれ死ぬさだめにあった。それがこんなふうになっただけだ。気に病むことはない。おぬしは奴を追い返した。奴との決着がついたのだ」


「……でも」


「私のことはいいのだ。それよりも」と言い、小賦の手をにぎった。「人はいかにして煩悩と向き合い、いかにして折り合いをつけていくかがもとめられる。煩悩を悪しきものとして眼をそむけたり、取り除こうとするのではない。数多あまたの煩悩から逃げずに認め、ときに抗い、そしてうまく付き合っていくのが悟りへの道しるべとなるのだ。オブ――おぬしは内なる弱さを克服したのだ」


 一瞬、蛍が現れたのかと思った。

 顔面を真っ二つに切り裂かれた祐遍の傷から光が放たれた。

 はじめこそ弱々しいともしびにすぎなかったが、やがて花が咲くように五色の光芒が燦然と輝きだした。しだいに強さが増した。

 あまりにもまぶしくて、小賦は見ていられないほどになった。


「オブどの、観音浄土クルーズは、これにて終了だ。お別れのときがまいった。もとの世界に戻るがよい」


 光に包まれた祐遍の顔が、くるみの殻を割るように割れていった。

 火傷を負った赤くただれた皮膚が脱落し、その下に、白く輝く地肌が現れた。

 小賦は雪盲にかかったように、眼をまともにあけていられない。

 新しく生まれた祐遍の顔全体から、まばゆい光が放たれた。


 小賦は彼の素顔を見た。無残な皮膚の下から現れた第二の顔こそ、ほんとうの祐遍のそれであろう。

 どこかで見憶えがあった。

 本かテレビで見たことのある仏の容貌であった。

 たしか、一昨年亡くなった祖母がだいじにしていた仏像の写真集――あれを一枚一枚ページをめくりなから、説明してくれたものだ。


 優しく眼をつむり、その頬からあごにかけてのラインは、慈愛の持ち主であるかのようなしなやかさがあった。

 うっすらと微笑を浮かべた唇はおくゆかしい。そして思索にふけった知的な面差し。

 それは弥勒みろく菩薩の顔そのものではないか。

 釈迦しゃかが入滅したあと、五十六億七千万年後の未来、兜率天とそつてんから地上にくだり、釈迦にかわって衆生を救済するといわれる菩薩――。


 まちがいない。

 祐遍は弥勒となって生まれかわったのだ。

 小賦は思わず手を合わせた。

 信仰心からではない。祐遍が生きていてくれたことに対する、とっさに出た感謝の気持ちにすぎない。


「これでオブどのも、おぬしのなかにいた弱気な金光坊も救われた。さあ帰ろう。観音クルーズは幕引きだ」


 と、弥勒菩薩は言うと、合掌したまま、ゆっくり半身を起こした。

 白い光を放ち、殯のなかの闇は一掃された。

 なにもかもが光に包まれた。

 清浄な白い光。

 小賦は気を失った。

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