38.「己の煩悩を斬り捨てよ」
草刈り鎌だった。
渡海に出る直前、酒谷川の河原で尼僧らしき中年の女に手渡されて、祐遍がしかたなく頭陀袋におさめていたのを思い出した。
補陀落渡海に出るにあたり、渡海僧や同行者は鎌を携帯したと知られている。現実的には曳航船から渡海船を切り離すために使われたのだろう。
と同時に、死出の旅に出かける際の魔除けもかねていた。仏教で説くところの冥土は、死者が歩く険しい難所である。それは死出の山路と呼ばれ、道はイバラで生い茂っているという。
それを刈るために鎌はかかせなかった。日本の葬儀においても、死出の旅に出かけるのだから、死に装束に着替えさせ、草履、脚絆などをつけるのは人口に膾炙している。土葬の習慣があったころは、この鎌も棺におさめた。いずれにせよ、鎌の呪術性・神秘性を表していたといえよう。
――まさか魔除けの品がここで役立つとは、祐遍も思わなかったにちがいない。
金光坊が傷口をおさえたまま、うしろにさがった。指のあいだからあふれ、床にボタボタとこぼれた。
「私は死なぬ。こんな殯のなかでくたばってたまるか……」
「オブどの、惑わされてはいけない」と、またしても祐遍の声が響いた。「そいつの正体は金光坊なんかじゃない。そいつはおぬしの心の弱さが作り出した幻影にすぎぬ。弱さから眼をそむけてはならない。恐れず、己の負の部分と向き合え」
「金光坊じゃない?」
「そいつはおぬしの臆病な心が作りだした偽者だ。煩悩の澱が固まった別人格のおぬし自身でもある。金光坊の名をかたり、おぬしをたぶらかそうとしているのだ」
金光坊は身をかがめ、黒い虎のようにうなった。両眼が夜光虫さながら輝いている。
「うるさい。きれいごとを抜かしよって。私を殯に閉じ込め、押し流そうとしたくせに。私はおまえの子供も同然だ。拒絶はゆるされん」
と、早口でまくしたて、またしても小賦に跳びかかった。
タックルをうけた。
小賦は後頭部を壁に打ちつけた。
鎌が手から離れ、床をすべっていった。
金光坊は首から黒い血を放血させながら、小賦の頭を両手で挟み込んだ。
床に打ちつけられた。
なんどもなんども叩きつけられた。
意識が飛びそうになる。
なんてことだ。
まさかこんな形で命を落とすはめになるかもしれない……。
仄暗い船内、黒いシルエットがまたもや馬乗りになって、首をしめてきた。
白い眼だけが光って見えた。
小賦は腕を伸ばして鎌をつかもうとした。
届かない。
調理室の向こうの八女先生たちに向かって発したSOSが届かなかったように、おそろしく遠い。
「オブ、あきらめるな」またもや祐遍の声がどこからともなく響いた。「おぬしならできる」
そのとき、野球の試合でサングラスをかけた岸本監督の言葉と重なった。
『オブ、めいっぱいの力を出してみろ。あれほど陰で努力してたじゃないか。おまえならやれるはずだ。下腹に力をこめろ』
祐遍の声が決然と、
「鎌をつかめ。そして己の煩悩を斬り捨てよ。ためらうな!」と、言った。
声を聞いたとたん、小賦の全身に力がみなぎった。
あたしはもう、物体なんかじゃない。
負けるもんか!
「んんんんーーーーーーッ!」
歯を食いしばった。
小賦はわずかに残った気力をふりしぼって、腹筋に力を入れた。
身体を弓なりに反らせた。
またがっていた金光坊ごと持ちあげた。
金光坊が驚嘆した顔をしているのがわかる。
なおも全身全霊の力をひねり出し、ついに押しのけた。
とっさに鎌の柄をつかんだ。
「やれ、オブ。ひと思いに切り裂け!」
鎌を金光坊の眉間に突き立てた。
土嚢袋に突き刺したような感触がした。
カーブした刃がなかばまで食い込んだ。
そのまま縦に切りおろした。
「あぐううううううううッ!」
金光坊がのけぞった。
顔を押さえたままひっくり返り、床でのたうちまわった。
水揚げされたマグロさながら猛烈にあばれた。
手足をふってもがいていたが、しだいに抵抗も弱まっていった。
最後に仰向けになったまま全身を痙攣させた。口から泡を吹いた。
しばらくのたうっていたが、やがておとなしくなった。




