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観音浄土をめざして~疑似体験ツアー【明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!】  作者: 尾妻 和宥


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36.「心の安らぎなど、かたときもないのだ。かたときも!」

「私は金光坊。お目にかかれて光栄だ、お嬢ちゃん」


「まさか」と、うめいた。うしろにさがりたくても、こうも狭い船内ではどうにもならない。「あんたは死んだはずじゃん。そりゃ、境遇は同情するけど」


 金光坊と名乗った老僧侶は片膝をついて起きあがった。

 小賦とは目と鼻の先で口を開く。口臭は魚の腐った、ひどいにおいがした。口臭が魚なら、その顔もオコゼのように醜い作りだった。


「おおとも。私だって、はっきりと拒絶したはずだ。補陀落浄土ふだらくじょうどに行きたくないと。――なのに弟子たちときたら、見送りにきた檀家や信者の手前、私の言い分など聞く耳もたなかった。寺や、那智の滝衆どもが、世間体ばかり気にした結果がこれだ。おかげで補陀落渡海の歴史に汚点をのこし、私自身も不名誉の烙印らくいんをおされた。この恥辱、死んだいまでも煩悶はんもんの炎にあぶられ、身悶えるほどだというのに」


「やっぱり、ちっとも浄土へ行けてないじゃん」


「観音浄土の導きなどありはしない。あるのは煩悩の責め苦が、いつまでもおのが心でくすぶり続くだけだ。終わりのない無間むけん地獄。観音菩薩は手なぞ、差しのべてくれやしない。心の安らぎなど、かたときもないのだ。かたときも!」


「お気の毒としか言いようがない。――そんなことより、祐はどこへやったの。どうやってすりかわった?」


 金光坊は低く、鳩が鳴くようにころころと笑った。


「この男もしょせん解脱げだつしきれなかったのだ。おまえとおなじく、心の弱さにすきが生じた。そこにつけこんで、肉体をのっ取った」


「そんな」


「わかるだろう。私は歴代の和尚以上に、生への未練が人一倍強かった。だからここいちばんで追い込まれて、ようやく殯の箱を突き破って飛びだしたのだ。飛びだしたからには、なにがなんでも板子につかまって浮上せねばなるまい。その板子が、祐遍とやらだ」


「でも皮肉なことに、そばで同行者やらほかの僧侶、役人たちが見てたんでしょ。また船に閉じ込められて、けっきょく海に流されたんでしょ」


「おまえのようなヒヨッコにまで知られているとは……。よほど私は不名誉な人物として広められているのか。この屈辱や、おまえにわかるか」


「ねえ聞いて」相手を興奮させまいと、話を逸らそうとした。「時代がいけなかったんだと思う。人々は集団ヒステリーにかかり、そのけ口をひとりのお坊さんに集中させてしまった。過剰な期待だったのよ。社会も悪かったし、まわりの人間も踊らされてた。あんたは運に見放されてたんだよ、きっと。金光坊さんは悪くない。むしろ時代の犠牲者だったってわけ」


「なんと、なぐさめてくれるのか」と、金光坊は冷静になって、小賦に襲いかかるのをやめた。「たしかに史実では一度目は失策を演じ、次こそ沖に流されたことになっておるようだが――」


「そうだったんでしょ」


 金光坊の青い顔に、一瞬思いつめた色がよぎった。

 苦い過去が思い出されるのか、しばらく表情を曇らせ、かたく眼を閉じていたが、頭をふって小賦を見た。

 ふたたびニッと歯茎をむいた。


「たしかに私は二度目に海に送りだされ、人々の眼には、これで金光坊も死んだと思ったことだろう。――しかし、私はあきらめなかった。言ったろう。生きることへの執着心は並外れていたのだ」


「え」


「私はふたたび悪運を得た。そのあと黒潮と偏西風に乗った船は、はるか東に流された。南方どころの騒ぎではない。さんざんひと月ばかり漂流した。そのあとまたしても、大時化が襲い、荒波が屋形を叩いた。箱は破れ、私は波にもみくちゃにされた。だが、どうにか生還したのだ」


「生きてたってこと?」


「板子一枚にしがみついたまま、漂流したのだよ。なりふりかまっていられなかった。私は死にたくなかったのだ」と、金光坊はうつむいて言った。「すると、遠くの海上に島が見えた。私はどうにか島まで泳いで、たどり着いた。子供のころから身体だけは丈夫なのが取り柄だったからな」


「島に上陸した?」


「まさか、観音の住まう大陸に着いたのではあるまいか。遠くから見るかぎり、たしかに浜には何人かの僧侶が立っていた。波濤はとう砕ける台地のへりに、多くの仏らしき影がならび、私の方に手招きしていたのだ。私は喜び勇んで、そちらに駆けていった……」


 その光景を想像すると、どこかで憶えがあった。

 ――そうだ。ヴァーチャル・リアリティーに投入され、いきなり祐遍の寝床で見た、光のなかの映像だ。仏さまのお告げのシーンだ。祐遍に聞いたところ、あれこそが観音浄土だと言ったものだ。


「現実にたどり着けたってこと?」


 金光坊がオコゼみたいな顔をしかめ、烈しくかぶりをふった。

 忌々しげに吠えた。


「ちがう! あれは観音たちじゃない! 黒い袈裟を着た者たちが、骨になった手をこちらにさしだして、私に仲間に入れと招いているのだ。そいつらの顔はミイラだった。土中入定した木食聖もくじきひじりの成れの果てのようなありさまで、みな一様に苦しみ悶え、『おれたちは寂しい。おまえもおれたちの輪に入れ。ともに前世の苦渋をなぐさめあうのだ』と呻いていたのだ。観音浄土なものか。私はとんでもないところに来てしまった。そこは亡者の住む地獄だったのだ!」

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