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観音浄土をめざして~疑似体験ツアー【明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!】  作者: 尾妻 和宥


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28.いくら叫べども救命信号は届かない

「……わけわかんない」ふるえる声よ、しずまれ。はっきり、ノーを突きつけないと。声が裏返ったりでもしたら、目も当てられない。「やめてよ。痛いの、ヤだから」


 ガスコンロにかけたフライ鍋から煙があがっていた。換気扇をまわしていても、臭いは去らない。一八〇度どころか、二〇〇度は加熱されているはずだ。エビを投入するタイミングを逸していた。


「エビフライはどうすんの」


「エビを入れるんじゃあない」と、長谷川が菜箸で小賦の顔をさして言った。「入れるべきは、あんたの腕だ。とっておきの焼き印を押したげる」


「冗談。素揚げなんか」


「冗談なもんか、マジだよ。これは最初から決まってたことなんだ。いつの日か、あんたに焼き印を押してやろうってね。私たちのメンバーに加わるための儀式さ。あんたは強制的にメンバーに入る。そして奴隷になるんだ。そうよ、奴隷のマークさ」


 ここで長谷川が言及するマークとは、下僕としての通過儀礼の一種、身体装飾(スカリフィケーション)のつもりだろう。


「当然、ウチらにはそんな『印』、ないんだけど」


 と、倉沢はシャツの袖をまくって、たくましい二の腕をさらした。牛にするような焼印はない。


「押さえてな」


 と、長谷川があごをしゃくった。

 とっさに小賦は逃げようとした。

 すぐに倉沢がとらえた。


 小賦を羽交い絞めにし、手で口を開けさせた。

 小賦はその指を噛もうとした。

 かわされた。


 倉沢たちのサディステックな笑いが耳もとで聞こえたというのに、八女先生は気づいてくれない。

 沼田が硬くしぼったふきんを口のなかに放り込んできた。

 汚い。さっきまでシンクを拭いていたやつだ。サルモネラ菌、黄色ブドウ球菌、大腸菌が億単位でウヨウヨいるっていうのに……。


 声にならない声。

 いくら叫べども、調理室の向こうには見えないガラスの壁でもあるかのように、救命信号は届かない。

 八女先生は目尻をさげて生娘みたいに笑い声をあげている。

 保坂のいるグループは、まさにこの世の理想郷だった。誰もがそこで仲良く笑っていれば、幸せなひとときを送ることができるだろう。クラスのみんながあこがれる楽土だった。


 小賦は見た。いったい長谷川はなにをしているのか――。

 おたまの半球状になった金属の底を、フライ鍋にひたしていた。ひたして油の表面に円を描いている。


「なにも、アッチンチンの鍋に手を突っ込めって言ってんじゃない。さすがにそんなことしたら、ただじゃすまないことぐらいわかるからね。だけど焼きゴテなら」


 と、言っておたまをあげた。

 たっぷり熱された先端を小賦に近づけた。獰猛どうもうな油のにおいがした。


「ンーーーッ!」


 クラスのみんなは無神経すぎる。誰もこっちを見ようともしないで。

 ……助けて!

 倉沢の手が小賦の右腕をとらえ、袖をまくった。

 無理やり掌からひじの裏を長谷川の方に突き出した。まさにインフルエンザの予防接種とおなじだ。ただし、アルコールによる消毒はない。

 おたまが近づいてきた。鎌首をもたげたコブラのように。

 長谷川は小賦の顔色をうかがいながら、しきりに舌なめずりをしている。


 半球状のステンレス鋼が腕に接触した。

 じゅっ、と焼肉の音がし、つるりと皮膚の上をすべった。

 脳天を突き抜ける痛み。

 小賦は白目をむき、のどの奥で絶叫した。


 おたまのつるっとした部分は、最初は恋人たちの遠慮がちな軽いキスのように触れ、しかしいったん重ねられると、ねっとりと舌を絡ませるように、大胆に皮膚をすべっていった。

 手首から肘の裏にかけていやな煙をたてながら走った。

 さながらカーリングのストーンのように。


 小賦は烈しく身悶えた。

 おたまがずれ、腕から離れた。


「ンーーーーーッ!」


 涙をこぼしながら、傷跡を見た。

 漢文のレ点みたいなマークができていた。ハネた部分は、小賦が抵抗したときにおたまがれたからだ。

 真っ赤になり、見る見る水ぶくれが盛りあがってくる。赤い被膜がはち切れんばかりになった。


 長谷川たちは顔をこわばらせて笑っている。

 いささかやりすぎて、我に返ったようなぎこちない顔つきだ。いままで熱に浮かされていて、突然正気に返った人の表情だった。


「これはひどい……」と、倉沢は小賦を押さえこんだまま言った。「PTAが黙っちゃいないよ、長谷川。ウチらは終わるかも……」


「ちょっと、長谷川! あなたたち、なんてことを!」と、クラス副委員長の森川もりかわがかたわらで叫んでいた。はるか先の八女先生の方をふり向き、「先生、なにやってんですか! 竹内さんがたいへんなんです! 救急車を!」


 ようやく調理室は火災現場のような騒ぎとなった。

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