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第八十六幕 星見の宴(2)

 ガラスが床と衝突し砕ける音は思いのほか周囲によく響いた。


(これは……普通は誰でも激怒していい事柄よ……!!)


 複数のグラスがいきなり飛んできて、しかも色のついた飲み物――幸いにもワインではなくジュースだったようだが、それでもドレスも顔も、見事に濡れてしまっている。それも、一人の令嬢が突然給仕の手からトレイを奪った挙句、勢いあまってという不用意な行動が原因で、だ。怒らないほうがおかしいというなか、それでもコーデリアは言葉を発する前に無言で顔を拭い、そっと周囲に視線を走らせた。


(見事に視線を独占ね)


 周囲が息をのんでコーデリアのほうを見ているのがわかる。

 状況は砕けたガラスと顔からドレスにかかった飲料、それからトレイを持つシェリーの姿で理解できるのかもしれないが、同時に理解もできないといったところなのだろう。コーデリアだって当事者ではなく外野であれば、どうしてそんなことになっているのかと思ってしまう。

 ただ、シェリーも驚くような表情を浮かべてはいるものの、一瞬達成感を味わうような表情を垣間見せたことをコーデリアも見逃していない。


(ゲームにもなかったわよね、ここまでのヒロインの失敗は)


 一応ないことはなかったが、ぶつかった折に飲み物が零れる程度のものだったし、それも被害を受けた『コーデリア』があまりに無茶な要求を行うものだから、むしろ『コーデリア』の言動のほうが周囲から引かれていたくらいだ。

 今の行動はもしかしたらシェリーがコーデリアの『本心』を暴く作戦として用意したのかもしれないし、何かを夢で見たのかもしれない。


(想像できなくても、やるしかないか。今までだって、知らないことでもやってきたじゃない)


 それと何ひとつかわらない。

 それに、今ならシェリーの満足する『コーデリア』の姿で何を言っても問題も起こらないはずだ。演技など全く得意ではないが、コーデリアは表情を消し、意を決して口を開いた。


「『また貴女ですか』、シェリーさん。『貴女、ご自身が何をなさったかわかっていますか?』」


 『コーデリア』が発したセリフと同じ言葉をシェリーに告げるのは初めてだ。

 コーデリアはこの言葉を待っていたのだろう、と、シェリーを見た。シェリーは両手で口元を覆った。


「わ、私はお手伝いをして差し上げたいと思い……も、申し訳ございません、コーデリア様」


 俯いた姿からは表情は窺えない。

 だが、本当に謝罪が必要だと思っているようにはコーデリアには見えていない。そもそも故意の行動であるだろうし、今も怯えるような雰囲気であるが、謝罪より先に自身の正当性を主張するような言葉にも疑問が残る。

 コーデリアは一つ溜息をついた。


「貴女が行った不用意な行動が、人の妨げになる。『ご自身の行い、いかに愚かであったか見つめ直してくださいませ』。貴女に必要なことは自己弁護ではなく、真摯な謝罪と反省です」

「言葉だけでは足りないと、いうことですか。どのようなことで誠意を見せれば、よろしいのですか」


 その声が震えているのは、どのような思いからなのだろうか。

 そしてコーデリアは近づき、シェリーは身を固くした。それはコーデリアから平手打ちでも飛んでくることを想定してのものなのかもしれないが、コーデリアは『コーデリア』ではない。

 『コーデリア』の言葉を時折引用したとしても、思考は全くの別物だ。

 コーデリアはそのままシェリーの横を通り過ぎた。

 そして三歩ほど進み振り向くと、シェリーもまた驚きに満ちた表情で振り向いていた。

 コーデリアはそのシェリーに向かい、鋭い視線を向けた。やはり、何も気づいていなかったのだろう。


「貴女が謝罪すべき相手は私よりも先に、こちらの方です」

「え?」


 その言葉に一番震えたのは、顔を青くした給仕だった。

 言葉を失い、振るえる給仕を見てもシェリーは意味が理解ができていなかった。

 しかし給仕は急に弾かれたように頭を下げた。


「も、申し訳ございません……!! お怪我は……!!」

「お気になさらないでくださいませ。私は大丈夫ですから」

「しかし、ぐ、グラスが……お召し物も……!!」


 自分が準備していたものが令嬢に奪われ、あまつさえそれがほかの令嬢に被害を与える。そのことに対して給仕は混乱を極めていた。そして床に散らばるガラスの破片を見て、さらに目を大きく見開いた。そして走り駆け寄ろうとしたところを、コーデリアは片手で静止した。


「落ち着いてくださいませ。手を怪我してしまいますよ。ほかの方が掃除のための道具を取りに行ってくださっていますから、お待ちになってくださいな」

「で、ですが……」

「大丈夫です、殿下がいらっしゃるまでには片付きますから」


 それでもなんということをしてしまったのか、と、給仕の顔に色は戻らない。

 膝を落としてしまった給仕の横に膝をついてその背を撫でて落ち着かせながら、コーデリアはシェリーのほうを再び向く。


「シェリーさん、貴女はまだ謝罪なさらないおつもりですか?」

「貴女が言っている意味がわからないわ。その方が悪くないのなんて、当たり前じゃないですか! その方が何を恐れる必要があると仰るの!?」


 その表情に浮かんでいるのは状況を理解できないゆえの焦りだろう。

 『コーデリア』の言葉を引き出したというのに、結果が思ったものと異なっている。コーデリアの醜い心の内を暴けるはずだったのに、周囲の雰囲気からも自分の期待と状況が異なることが理解できているらしい。

 コーデリアはゆっくりと立ち上がった。


「任された仕事に対する責任ですよ。原因は誰にあると、問われることになるでしょうか」

「貴女、彼女を責めるつもりなの!? ドレスだって代わりのものもたくさん持っているんでしょう!? グラスだってあなたの持ち物じゃないじゃない!」

「そうなってもおかしくない場面だと申し上げているのです。自分の仕事を仕事に慣れていない招待客に手伝わせた挙句、王家が招待した者に被害が及んでいるという状況、たとえ私が気にしなかったとしても、何らかの責任を問われても不思議ではない場面です」


 シェリーはここにあるグラスの価値など理解していないのだろう。ドレスもシミが残ることになるかもしれない。その請求が給仕に向けば大変なことになるなど、想像すらしていないのだろう。

 コーデリアを睨みつけたまま反論できる言葉をひたすら探そうとしているシェリーに、コーデリアは続けて畳みかけた。


「貴女は他人に迷惑をかけ、一体なにがしたいのですか。もしも貴女がこれからも人に迷惑をかけ続けるというのなら、『コーデリア・エナ・パメラディアを完全に敵に回すことになると覚えておいてくださいませ。私、容赦は致しませんよ』」


 コーデリアはその宣戦布告とともに、肩から重荷が減ったように感じてしまった。

 まだシェリーとの争いが完全に終わったわけではない。けれど『コーデリア』の好む服装で『コーデリア』と同じセリフを口にしつつ、それでも『コーデリア』とは異なる考えをしっかりシェリーに向かって告げることができたことにより、完全に決別できたように感じてしまった。

 緊張がほぐれるとまではいかないものの、いつもの自分のペースに持ち込めると感じたコーデリアは緩やかに微笑んだ。

 しかし、シェリーは声を震わせた。


「どうして……貴女が、まるで正義の味方みたいな言葉を言うの……」


 それは、本当に小さな声だった。問いかけのような言葉でありつつも、決してコーデリアへは告げていない。だがシェリーがどう思おうとも、この場で彼女の味方をするものはいない。

 しかしそんな中、突然シェリーは足を踏み出し、コーデリアの腕をつかんだ。


「!?」

「貴女が……貴女が夢の通りの行動さえ取ればよかったのに!!」


 掴まれた腕からほんの一瞬で急激に流れ込んできた魔力に、コーデリアは目を見開いた。

 一瞬で嫌な感覚が体に纏わりつき、それが過去に感じた解呪の際の感覚に非常に近いように感じてしまった。


(これ、呪術の類……!? どうしてシェリーが……!?)


 クライドレイヌ家に生まれている以上シェリー自身にも強い魔力があっても不思議ではない。しかし二年でそのような禁術を使えるようになるとは思わない。

 しかし腕を振り解こうとしても悪寒でうまく動かない。加えてたとえいつも通りの力が出せたとしても、シェリーが掴んでくる力は令嬢のものとは思えないほど強い。


(魔力も暴走している!!)


 自分自身が道連れになってもかまわないという勢いでシェリーが自分を殺しにきているのだと理解したコーデリアは必至で抵抗を試みた。しかし一瞬の遅れは大きい。


(まずい)


 その様子は周囲にもすぐに伝わったのだろう、警備にあたっていた騎士だろう者の声が聞こえた気がした。


(でも、間に合わない……!) 


 何としてでも逃げなければ――その思いでコーデリアは全神経を集中させて魔術でも抵抗した。諦めてたまるか――そう強く自分に言い聞かせたとき、急にコーデリアの腕が熱くなった。

 それは同時に今までの悪寒をすべて逆流させるように身体を駆け抜け、嫌な気配がすべて消え去った。その後、熱の発生源であった腕輪が砕け散った。

 コーデリアは荒い息を落ち着かせながら、割れて床に落ちた腕輪を見た。


(腕輪に、守られた……?)


 コーデリアがほっと息をつく間にシェリーは騎士に取り押さえられていた。

 だがすでにシェリーは意識を失ったらしく、抵抗は一切見られない。


「お怪我は」


 別の騎士に尋ねられ、コーデリアは小さく首を振った。


「何も。それより彼女、なんらかの呪いがかけられているのかもしれません」

「呪いが……?」

「私にも詳しくはわかりません。しかし彼女自身のものとは思えない力が流れてきました」


 小さく告げるコーデリアに騎士は頷いた。調べるということなのだろう。

 そもそも相手を害するための魔術を、しかも城内で発動させたのだ。たとえその力が死に至らしめるようなものでないと判断されたとしても、調べる必要は生じることだ。それがどのような処分になるかは、コーデリアにはわからない。ただ、すでにそれはコーデリアがどうこうする範囲にはない。


「ひとまず、私は退散させていただきますわ。今の私は人前にいられる格好ではありませんから」

「では、イシュマ様をお呼びします」

「ご心配は痛み入りますが、結構です。お兄様のお仕事の邪魔をするわけにはいきませんから」


 騒ぎは既に耳に入っているかもしれないが、身内だからと予定を変えさせることは混乱を大きくさせることに繋がりかねない。コーデリアは砕けた腕輪を拾い上げた。


「馬車の手配だけお願いしてもよろしいか? この姿です、私は人目が少ない中庭のほうでお待ちしていますから」

「……わかりました。では、誰か供を付けましょう」

「いえ、それも結構です。これでも位置関係くらいはわかりますし、少し落ち着きたいので」


 そうコーデリアが言えば、騎士もそれ以上は何も言わなかった。

 しかし、立ち去る前に言っておかなければいけないことがあったのを思い出し、再び給仕の前でかがみこみ、視線の高さを合わせて口を開いた。


「グラスのことが気がかりでしたら、私も後日ご説明して差し上げます。貴女が意図的に起こしたことではないのは明らかですから」

「いえ、これは……私の、私が……コーデリア様にも……」

「私は気にしておりません。ですが、もしも今日のことを気に病んでここでのお仕事に手が付かないとのことになりましたら、ぜひ我が家にお越しくださいませ。責任感の強い方は大歓迎です」


 そしてコーデリアは会場を後にした。

 クライヴとのすれ違いざまに「殿下とのお話は後日でお願いします」と、微笑みかけるくらいには余裕もできていた。


 そして中庭に辿りついたコーデリアは周囲に人の気配がないことを確認してから、ゆっくりと背を伸ばした。


「疲れたぁ……!!」


 令嬢らしからぬ行動だとは思うが、それでも両手を上げて背筋を伸ばさずにはいられなかった。わずかに残っていた肩の重荷も全てなくなり、本当に頭の中がクリアになっていた。


「彼女の処分はわからないけど、これが現実と向き合ってくれるきっかけになればいいのだけど」


 あえて自ら関わるつもりもないが、それでも今のコーデリアにはシェリーを責めるつもりはなかった。それはコーデリア自身も記憶がなければ『コーデリア』に、そしてシェリーの立場になりかねなかったという思いがあるからだ。

 加えてコーデリアはシェリーの将来よりも気にかかることがあった。それはシェリーが使った魔術のことだ。


(ララのように呪いで従わざるを得なかった……ということではないと思うわ。どちらかといえば、唆されて受け入れた可能性もある)


 そしてそう考えれば、誰が呪いを与えたかが問題だ。

 感じた気配だけで言えば、ララにかけられていた呪いと似ているのならば、ドゥラウズ王国の魔術だ。

 そう思うと、一人の人物の顔が思い浮かぶ。


「『コーデリア』の裏で動いていたのも、幽霊かもしれなければ、あるいは……」


 証拠など何もない。

 王都に戻ってきてからは一度も顔をみていない存在は、姿を現すたびにコーデリアの行動を楽しんでいた。二年前のシェリーとのことも、幽霊は知っている。


「……」


 全てが片付いたと一瞬思ってしまっていたが、まだ気掛かりは残っていた。

 名もなき幽霊と決着を付けなければ、『コーデリア』と本当の別れにならないような気がしてくる。


(本当にこれが幽霊の仕業だったのなら、まだ私に近づいてくることがあるはず――)


 そう、考えた時だった。

 慌ただしい足音が耳に届き、コーデリアは思わず身構えた。しかしこの足音は幽霊にしては雑過ぎるし、城には近付きたくないと言っていた覚えがある。かといって馬車が用意できたとの伝令だとすれば、呼びに気てくれるにしても少し急ぎ過ぎだと思ってしまう。


 そんなことを思ったコーデリアだが、目の前に現れた人物は予想外だった。


「殿下……?」


 息を切らせた黒髪金目の青年に、コーデリアは言葉を失った。




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