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第四十七幕 穏やかで、ざわめく春(3)

それからヘーゼルの自室にて世間話やお茶で楽しいひと時を過ごして、それからゆっくりと庭を見て回り、コーデリアは帰路についた。

その道中、どうやってダリアをもてなそうかとも考えていたのだが……帰宅と同時に目にした光景で、それは一瞬頭から吹っ飛んでしまった。


(サイラスお兄様にイシュマお兄様?)


二人が揃っているところなど数える程しか見たことがないコーデリアは、思わず首を傾げてしまった。はて、今日は特に何の用事もなかったはずだ。


「しかし兄上、それでは……」

「だいぶ前から考えていた。もう申し出てもいるし、父上もご存じだ」


何の話なのか、重要な話なら邪魔をするつもりはないのだが……等と思いつつ、その場を通り抜けなければ自室にも行けない。しかしそもそも重要な話であれば兄たちが立ち話で済ませるわけもないかと思い直し、コーデリアは真っ直ぐ歩いた。


「ただいま戻りました、お兄様方」


もしまずいようだったら、そのまま通り過ぎればいい……そう思いながら挨拶をした声に、サイラスとイシュマは同時に顔をコーデリアのほうへ向けた。

二人の兄は今日も実に男前であり、揃っているといつもよりさらに空気が輝いても見える気がした。かといって、二人の言葉まで変化するわけでは無かったが。


「おかえり、コーデリア」


イシュマは少し寄せていた眉を自然な形に戻し、柔らかくコーデリアに声をかけた。

逆にサイラスはイシュマにセリフを奪われたようで、少し困った様子で言葉を探しているようだった。いずれにしろ二人の様子からはコーデリアが聞いてはまずい話をしていた訳ではなさそうだった。


「珍しいですわね、お兄様方がお揃いでいらっしゃるなんて」


直接何の話をしていたのか尋ねるのは憚られたが、それでもコーデリアは素直な感想を口にした。


「兄上はご用事で戻られたけど、今からまた登城されるよ。私は非番の交代を頼まれたから、今日は帰ってきたんだ」

「そうなのですね」


頷くサイラスを見ながら、どうも彼が手にしている書物に関係があるらしい。


「イシュマ、後は任せるぞ」

「はい、お気を付けて」


そう言うとサイラスは横抜けざまにコーデリアの頭を軽くなでると、そのまま去っていってしまった。イシュマも食い下がらなかったことから、先程の話は一応終わったようだった。


「さて、コーデリアは今日はどこに行っていたんだい? フラントヘイム侯爵のお屋敷かい?」

「いいえ、今日はヘイル伯爵家にお招きいただいておりました」

「ああ、コーデリアと同じくらいのご令嬢がいらっしゃるね」

「ええ。ヘーゼル様なのですが……お兄様、実はそのことでお願いがあるのです」

「お願い?」


コーデリアの言葉にイシュマは軽く首を傾けた。

コーデリアはそれを見て頷く。


「ヘーゼル様にはダリア様という妹様がいらっしゃるのですが、騎士を目指してらっしゃるのです」

「それは活発なご令嬢なんだね」

「ええ。今度お招きするのですが、その時に何かお喜びになるものをご覧いただけないかとおもいまして……ご相談させていただきたいのです」


イシュマはそれを聞くなり、腕を組んで少し唸った。


「そうだね、ヘイル家は語学に関する仕事をしていることは多いけど、武人の話はあまり聞かないかな。だったら、大抵のものは喜んでもらえると思うけど……地下の宝物室には面白いものがたくさんあるよ」

「面白い物?」

「古い物だと、四代前のご当主様の妹君・ベアトリス様の装束とか。凱旋パレードの時のものもあるから、女性で騎士を目指しているなら興味があるんじゃないかな。他にも色々あるからね」

「ありがとうございます。お兄様にご相談させていただけて、よかったですわ」


それならきっと喜んでもらえるだろうと、コーデリアも嬉しくなった。

さすがお兄様、素敵なチョイスをしてくださる……と思いつつ、自分の用事で兄たちの話を止めたのであれば、申し訳がない。


そう思っていると、イシュマは「どうしたんだい?」と柔らかく笑んだ。


「ほかにも何かまだ気掛かりなことがあるのか?」

「いえ、お兄様たちがご一緒にいらっしゃるのは珍しいのに……私が帰ってくるタイミングが少々悪かったと思いまして……」

「ああ、それなら兄上もすぐにお戻りにならないといけなかったし、仕事でも会うことはあるから気にする必要はないよ。コーデリアが思ってるほど、顔を合わせていない訳じゃないと思うしね」


気を遣ったという可能性もあるが、確かにサイラスが仕事中というのであれば、イシュマの言う通り元々長くは話す時間はなかったのかもしれない。


「だけどコーデリアが自ら友人を招きたいと言うのは珍しいことだな」

「え? ええ、そうで……すね?」


ヴェルノーやヘーゼルは呼ばずともやって来るし、フルビアを呼ぶ際は教師としてだ。

招待を受けて出掛けることはあっても、確かに人を招くことは稀であることに違いない。


「……もし必要があるのなら、私の休日でよければ私が解説役を任されようか?」

「え?」


そんな申し出があるとは予想さえしていなかったできていなかったので、一瞬コーデリアは目の前で微笑んでいる兄が何を言っているのか理解することができなかった。

しかしそんな唐突なイシュマの、その申し出がダリアの喜びにつながらない訳がなかった。

それから数日後、太陽が登り切るより少し前の時間。


「信じられません……こんな、こんな素敵なことがあるなんて!! ベアトリス様の愛用されていた品が現存していたなんてっ!!」


ダリアはパメラディア邸の応接室にて、数々の物品を前に目をキラキラと輝かせていた。しかしそれは現役騎士であるイシュマの方は一切見ていない。ただしその解説はしっかりと聞きとめているようだ。


「その様子だとダリア嬢は知っているようだけど、その服の持ち主であるベアトリス様は非常に勇猛果敢でね。北との戦でもとてもご活躍され、歴史書にも武勇伝を多数残されているよ」

「ええ、ええ! 私もお調べさせていただきました! 終戦後は一切表舞台に出てこられず、まるで戦の女神、黒姫将軍と謳われた御方ですよね。ああ……この黒の上着がベアトリス様の象徴ですわね。ああ……現存するなんて存じておりませんでしたわ。この胸元に止められている石、珍しいですね」

「それはタルパ砦の戦いの褒美だね」

「まあ、あの時の!?」


イシュマの解説をしっかりと聞きながら、両手を合わせてキラキラとひたすら服を眺めている少女は、ひたすらうっとりとした表情を向けている。

そしてコーデリアはそれを一歩下がったところで眺めていた。


(……かなりマニアックな戦いのことまでご存じなのね)


コーデリアもベアトリスは家系の出身者であるから一応は一通り年表等はみたことあるが、そこまで詳しく覚えている訳では無い。タルパ砦の戦いは重要な戦いではあるが、国史としては同時期の別の戦いの方が大きく、砦の戦いもその一つと考えられることも多いので、教科書から省かれることも多々ある戦の名だ。

しかしダリアはごくごく普通のことであるように語る。その姿は夢を見るように楽しそうで……まるで想像上のヴェルノーを語るヘーゼルのように見えている。想いのベクトルも姿も全く違うが、非常によく似ていると思わざるを得なかった。


「ベアトリス様は多くのお話を残されている方ですもの、きっと幼い頃から周囲の期待も背負ってらっしゃったでしょうに……重圧に負けない強いお心も、素敵ですわ。私は全く違う立場ですが、ベアトリス様のように志を強く持ちたくございます」


そう言ったダリアの言葉に、少々なんともいえない気持ちになった。

いや「強いお心」には反論しない。そしてコーデリアも先日、イシュマとともに宝物室に入り、ベアトリスが書いたらしい日記を見つけるまではだいたい同じようなことを思っていた。


しかし少し古い文字で記された日記には「じゃじゃ馬娘だの暴れ馬だの、好き放題言われているのでもっと暴れてみせようと思う」、「我慢してドレスを着たのに『ヒールは武器では無い』と説教された。投げれるものは武器になるのに」などと、おおよそ期待されていなかったであろう言葉が記されている。


もちろん古いものであるため、当時の表記やニュアンスは現在と差があるかもしれないとも考えられるが……一応コーデリアも、そしてそれ以上にイシュマも国語は一通り習得しているのでおおよそ間違いはないはずだ。


(本当は期待ではなく、反対された中、意志を貫かれたお方なのよね)


よくよく考えれば、多くの武人を排出するパメラディア家でも令嬢が剣を振るった記録はあまりない。ましてや前線に立った記録などほかにない。そういう意味ではダリアの状況に近いかもしれない。


(意志の強さには私も尊敬を抱くけれど、あえてダリア様にお伝えする必要はないかしらね)


一般的に知られていない日記の存在をダリアは喜ぶかもしれない。

だが言わずともダリアの中ですでにベアトリスは理想といえる存在であるようなので、逆に理想を壊す可能性もある。


(何よりベアトリス様だって数百年後に日記をみられるなんて思っていなかったでしょうし)


見てしまった者がいうのもなんだが、もしも自分がその立場ならと考えれば恐ろしいとコーデリアは思う。

日記など人に見られることを前提としていないのだ……などとコーデリアが思っていると、ダリアはまたもや可愛らしい声を上げた。


「まあっ、こちらは素敵な掛け守りですね! もしかしてこれもベアトリス様のものでしょうか? この時代だとペンダントのトップの筒の中に、誕生石と戦神の彫刻を入れて幸運を願うのですよね。私も一つ作ろうかしら?」

「……本当にダリア嬢は騎士がお好きなんだね。今、掛け守りを持っている者どころか、騎士でも知らない者もいるというのに」


イシュマは感心した様子で、コーデリアもおおむねその意見には同意した。よほど強い騎士への憧れを抱いているのだろうとコーデリアも思うが、しかし想像以上の反応には少しの疑問がわいてしまった。


(これほどお好きなら、学習も二階から飛び降りるほどに嫌わなくてもないいと思うのに)


ダリアが学習に励むきっかけに繋がればと誘ったが、少なくとも歴史は好きそうな様子であることから学習全般が嫌いという訳ではなさそうである。

そんなことをコーデリアが考える中もダリアは再び「きゃあっ」と明るい声を上げて次の品に目を移していた。

それを見たイシュマは新たに解説を行いつつも、いったん区切りがつくと実に面白そうな笑みを浮かべていた。


「お兄様?」


どうなさいました? と、コーデリアが言外に含めて尋ねると、イシュマは「いや」と、笑った。


「ダリア嬢が、コーデリアとよく似ていると思ってね」

「私と、ですか?」

「ああ。初めて森に連れて行ったとき、こんな感じだった気がするよ」

「……」


懐かしそうに、そして微笑ましそうにイシュマは言うが、コーデリアとしては反応に困った。このような様子だったのだろうか……? 確かにとても喜びを感じていた記憶は強いが、ここまで全面に感情を押し出していたつもりはなかったのだが……兄から見れば同じようなものなのだろうか。


(……いえ、こう……微笑ましく見ていただいているなら、ありがたいと思うんだけれど)


それでも、純粋な子どもという訳では無い自分がこう見えていたというなら……コーデリアにとっては多少微妙な気分にならざるを得ないこともある。


「イシュマ様、こちらのものは、まさかあの……!?」

「ああ、その髪飾りはおそらく……」


しかしコーデリアの複雑な感情はさておき、ダリアが喜んでくれていることには変わりない。それならそれでよかった……と思いつつ、少々自制心を保つよう心がけようと一人決意するコーデリアは、部屋が軽くドアがノックされる音を聞いた。

熱中するダリアの邪魔をしないよう、コーデリアはそっとドアに近づき、ノブを回した。

するとそこにはエミーナがいた。


「失礼いたします。昼食はいかがなさいますか? いつでも召し上がっていただけるよう、準備を整えております」

「あら、もういい時間になっているのね」


ダリアの勢いに巻き込まれ、すっかり時間が経っていることにどうやら気づけなかったらしい。コーデリアがエミーナと話している様子で内容を察したらしいイシュマが「じゃあ、そろそろ昼食にしようか」と口にしたので、エミーナは一礼して去っていった。

そしてダリアは「もう、もう少し……ほんの少しだけ、だけこちらを眺めさせてくださいませ……!」と、今度は剣を見つめていた。

用意が調っているとはいえ、いつ食事となるかわからなかったのであれあば少しの準備時間は必要になるだろう。そう考えれば少しくらい問題はない。コーデリアがイシュマの方を向くと、イシュマは軽く頷いた。

考えはどうやら同じらしい。


そんな中でイシュマはダリアに尋ねた。


「ダリア嬢はどうして騎士になりたいと思ったんだい?」

「一目ぼれでしたの」

「「一目ぼれ?」」


声を重ねて聞き返すコーデリアとイシュマにダリアは笑顔で「はい」と返事した。


「私の母は王妃様に強いあこがれを持っております。それゆえに王妃様の御輿入れの際の絵葉書を持っているのですが、私はそこに描かれた女性が物凄く格好良く見えたのです。それまでに見たどの絵本よりも魅力的でしたわ」


両頬に自身の手をあてうっとりとした様子を見せるダリアは、かつてヴェルノーのことを語ったヘーゼルによく似ていた。姿はにていないのに、さすが姉妹だと思わせる勢いだった。


「ただあこがれと現実には違いがあって。私、剣を習い始めた時、あまりの重さに驚いてしまいましたわ。でも、今では剣に恥じぬ腕になってきたと思うのです」


「得意なんですよ、得意なんですよ」という空気がやや溢れているように見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。

そのことを感じてだろうか、イシュマもやや苦笑しつつ言葉を挟んだ。


「本当は剣なんて振るわずに人々を守れるなら、それに越したことはないんだけどね」


確かな腕を持ちながらも穏やかなイシュマらしい言葉に、コーデリアも暖かさを感じたのだが、ダリアは首を傾げた。


「もし守ることに必要なくとも私は剣は大事だとおもいますの。だって、自己の甘さを磨けるではないですか」

「ダリア嬢は剣豪みたいなことを言うね」


将来が楽しみだといわんばかりのイシュマに、ダリアも得意げそうなのだが、再びコーデリアはその様子に疑問を抱かざるを得なかった。

学習からの逃走は、自己の甘さに含まれないのか、と。



++



そうして迎えた昼食は前菜に合鴨のマリネがあり、サラダが続き、メインは白身魚の香草パン粉焼きと羊のすね肉煮込みだった。パンにはレーズンとくるみが練りこまれていた。

コーデリアとダリアの皿は美しく盛られているが、イシュマの皿はそれに加えて大盛りになっていた。


「とても美味しいですね。口の中でお肉がほろほろとします」


うっとりとしながらそう言ったダリアは、非常に食事のペースが早かった。

途中でかなりの量のパンをお代わりもしているが、それでもコーデリアよりかなり量は多い。


(べ、別に私達の量が少ない訳じゃないんだけど……)


そう思いながらもコーデリアは軽く首を傾げてダリアに尋ねた。


「ダリア様は普段どれくらい剣のお稽古をなさっているのですか?」

「大体三日から四日に一度ですわ。本当はもっとお稽古したいのですが、あとは基礎になるトレーニングを、毎日少しだけですの。急に、どうしてですか?」

「いえ、運動なさるから、お出ししている食事の量が足りていないかと思いまして……」


けれどダリアの言葉通りの運動量なら、そんなに足りないわけではないだろう……と、コーデリアは思ったのだが、ダリアは少し恥ずかしそうに「え、その……」と、恥ずかしそうに言葉を濁した。


「お代わりが必要なら用意はあるよ。ハンス、何かあるかい?」

「お肉のお代わりはございますよ。それから、そうですね。パンも他にございますよ。卵料理でしたらすぐにご用意できますが……」

「だったら……オムレツはお好きかな、ダリア嬢?」


イシュマの言葉にダリアは目を輝かせた後、「はいっ!」と大きく頷いた。

それはお代わりが嬉しいと全身で伝わってくる勢いだ。コーデリアはイシュマの相手を喜ばせる誘導に感心してしまった。もっとも、ダリアは頭の中が食事のことでいっぱいそうではあったのだが。


「イシュマ様のデザートはいかがなさいましょうか?」

「私はいつも通りフルーツを頂こうかな。 二人は甘い物のほうがいいだろう?」

「お嬢様方いはシフォンケーキとフォンダンショコラのご用意がございます」


ハンスの進言に「では、私はシフォンケーキをいただきます」とコーデリアは返した。フォンダンショコラはお茶の時間に楽しめばいい。しかしコーデリアの言葉を聞いたダリアが少し迷う素振りを見せたので、一言だけ付け加えた。


「ダリア様は両方召し上がって下さいな」

「で、でも」

「我が家は甘味もおいしいですよ」


コーデリアも遠慮してもらうつもりで片方を選んだわけではないのだから、と、思うとダリアはにっこりと笑った。可愛らしい、と、コーデリアもほぼのぼのしてしまった。

だが……ここで『ひょっとしたら』と思うことが一つ出来てしまった。


「食後は何か予定はあるのか?」

「一応、書庫をご案内しいようと考えております。 お兄様、軍記物で面白い物がございますよね?」

「ああ。そうだね。もし読み切れなくても、持ち帰ってもらっても大丈夫だしね」


本当は午後は温室で話でも……と思っていたが、今浮かんだことがその通りであれば、少しダリアの学習からの逃走を阻止することに繋がるのではないかと思った。

だから、まずは美味しく食事を平らげ、書庫に向かうことにした。



++



書庫に入ったダリアは真っ先に「騎士のことが記されている本をお読みさせていただきたいですわ」と、力強く申し出た。

そのチョイスを任されたのはイシュマで、棚の少し高い位置から「この辺りは珍しいものかな」と、一冊の分厚い本を手に取った。


「これなら少し文章は多いけど、難しい言葉は少ないし、丁寧だからわかりやすいよ」


そうして渡されたどっしりした本を、ダリアは楽しそうに読み始めていた。

だが、ページが進むにつれ、彼女のページをめくる速度はおそくなる。そしてついにはうつらうつらと船をこぎ始めた。


(……やっぱり)


別の本を読んでいたコーデリアは、ゆっくりとダリアに近づいた。そしてその肩に軽く触れた。


「ダリア様」

「わっ……!?」

「も、申し訳ございません」


ダリアの驚いた声にコーデリアは反射的に謝罪を口にした。

驚かせるつもりはなかった。しかしダリアもコーデリアが謝罪したことに驚いた……というよりは状況が飲みこめていなかったようで、曖昧な笑みを浮かべていた。少なくともうたた寝をしていたことは理解しているようである。


「ひょっとして、昨日はあまり眠れなかったのかしら?」

「いえ、いつもなんです。お昼から凄く眠くて」


ダリアはそう言い、小さくため息をついた。


「この本は面白かったのに、少し時間がもったいないことをしましたわ」

「いえ、まだ時間はございますし、お貸しすることもできますから。……それより、いつもこの時間は眠いのですか?」

「この時間にいつも語学や古典の勉強をいたしますが、ついうっつらしてしまい。私はやはり国語は喋れたら問題ないと思いますし、古典も使うことなんてないと思うのです」


コーデリアはその返答を聞き、何度目かになる言葉を心の中で唱えた。やっぱりだ、と。


(ただ単に勉強が嫌いというだけではなくて、眠くなるからやりたくない、進まないということも大きいのかもしれないわね)


十二歳のダリアに対し注意するのがヘーゼルのみとなれば、ダリアも反抗のひとつもしたくはなるだろう。


(ご両親が騎士になることに不安を覚えてらっしゃるなら、注意もできないものね)


ダリアが素直な子供であることは間違いないだろう。それでもヘーゼルからの苦言を受け入れられないのは……年が近い、口うるさい姉からの言葉に頷けないという心理はわからないでもない。甘いと先は少し思ってしまったが、そういう環境下であったら自然な発想だったのかもしれない。むしろ、素直だからこそ自分の知る世界の中で色々考えた結論なのだろう。


コーデリアはちらりとイシュマを見た。イシュマも苦笑し、コーデリアに頷くとダリアに近づいて視線を合わせた。


「古典は騎士云々ではなく、修めておいて損なものではないよ。会話の際に古典からの引用は、思いのほか多いからね。最低限のことは任用試験にも出るよ」


イシュマはヘーゼルの件を知らないが、コーデリアの言いたいことはすべて伝えてくれた。

コーデリアも先日少し伝えはしたが、現役の騎士の言葉と受け取る重みは違うはずだ。それにあの時、ダリアはコーデリアの言葉で納得しきれなかったからこそ今もそう思っているのだ。そもそもあの時はダリアからの言葉を聞く時間はなかったが、今ならあの時納得できなかっただろうことも聞くことができる。


「けれど、例え試験でその分野ができなくても、他の分野で補うことができれば問題はないのではないでしょうか? 騎士の任用は総合点数で決まると聞いております」

「最終的に合格することが目的なら、それも可能かもしれにない。だけど、それだと例え騎士になっても、配属の時に自分の希望は通りにくいよ。いつだって競争だからね」


イシュマの言葉にダリアは詰まった。

考えていなかった、という様子である。イシュマも苦笑していた。


「ヘイル伯爵は外国語にも堪能だろう? 王妃様の護衛騎士を目指すなら、やはり語学や文学は納めておいて損はないよ。通訳も任せられれば、安心される」

「……はい」

「私も苦手なことは多いよ。けれど、やらない理由を探すより、やる理由を探す方が大切だからね」


最後にフォローをいれつつ、しかしイシュマは腕を組んで唸った。


「けど、眠気か。どうしたものかな」

「それなら、恐らく……単純に、食べすぎによる満腹感が引き起こす眠気だと思いますわ」


考え込んだイシュマにコーデリアは言葉を挟んだ。

「え?」と、小さくダリアが声を上げた。


「それだけが原因とは限りませんが、そこにも原因があるのなら、食事のとり方次第で改善ができるかもしれませんわ」


驚くダリアに、コーデリアは頷く。

ダリアは気持ちいいくらいの食べっぷりで、とても楽しそうではあった。そしてパンだけでもコーデリアの倍は食べていた。食べるスピードもやや早めだったので、それも食事を多くとる原因になっしまっているかもしれない。噛む回数が少ないことで満腹感も得難い可能性がある。


(おかずもたくさん食べてらっしゃったけど、パンがとても多かったわね。炭水化物が大好きな気持ちはわかるけど……身体が血糖値を下げようとして出るインシュリンのせいで、眠気が強くなっちゃってるのかもしれないのよね)


その眠気が来ている所に興味が薄い学習が来るとなれば、眠気だって増すだろう。

しかしコーデリアはその説明をすること省くことにした。そもそもダリアは眠気を払うことになら興味はあるかもしれないが、眠気が生じる理由自体に興味があるわけではないだろう。コーデリアも前世の学生時代には昼一番の授業の眠気を抑える方法を知りたかったこともあるが、特にそのメカニズムを知りたかったわけでは無かった――と、自身に言い訳をしながら、小さく咳払いをした。実際には例えダリアが理由に興味を示したとしても、この世界に血糖値云々の概念があるかどうかをコーデリアが知らない今は迂闊なことは言えず、ぼかすしかないのだ。

誤魔化すようにコーデリアは小さく咳払いをした。


「食べる順番はお野菜から。あとは少しパンを取る量を減らし、食事の総量も腹八分目を試してくださいませんか? そしてよく噛んで食べること、ですね。デザートも乳製品やフルーツの方がいいかと思います」


噛めば満腹中枢を刺激し、時間も書けることができるので、過食にブレーキをかけることもできる。コーデリアの言葉にダリアが少し引き攣った顔をしたのは、きっと食事が減るということに抵抗を覚えたからだろう。コーデリアの心は痛む。

しかしそれでも、聞いた範囲ではエネルギーの過剰摂取にもなっていると思われる。


「一時的な目覚ましなら、顔を洗うこともあるけど……レディには少し難しいときもあるかもしれないね。教師を招いての学習途中なら、少し運動するということも難しいかな」

「……」


イシュマも他の案を考えてはいるが、あまり有効な手段ではないらしい。

コーデリアは少し悩んで、それから口を開いた。


「ちょっと待っていてくださいませ。すぐに戻ります」


そう言って書庫をあとにすると、研究室に真っ直ぐ向かった。

確かに顔を洗うなどという事は難しいが、眠気を覚ます手助けならコーデリアにも覚えがある。


研究室に入ったコーデリアは戸棚から桶を取り出し、水を張る。そしてティートリーとペパーミントの精油を一滴ずつ落とす。殺菌、抗菌の力が強いティートリーはオーストラリアの先住民族、アボリジニが傷薬として使用していた。第二次世界大戦時にはフランス軍で兵士の治療に利用されていたこともある。すっきりとしたシャープな香りを感じながら、コーデリアは用意したタオルを水に浸し、軽く絞った。

これで冷湿布の完成だ。

そして続いて戸棚からキャリアオイルと無水エタノール、それからローズマリーの精油を取り出す。ローズマリーは眠気を覚ます力、そして記憶・集中力を高めると言われている。それを先程も使用したペパーミントの鋭い香りと合わせれば、なかなか刺激的な香りになる。


その二つを用意したコーデリアは再び書庫に戻った。


「お待たせいたしました、ダリア様」

「お帰りなさいませ、コーデリア様。そちらのものは?」


コーデリアの持つタオルと瓶を不思議そうに眺めるダリアに、コーデリアは微笑んだ。


「これで少し顔をぬぐってみてください」

「く、空気が鼻を通り抜ける気がしますね」

「ええ」


少し驚いたような表情をダリアは見せるが、不快そうではない。

純粋にびっくりしているという様子だった・


「でもお姉様が普段自慢してくる蝋燭のような香りとは違いますね。別の果物ですか?」

「これは葉の香りなのです」


葉の香り。首を傾げるダリアは、それでもタオルを手に自らの頬に当てた。

冷たい水で冷やしているので、純粋にその冷たさでも少し眠気は飛ぶはずだ。


「あとはこちら。お嫌いでなければ、集中力を高める助けになるかもしれません。手首などに塗って香らせてください」

「確かに、これは目も覚めそうな匂いですね」

「でも、一番の目標は、がんばるって意識しなければ難しいと思うよ。確かに満腹だと眠くなるけど、やらなきゃいけないっていう意識も大切だからね」


二人の様子を見ていたイシュマも、柔らかい声で割り込んだ。


「あと、騎士になったら遠慮なく食事はとらないと倒れるから、その時は気を付けたほうがいいかな」

「そうなのですか?」

「ああ。とんでもなく動くから食べないと倒れるし、最初は苦しいくらい食べることになるよ。それこそ食べるのが仕事のように感じてくる。でもそのうち慣れるし、そもそも恐ろしいから眠気どころじゃないし」


質より量だけど、と、イシュマが続けた言葉は既にダリアには届いていなかった。


「では、少しの間だけの我慢でいいのですね!」

「まあ、あとは……本当に眠気酷くて仕方ないなら、学習時間を変更するかだね。わかり始めればつまらなさも薄れ、眠気が加速しない可能性もあるから」


そう続けた言葉も届いていなかったかもしれないが……それでも、本人がやる気になったことは最大の収穫だと思う。あとのヘーゼルとの応酬は……若い頃の思い出として育つよう、祈るばかりである。



++



テンションで眠気を飛ばしたらしいダリアが、その後再び眠気に負けるということはなかった。どれほどの効果があるかはさておき、コーデリアもお土産としてダリアに精油を渡した。


「お兄様、今日はありがとうございました」


ダリアが帰路についたあと、コーデリアは改めてイシュマに礼を述べた。

だがイシュマも軽く首を振る。


「いや、こちらも珍しい体験をさせてもらったよ。騎士になる前のことなんて、そう考える機会もないし、少し改めて考えさせられたよ。初心は忘れてはいけないね」

「覚えておきます」

「そうだね。でも、ヘイル家はあまり武に通じる家系ではないから、伯爵も不安だろうね。ダリア嬢が本当に任用されたなら、不安を解消したほうがいいかもしれないな」


やや独り言のようにつぶやくイシュマは、まるで後輩を心配する先輩、もしくは生徒を心配する教師のように見えた。

しかしコーデリアがそんな風にイシュマをみていると、イシュマはぽつりと呟いた。


「でも、コーデリアが騎士になりたいといわなくて本当によかったよ」

「あら、不安ですの?」


意外なことをいわれたとばかりにコーデリアが目を丸くすれば、イシュマはいたずらっぽく笑った。


「ああ。父上が、目の色を変えそうでね。もしも稽古を付けてくださるといっても、コーデリアがあきらめるまでやめない稽古になりそうだよ」


その言葉にコーデリアも苦笑した。

確かにエルヴィスを納得させるのはいろいろな意味で難しそうだ。


(……でも、あのお父様が任務の最中に負傷なさって、騎士の立場を退いたのよね。お父様が傷を負うような、そんなことすらあり得るところに、ダリア様が行きたい言えば、伯爵夫妻も不安よね)


改めて考えると、危険なところだ。

本当にヘーゼルのやる気をみなぎらせることはよいことだったのだろうかと、少しの不安が頭をよぎる。

しかしそのとき、コーデリアの頭に大きな手が乗った。


「最初からだめだと言われたら、後悔しか残らないだろう?」

「……はい」

「それに、あの子はコーデリアによく似ている。だめと言われても諦める子じゃないから、今日のことだけが騎士になる・ならないに関わることじゃないと思うよ。仮にお前が騎士になりたいと言えば、父上がどんなに反対なさっても諦めないで貫くだろう?」


ぽん、ぽんと頭を軽くなでられながら聞く言葉は、確かに納得させられるものだった。確かに、ダリアならたとえ試験に落ちようとも、受かるまで何度でも受験資格が許す限り挑戦を続けそうな印象を受けてしまった。

そもそも武芸に自信があるなら、イシュマも言っていたとおり筆記が多少悪くても任用されそうである。ただ、その後の希望が叶うかどうかが断言できないだけだ。


(うん、それは、確かなんだけど……)


コーデリアはそう思いつつも、顔を上げられなかった。

言葉に納得しなかったわけではない。ただ、頭をなでられる経験などほぼない状態であったから、今は非常に恥ずかしいのだ。


「そうだ、コーデリア。私にもダリア嬢に渡していたものをくれないかな?」

「お兄さまも眠気にお困りですの?」

「いや、そういうわけではないんだけどね。少し覚えなければいけないことが重なっているから、切り替えに使おうと思って」


なるほど、「これを嗅いだらやるぞ!」というようなルーティーンの

一環として使用するというわけか。


「明日、宿舎に持って行っていただくようご準備しておきますわ」

「ありがとう」


イシュマの手がコーデリアの頭から離れ、そして彼は「部屋に戻るよ」と言い去っていく。

コーデリアはその背中を見つめながらふと考えた。


(覚えないといけないことが重なっている、というのは……サイラスお兄様とお話になっていらっしゃった件かしら?)


詳しく尋ねることは叶わなかったが、何か大きな仕事があるのかもしれない、と。


「……なら、私はお疲れがとれることを考えさせていただきましょうか」


指示や相談があれば全力で協力したいと思うが、なにも聞かされていないのであれば、今はできることをするだけだ。


(ただ、機密で難しいことかもしれないけど……何か命じていただいた際には、すぐに動ける努力をしておきたいものね)


そのためにはまず、命じられるだけの信用を得なければいけないな……などと思いつつ、コーデリアもまた自室に戻った。



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