第四十三幕 緑の魔女(10)
「ご用事はお済みですか」
「ええ、待たせて悪かったわね」
「いいえ。天気もいいから日向ぼっこっていうのも悪くありませんでしたよ」
そうロニーと会話した後、コーデリアはまっすぐに屋敷に戻った。
帰宅時はまだ夕日が傾く時間でもなかったが、馬車がエントランスの前から移動しているのが見えた。客人の馬車かと一瞬は思ったが、それはパメラディア家のものだ。
「お父様がお帰りになられたのかしら」
「お嬢様はどうなさいます? 研究室いきます?」
「……いえ、お父様にお会いしてから部屋に戻るわ。そう、ロニーにもお菓子を焼いているの。あとで届けさせるから、ララと食べてちょうだい」
「おっ、ありがとうございます」
そうして魔術師棟に向かうロニーと分かれたコーデリアは自室に戻る途中、書斎に向かった。戻っているのがエルヴィスであればすでにそちらにいるかもしれない。しかしその道中で紅茶が用意されたカートを押すハンスに出会った。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、ハンス。そちらはお父様へ?」
「はい。今日は早いお帰りでしたので」
カートにはハンスに預けていたマフィンも鎮座している。
それにコーデリアの視線が向いたことに気づいたのだろう、ハンスは緩やかにコーデリアに尋ねた。
「お嬢様も一緒にいらっしゃいますか? せっかくでしたら、こちらのお菓子もお嬢様からお渡ししていただいたほうが、旦那様もお喜びになられると思いますよ」
「そうだと嬉しいわね。一緒に行くわ」
そしてコーデリアはハンスとともに書斎に向かった。
「旦那様、お茶のご用意が整いました」
ハンスの声に対し部屋の中からは入室を促す声が返ってきた。
そしてハンスに促され、コーデリアも一言断って部屋に入った。
「失礼いたします、お父様。お帰りなさいませ」
「……おまえも外出していたのか」
「はい」
ただいまなどという台詞がエルヴィスから返ってくるとは思わないが、いつもより表情が渋い気もする。まだ大人しくしていなさいということだろうかと思いつつ、コーデリアは気付かなかったことにした。
「お父様、私、今日お菓子を作りましたの。もし……甘いものがお嫌いでなければ、ご賞味いただけませんか?」
コーデリアがそういいながら箱を差し出すものの、エルヴィスに動きはなかった。後ろでハンスが小さく食器を用意する音が聞こえるのみだ。
やっぱりエルヴィスは甘いものが苦手だったのだろうかとコーデリアが思い始めた時になってようやく「……もらおう」との声がかかり、手の中から箱が消えた。紅茶の用意を済ませたハンスはコーデリアに気を使ったらしく、そのまま部屋から下がった。
そしてエルヴィスは箱からマフィンを取り出した。
「そちら、先生から……フルビア様から教えていただいたレシピですの」
「聞いたのか」
「ええ。ただ、フルビア様はお父様が違うと仰ればそれが正解だと仰っています」
コーデリアの答えに、エルヴィスは問いを続けなかった。
かわりにマフィンを口に運んだ。
「昔食べた味によく似ている。もっとも、私とて正確に覚えているわけではないだろうが」
「……お会いになるおつもりはございませんか」
「会ったところで双方に利はないだろう」
淡々とした、そして短くエルヴィスらしい回答だった。
だがそのままコーデリアは引き下がることもできなかった。
「利がないとは思えません。薬草の知識を深くお持ちの方ですし、薬草を扱う我が家としてはお話を伺うことはよいことではないでしょうか」
コーデリアはそう言葉にしつつも、頭の中では『本当はこんなことを言いたいんじゃなくて』ともどかしく思っていた。会いたくない理由があるのですか、そう尋ねたい。しかしそれを言葉にするのはためらわれる。だがその思いは態度に滲みでしまっていたらしい。
エルヴィスは短くため息をついた。
「……万が一こちらに利があったとしても、相手に利はないだろう」
「なぜそうお思いになるのですか」
「あちらがパメラディアに良い思い出などもっていると思うか?」
その言葉に特別な思いが込められていたというわけではない。
エルヴィスの声色はむしろいつもそう思っていたというような、至極当たり前のような言い方だった。表情も顔色も全く変わらない。
だが単に相手をただ気遣うだけという台詞は実にエルヴィスらしくなかった。
「あの人がここで働いていなければ、先代に会わなければ、私が生まれなければ……あの人に降りかかる苦労もなかっただろう。私も幼かったが、あの人が苦労していた姿は知っている」
「……」
「私自身があの人を苦しめた原因であれば、会うべきでもないだろう。私もあのような暮らしの人間が減れば良いと思い、力を求め、進んではきた。だが、それがあの人の特になることなど」
平坦な発音で紡がれた言葉はそこで一旦止められた。
「用はそれで終わりか」
エルヴィスはもう言うことなどないというそぶりだった。
しかしコーデリアには納得できなかった。そしてこのまま退出すれば再びこの話題を口にする機会はないだろうと感じた。
話すタイミングはいましかない。そもそもエルヴィスが並べている会わない理由に、エルヴィスの希望は含まれていない。
そう決意するなら遠慮を捨て去るしかなかった。
「……お父様は、どんな手を使っても偉くなり、人々が暮らしやすくなるようにすれば迎えにゆくとお約束なさいましたよね。まだお父様は満足されない状態であるのかもしれませんが……これからもずっとお約束を反故になさるおつもりなのですか」
「何を、」
「おばあ様は私が誰の子なのかご存じの上ではじめからお会いしてくださっていました。このお菓子を作る練習も一緒にさせていただいた。かわいがってくださっています。そして……ずっとお父様のことを心配なさっていました」
”おばあ様”の言葉にエルヴィスの瞳が少し揺れたようにコーデリアには見えた。だから速度を落とさず、コーデリアは言葉を紡いだ。
「お父様もお気になさっているからこそ、私がおばあ様に近づくことをお許しになったのではありませんか?」
「……」
「おばあ様のことを私が知っていいと思われたのも、お父様がおばあ様の存在を知って欲しかったからということもあるのではないのですか」
「……」
「出過ぎたことを申し上げていることは存じております。ですが、互いにお会いなさりたいと思っている中でのすれ違いは悲しいものではありませんか」
エルヴィスからの返答はなかったが、目は逸らされなかった。
だからコーデリアはじっとエルヴィスの目を見つめた。ただその目をみていると自分がおかしなことを言っているのではないかと思うような圧も感じられる。だが引けなかった。
例えばコーデリアのように自らが母から拒絶されている中で会うことは難しい。しかし双方が求めているなら会えない理由などないはずなのだ。
「だが、会う理由もない」
「会いたいという想いだけで理由は十分でございます。けれどどうしてもとおっしゃるなら……私が正当な理由をご用意いたします。お父様、おばあ様にお会いなさいませんか」
何を言われても明確な拒否をされなければ要求は続ける。
そのコーデリアの意志は伝わったのかどうかはわからない。
だが、やがてエルヴィスは「……あちらが拒否しないのであれば、かまわない」と、やや納得がいかない雰囲気ながらも了承の意を示した。
「ありがとうございます、お父様」
コーデリアはこれ幸いにと笑顔でエルヴィスに礼を告げ、部屋を退出したた。まずは第一関門突破である。
だが、現状では理由が作れた場合との条件付きだ。
実際のところフルビアを屋敷に招くこと自体が難しいわけでない。例えばフルビアから譲り受けたアロエベラの状況を確認して欲しいと温室に招くこともできるだろう。しかしそれだけではエルヴィスと会う口実としては弱いし、偶然を装って欲しいとエルヴィスに頼むことも難しいだろう。
(なら方法は今のところ一つかな)
そう思ったコーデリアは部屋に戻り、ヴェルノー宛に一筆したため、それを使用人に託した。内容は明日、ヴェルノーに話があるのでフラントヘイム家を訪問したいということだ。
「これでよし、と。あとはお会いするまでに私はこっちを片づけないといけないわね」
コーデリアはそう独り言をつぶやいた後、一晩書類や資料の山と格闘した。
そして翌日昼過ぎ、コーデリアはフラントヘイム家を訪ねた。
「ごきげんよう、ヴェルノー様」
「ディリィが母上ではなく俺に用があって来るなんて珍しいな。急ぎの用事か?」
「ええ。移動図書館の件の企画書をお持ちしましたので、ご覧いただきたいと思いまして」
そうしてコーデリアはヴェルノーに書き上げた書類の束を押しつけるように差し出した。
「……早いに越したことはないと思うが、思ってたよりずいぶん早いな。急いで進めていたのか?」
「ええ、いろいろありまして」
「とりあえず見てみるけど。あ、あとマフィン美味かったよ。言われなきゃディリィが作ったとは思わなかったと思う。ジルはまだ食ってないかもしれないけど」
「あら、どうして?」
若干引っかかる言葉がヴェルノーからも聞こえた気がするが、それよりジルが手を付けてないかもしれないということは気にかかる。体調不良を起こす恐れがあると判断されたのかーーそう不安に思いかけたが、ヴェルノーはあっけらかんとしていた。
「何かもったいないって言ってた」
「……もったいないってなんですか、もたいないって。腐るともったいないので食べてくださいと添えておけばよかったですね」
「ああ、全くだ」
予想外の理由にコーデリアは脱力した。
むしろそこまで大層なものじゃないので、食べる前にハードルを上げるのはやめて欲しいと思う。それなら逆に期待されていなかった状態からの「案外おいしかった」の方が気が楽だ。
「必要でしたらまた作りますので早くお召し上がりくださいとお伝えください」
「わかった伝えとく。まあ、さすがにもう食べてるとは思うし、そんな要求できないだろうけど、喜ぶだろうな」
そこまで話したところで自然と軽口の応酬は止まった。ヴェルノーは書類に目を落とし、コーデリアはその様子を静かに窺う。
「……確かに本の選定基準に貸本屋に相談するのも手かもしれないが、いわば同業者でもあるだろ。平気か?」
「客層がかぶらなければ問題ないでしょう。福祉事業に協力してほしいと伝えれば、前向きな検討も得られるかもしれません。それに、たとえば三番街の貸本屋の主人は学習塾を開くほど、子供の教育に熱心だそうですよ」
「よく知ってるな」
これは以前アイシャにちらりと聞いた話であるが、交渉してみる余地はあると思う。
「他にも参考になりそうなところもリストアップしているんだな」
「ええ。お話をお聞きできれば有益だと思います」
「……会計関連については法人格の取得、か」
「非営利組織として法人格を取得するのが一番適当かと考えました。そうなれば国が定める機関で監査を受けねばなりませんから、透明性が保てます。それに拠点ではジル様がおっしゃっていた求人情報以外にも、たとえば村の特産品を王都におく事務所で売ることもいいのではないかと思っていますの。それも事業の一環とすれば税制で優遇されますでしょう?」
普通に店舗を構えると税金は必要になるのだ。節税分はぜひとも運営費に充てたい。
コーデリアがそう言うと、ヴェルノーは「そうだな」と肩をすくめた。
「俺もだいたい同じことを考えていた。あいにく俺はまだ計画書まで書き上げていなかったけどな」
「ヴェルノー様が同じことを考えていてくださったとなれば安心ですわ」
「適当なことをいってくれるな」
そう言うとヴェルノーは書類から顔を上げた。
「ああ、言いそびれていたが、ちらりとこの件について先日殿下にもお話したよ。非常に前向きなことを仰って、賛同者を集めるのがより楽になったな」
「それは……大変ようございました」
とてもありがたいことであるのだが、やはり少々引っかからずにはいられない。ただ、言葉だけで考えれば非常に大きな助け船だということはわかる。
理解はできるのだが……何とも言い難い気持ちでもある。
そんな空気はヴェルノーにも伝わったらしいが、彼は肩をすくめる程度で珍しく深くつっこみはしなかった。
「ひとまず、一度これを素案として大人に見てもらおうか。やるなら本拠地になる場所も早めに確保したいし」
「ええ。その相談相手についてですが……」
「ああ、それなら俺はほぼパメラディア伯爵だろうと思ってるけど」
「え?」
ヴェルノーが自分の父の名をあげるとは思っていなかったコーデリアは目を丸くした。
むしろヴェルノーなら「父上に聞こうか?」くらいのことをいいそうだからだ。どう考えてもエルヴィスより侯爵のほうが子供の扱いに長けているからという理由もある。
しかしコーデリアの予想を裏切ったヴェルノーは「そんなに驚くことか?」と肩をすくめた。
「一応、俺も父上に近々相談させていただきたいと話してはいたんだ。ディリィばかりに負担をかけるのも悪いと思ってな。だが父上はまずはパメラディア伯爵に聞いてもらいなさいの一点張りだった」
「それはどうしてでしょうか?」
「なんでも伯爵が子供向けに何を考えるのか、想像もつかないから一度見てみたいそうだ」
「……楽しそうで何よりですね」
どうも侯爵は相変わらずらしい。お気の毒ですお父様……などとコーデリアは思ったが、元々エルヴィスを推したかったので渡りに船でほっとする話でもある。
「ディリィとしては問題ないか?」
「ええ。私もお父様にお話は聞いていただきたいですから、むしろ歓迎ですわ」
「そうか、ならよかった」
「ところでヴェルノー様。話が変わってしまいますが、実は魔女の先生は当初から私がパメラディア家の娘だということをご存じだったということがわかりました」
急な話題の変遷もあってだろう、コーデリアの突然の告白にヴェルノーは目を二、三度瞬かせた。しかしそれに慌てた様子はなかった。
「……まあ、ディリィの姿からじゃ予測できないこともないな」
わからなくもないという風なヴェルノーの反応にコーデリアも頷いた。
「でも知ってらっしゃるなら、せっかくですし提案の場に先生もお呼びしたいと思うんです。もちろん後々オウル以外の村の方の意見も聞くつもりではありますが」
「確かに早い段階で要望を聞いたからこそ反映できることもあるかもな。幸い彼女は王都に住んでるし……ただ伯爵の許可が下りるのか?」
「押し通します」
「えらく強気だな」
感心と呆れが混ざり合ったようなヴェルノーの反応に対しコーデリアは満面の笑みで答えた。
「いずれにせよ先生には温室も見ていただきたいと思っていますの。以前アロエベラをいただいていますし、現状を見ていただきたくもあります」
「ああ、そういうことか。それなら屋敷に招くいい理由になるんじゃないか?」
どうやら納得したらしいヴェルノーの様子を見たコーデリアは建前でも話が通ったと少しほっとした。ヴェルノーは何かと鋭いのでここで訝しがられる可能性も少しは考えていたのだ。だが、それもない。
(これなら二人を引き合わせる舞台はほとんど完成ね)
あとは小道具を揃え、当日二人のサポートに徹するのみ……そう思ったコーデリアは口角を上げた。
「……ずいぶん気合いがはいってるな」
そんなヴェルノーの多少ひきつった様子も、今のコーデリアにとってそれは些細なことだった。
++
その後コーデリアはエルヴィスとフルビアに『農村の教育に関わる事業計画について相談したい』とそれぞれ伝え、日程の調整を開始した。
フルビアはやはりエルヴィスに生じる不利益があっては困ると、一度はコーデリアの誘いを渋る様子を見せた。しかしコーデリアは粘った。あくまでも村の教育者の代表として聞いてほしいということで何とか頷いてもらった。
「でも、再会なさるとしたら五十年ぶりになるのよね。お父様も言葉が多いほうではないし、おばあ様も緊張なさっているでしょうし……」
再会が決まったことに喜びを抱きつつもコーデリアはどのような再会になるか考え、やがて腕を組んで小さくうなった。
「……何か、心が打ち解けやすいものがあればいいのが必要ね」
がちがちの状態では進む話も進まない。
リラックスをしてもらうのが一番になるのだが……そう考え、コーデリアはふと思い出した。
「そういえばお父様はレモンを懐かしい?とおっしゃっていたわ。レモンの蜂蜜がけなんて自分で作る以外に食べたことはないし……ひょっとして、おばあ様が作られていたのかしら?」
もしもそうだというなら、レモンの菓子がいいかもしれないとコーデリアは思った。確かレモンは南では多く栽培され、王都と比べて非常に安価で手に入る。
そこでまず思い浮かんだのがレモンのマフィンだが、先日マフィンの味見をしてもらったばかりで再びマフィンというのもどうだろうと悩まされる。
ほかにはレモンタルトが思い浮かんだが、さて、タルトというものは自分にも作れるのだろうかとコーデリアは首を傾げた。しかし考えていてもわからないのであれば聞く方が早い。そう思ったコーデリアは料理長に会うべく厨房へ向かった。
厨房では昼食から一段落し、数名の料理人がティータイムの菓子の用意をしていた。その中でも料理長はコーデリアを見るとにこやかに近づいた。
「お嬢様、本日はどのようなご用件で?」
「今度、お客様をお迎えするのだけど、そのときに出していただくお菓子の相談をさせてほしいの。お父様もご一緒よ」
「旦那様もですか?」
珍しい状況に料理長も目を丸くしていた。
これがエルヴィスからコーデリアが同席するといわれるならそれほど驚かなかったのだろ、逆の状況は確かに今までなかったことだ。
「お客様の嗜好はご存じですか?」
「そうね、レモンのお菓子を考えているのだけど……何か優しい味のものはないかしら?」
「それならばレモンのバターケーキはいかがでしょうか。薄力粉とアーモンドプードル、バター、それからレモン果汁で作り、アイシングを施します。上品な甘さのケーキですよ」
なるほど、確かにおいしそうな組み合わせだ。
けれどコーデリアは少しひっかかった。アーモンドプードルは小麦粉よりも少し高い。おそらく懐かしい味からは少し離れてしまうのではないかと感じてしまう。
「アーモンドプードルを使わずに作ることもできるかしら?」
「ええ、もちろん。もしそちらをご希望なら、蜂蜜とレモンをあわせたものにいたしましょうか? レモンのマーマレードを添えることも可能ですよ」
「おいしそうね。一度、明日の間食にでも試食をお願いしようかしら? それから、また私にも作らせてほしいの」
「かしこまりました、お嬢様」
これで小道具の準備もおおむね完了だ。
「……さて、大事な大事な大仕事も、うまくいくかしら?」
しかしそう呟いて、すぐにかぶりを振った。
うまくいくかどうかではなく、うまくやるのだ。しかしそうは思うものの、数日は落ち着けないんだろうなと苦笑してしまった。




