第二十七幕 建国祭の季節(3)
王都の中でも、貴族の往来もある通りにコーデリアが足を踏み入れるのは初めての事である。今までの外出はヘイル邸やフラントヘイム邸という例外を除けば職人通りや遠乗りばかりだ。当然この通りを歩くための格好はしていないなかったので、立ち寄る事はいままで一度もなかった。だから何処よりも整備された石畳の道も、華やかな装いの人々も、巨大な劇場も、行き交う上等な馬車の多さも全て始めて見るものばかりであった。
新鮮だ。思わず声を上げそうになるが、そこはぐっとこらえてコーデリアは手にしている日傘を握りしめた。日傘はクリスティーナからの土産の品であり、小さな花の刺繍が施されていた。
しかしその小さな動作に気づいたらしいクリスティーナはふわりと優しく笑った。
「コーデリア様も、この場所は初めてでいらっしゃいますか?」
「ええ。ですから私もエミーナが頼りです」
「まぁ。私と一緒ですわね。この辺りは劇場が開場する夜が一番煌びやかだと友人に聞いております。今はご婦人方に人気の恋物語が上演されているとか。いつか一緒に観劇致したいですね」
にこりと笑ったエミーナにコーデリアもそれに沿った笑い方をした。
『それはむず痒くなるから見れません』と言える訳もない。誘いを受けるのは嬉しいが、観劇後に感想を言える自分が想像できない。そんなことを考えてしまうと会話を上手く弾ませられない。
(他に、クリスティーナ様のご興味のある分野が分かればいいのだけど……)
話題に困った時は相手の得意分野について質問する。これが一番円滑に会話を行う方法であることは知っている。だが、クリスティーナの場合うまくいかなかった。馬車の中でも一応仕立て屋を回るのだからと服の話を振っては見たのだが、帰ってきた反応は優しげな笑みであり、深く続きを聞ける雰囲気ではなく……
(ひょっとしたらこの気分は『一目ぼれしたあの人に話しかけてみたいけど何を離していいかわからない!』という感じなのかしら)
もしそうであれば、一つだけ言えることがある。一目ぼれはしたくない。どうすればいいかわからない。これだけだ。親しくなりたいだけだというのに、会話の糸口はどこに転がっているというのだ。
そんなコーデリアの心中を察してか「早速ですが」と、ごく自然にエミーナが割って入った。
「まずはこちらの店舗が、クリスティーナ様がお話なされていた店でございます」
「あら、素敵なお店ね」
その店は店先に小さな花々が植えられ、上品な文字で店舗の名前が彫られたプレートが掛けられていた。
足を踏み入れた店内は白で統一され、カウンターが一つと、見本であろうドレスが数点、それから白いテーブルにデザイン画が置かれている。そしてカウンターの奥にはガラス張りの壁があり、色とりどりの布があるに工房の様子が見える。
そうして店内をぐるりと観察しているうちに、工房の中に居た人物が客の訪れに気づいた。
「大変お待たせ致しました」
中から出てきたのは二十代半ばであろう女性だった。彼女は「ドレスをお求めでしょうか?」と、クリスティーナを見て尋ねた。きっと女性には令嬢と年の離れた妹と侍女の組み合わせに見えたのだろう。クリスティーナ様は静かに、けれど優美に笑った。
「ええ。まだどのようなものか決めていないのだけれど、まずは布見本を見せていただけるかしら?色から決めたいと思っているの」
「かしこまりました」
クリスティーナの答えに、店員はカウンターの下からどっしりとした本を数冊取り出した。それらには全て小さく切った布が貼り付けられおり、その下に生地の名前と産地が記されていた。
店員はデザイン画が置かれていたテーブルにそれらを置き、デザイン画を片付けた。そして「どうぞ、ごゆるりと」と一礼する。
クリスティーナはその中から無地のものが多く貼り付けられているものを手にした。そして一ページ一ページ、真剣に目を通している。
コーデリアはその隣で、彼女が手を伸ばさなかった柄物の布見本を開いてみた。その見本には表に『(参考)インテリア用』と書かれており、無地のほかチェックや幾何学的な模様などいくつもの柄の布が張り付けられていた。素材も木綿や羊毛、麻などと様々だ。なるほど、確かにドレスには向かない布かもしれない。布見本の中には『エルディガ地方』と書かれたパメラディア領内の木綿もあり、少し嬉しくなった。
コーデリアは暫くその本を見ていたが、やがて次の本に手を伸ばす。『無地』とだけ書かれた次の本はドレスの見本用のものだったらしく、わずかな色の違いや産地の違いなど、かなり細かく書かれているものだった。
(拘ると、どこまでも拘れそうね……)
コーデリア自身色の好みはあっても、ここまで細かい違いを気したことはない。だから驚いていた。草花と一緒で、環境により多様な種類があるという事なのだろう。
コーデリアはちらっとクリスティーナを横目で見上げた。彼女は真剣に本を見、そして指先で布見本に触れている。触感も確かめているらしい。
「クリスティーナ様、職人を呼びましょうか」
エミーナの言葉にクリスティーナは顔を上げた。
「ええ。こちらの布と、こちらの布を見せてほしいとお願いして欲しいわ」
「かしこまりました。コーデリア様もご覧になりたい布はありますか?」
「いえ、私は良いわ」
見てみたいけれど、見ても買うつもりはない。沢山持っているし、身長だってまだまだ伸びてしまうはずだ。だからコーデリアはクリスティーナのみたいという布を横から見ることにした。あれだけ布に真剣になっていた彼女が選ぶ布だ。きっととても美しいのだろう。
エミーナが職人を呼び要望を伝えると、今度は先程の者ではない、熟練したように見える職人が奥から現れた。職人が持ってきたのは、滑らかに輝くような艶を持つ生地だった。
「こちら、ご要望頂きましたフローラ・シルクでございます。希少ですので、今シーズンはもうこちらのみの在庫となりますが……」
「ありがとう。少し見せていただくわ」
フローラ・シルク。それを聞いてコーデリアは驚いた。何を隠そう、それこそオルコット伯爵家が誇る国内最高のシルクなのだから。角度によりわずかに色味が変わることが特徴で別名『宝石の生地』とも呼ばれている。当然産地はオルコット伯爵の領地であるフローラ地方であるが、フローラ地方から作り出されるシルクの中でも『フローラ・シルク』は本当に一握りしか存在しない。蚕が非常に希少な種類であり、さらに熟練の技術者でなければ布に出来ないことから大量生産が出来ないのだ。王族でもない限り到底子供用のドレスに使う生地ではないので、実はコーデリアも間近で見るのは初めてである。
また、それだけ扱いの難しい生地であればドレスに仕立てるなら職人の腕もかなり問われる。もっとも、それ以前にその生産量から貴族であっても早々手に出来ない品であるのだが……
(……わざわざ店に寄らずとも、いオルコット伯爵家のご令嬢なら手に入れられるはずの品をなぜ王都で?市場調査の一環かしら?)
コーデリアは疑問を抱いたが、クリスティーナの目は全く揺れ動いていなかったので尋ねることもできない。そもそも『オルコット伯爵令嬢』という事実を伝えずにシルクを見ているのだ。職人を前に言えるはずもない。けれど、声を出さずに小さく口を動かしたクリスティーナの言葉には気づいてしまった。
『……よかった、本物だったわ』
本物?何のことだろう。
そう思いながらも、勿論口にはできない。ただ、クリスティーナがこの外出で『何か』を探している事だけは何となく確信した。
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結局一つ目の店舗では『もう少し色味を考えさせて頂きますわ』と、クリスティーナは自然な理由で断りを入れた。職人も心得たもので、『取り置きは出来かねますが、来期も仕入れられるよう努めてまいります。色味を選ばれるのでしたら、この頃が一番ございます』と、来期の入荷予定をクリスティーナに伝えていた。名乗りはしなかったが、仕草や装いで冷やかしではないことは分かるのだろう。……そもそもあそこまで熱心に生地を見て、冷やかしだと思うのも難しいかもしれない。
次の店に向かう間、コーデリアはクリスティーナの真意を尋ねようかと少し迷った。聞いても良いのだろうか。しかし、コーデリアが口を開くより先にクリスティーナがコーデリアに問いかけた。
「コーデリア様は、先程の生地をどう思われましたか?」
「フローラ・シルクですか?……初めて拝見したのですが、とても綺麗でした。平凡な言葉になってしまいますが、それ以外に表すのが難しい程に」
そう言うと、クリスティーナは嬉しそうに笑った。
「フローラの地では古来より養蚕の研究が行われておりました。今でこそ他の地域でも絹の生産は行われておりますが、フローラ・シルクを除いたとしてもシルクの品質は国内一、世界でも指折りだと信じております」
「私もフローラの絹は他国からも貴重な品といわれていると学びました。過去には他国の王がその魅力に憑りつかれ、求めずには居られず、重要な条約締結のための切り札になったこともあるとのお話も」
「重要な拠点であるとは言えなかった我らが郷の、先人の知恵にございます。多くの方に喜んで頂ける物を作りだしたその姿勢にも尊敬の念が尽きませんが、何より、土地柄による食料自給率の低さを金銀を得ることで克服したその力にも感謝の念しかございません。……ただ、金銀ではいかんともしがたいことが御座います。特に麦をはじめとした農作物が不作だった場合、余剰分がなく、充分に買い付けることが難しい事が過去に何度もございました」
そのクリスティーナの言葉の意味を理解した時、コーデリアは兄と彼女の婚約理由がそこにあることに気付いた。交易地であるパメラディアの地では上等な絹を高く売ることができる。一方フローラの地は不作の少ない土地から安定した食料を輸入するための活路が拓ける。五年ほど前には世界的な凶作があったこともある。その時、パメラディアからの支援があったのかもしれない。これは別に貴族の婚姻としては珍しくない……むしろ互いの領地に恩恵をもたらすなら、良縁と考えられる取引だろう。
(……でも、お兄様はクリスティーナ様のお気持ちを気にされている様子だった)
何か聞き出せたら、兄の懸念が払拭されるかもしれない。
そうは思うが、子供が口を出しにくい問題だ。デリケートすぎる。ただでさえも得意な話題ではないのに、
(こんなことならさっき、観劇のお話が出た時にお尋ねすればよかったわ。クリスティーナ様は、恋愛にについてどう思ってらっしゃるか、って。でもストレートに聞きにくいし……)
そうこうしているうちに、エミーナの先導で「次はあちらの店でございます」と二店舗目に到着してしまう。ああ、上手く尋ねることができなかった。今から声を出しても中途半端になってしまう。そう思いながら店に近づいていると、クリスティーナは小さく、本当に独り言のようにつぶやいた。
「だから、本当なら私には勿体ないご縁なのです」
それは、聞き間違いではなかったと思う。だが、店の戸が開くと同時に漂った鐘の音で、それを問うタイミングは完全に失われてしまった。
二店舗目は先ほどの店とは違い、所狭しとドレスが飾られている店だった。そのドレスは様々なパターンが存在するものの、単に色違いというケースも多く、さらにはタグがつけられていることからすでに引き渡される予定のある商品であることが窺える。店の形自体は先ほどの店と大きく変わらないのか、カウンターの後ろにある壁に大きくくりぬかれた窓があり、工房が見える造りになっていた。
先ほどの店と違うのは、少し恰幅の良い男性が店番としてカウンターに座っていたことだった。
「おや、お嬢様方、いらっしゃいませ」
「お邪魔致しますわ。生地を見たいのだけど、布見本はございますか?」
「もちろんありますよ!ささ、どうぞどうぞ」
笑いながら椅子を勧める店員にコーデリアは不思議とひっかかりを覚えた。何故だかは分からないが、笑顔に『にへらっ』という様子の文字が見えた気がする。ロニーのような表情ではなく、どこかとても作りものくさい。商売人なのだから笑顔を作っていても不思議ではないし、俳優でないのだからそれが意識的な表情でも仕方がないとは思う。けれど違和感が強い。何だろう。
そうして布見本を渡されている間に、今度は奥から男性と同じく恰幅の良い女性が姿を現した。彼女は「ゆっくり見てくださいな」と紅茶を出したが、その事にコーデリアは更に不安を覚えてしまう。仮にも布見本の近く、いや、完成品のドレスが並べられた場所に液体とは。ドレスを求めるような令嬢であれば紅茶は零さないという前提があるのだろうか。もちろんそれは当然求められることではあるが……。そう思いながらも布見本を見ると、その中身は前の店とは違う形でサンプルが貼り付けられていた。
(前のお店は値段の表記もなかったけれど……ここは『特価』や『お買い得』という文字まで入るのね)
先ほどの店が上品な店であれば、こちらは割安感を売りにしているのかもしれない。
一口に貴族といっても資産の差は大きい。そう思えば出された紅茶も下町のように親しみを込めているような気もしなくはない。そうは思ったが、暫くページをめくっていると不意に手が止まった。
『フローラ・シルク(応相談)』
その文字にコーデリアは疑問を抱いた。フローラ・シルクがある?この店に?
安さを売りにする店に存在する布だとは思えず、コーデリアはまじまじとその文字を見つめた。値段の記載も何もないので、裕福な層を考えているのかもしれない。しかし失礼ではあるが、フローラ・シルクを求める層がこの店の客層と合うとは思えない。
「そちらのお嬢様はフローラ・シルクに興味があるのかな?」
男性の店員に話しかけられ、コーデリアは顔を上げた。まじまじと見ていたからだろう。コーデリアはここで答えに迷った。興味は、ある。けれど不要な事は言いたくなく、黙って頷くにとどめた。男は気分が良さそうだった。
「子供用のドレスはこれでは仕立てられないけれど、お姉さんの方なら相談させてもらえますねぇ」
そう言いながら視線はクリスティーナに移る。クリスティーナも同じ頁を見ていたらしく、その指先は布地に触れていた。
「まぁ、私ですか?」
「お嬢様は夜会にも出られるのでしょう?どうです、値は張りますが、輝きは一級品ですよ」
「そうですよ、やはり綺麗な女性は綺麗に着飾ってこそですよ!」
得意げに売り込む男に便乗する女、二人にクリスティーナは困ったように眉を下げつつ、「では、よければ生地をお見せいただけるかしら」と答えていた。二人は笑顔で奥に引っ込んだ。対照的にクリスティーナは不安そうに布見本を見ていた。それは『大人しい令嬢が強引な押し売りに遭った』というよりは別の不安を抱いている様に見えた。
やがて、奥から二人が四色程の布を抱えてやって来た。
「どうですか、こちらの色、艶、手触り。どれをとっても一般的な絹とは別物でしょう?」
「こちらの布は全て見本でして……当店にもなかなか入って来ませんから、納期はかかってしまいますが、来年までにということでしたらこの価格で確保できますよ。当店は他店のような天狗の商売は致しません、買い得ですよ?もちろん、デザインは布の確保が確定出来てからで構いません!」
ぐいぐいと押しの強い男女は、クリスティーナに強く売り込みを仕掛ける。
(そんな事を言わずともオルコット伯爵令嬢は貴方方よりそのシルクについては詳しいんですけどね)
もちろんそのことを知らない男女が売り込むのは大変結構なことだと思うが、いかんせんその商品は安さを売りにしている商品ではない。安さを押し出すなら量販品だ。他店のフローラ・シルクが高いと嘆くような言い方ではクリスティーナは気分を害してしまうかもしれない。コーデリアが窺うように視線をやると、彼女は悩んでいる様子だった。そして口を開いた。
「お父様に、できれば一着すぐ仕立てるように言われているのです。けれど、もう一着なら相談させていただけるかもしれないわ。今すぐお返事、ということでなくとも平気かしら?」
意外な答えにコーデリアは思わず目を瞬かせそうになった。かわりに心の中で首を傾ける。けれど店員達は何も疑問を持たなかったらしい。彼らは満面の笑みを浮かべ『やはりお嬢様もご紹介だったのですね』と言っていた。……ご紹介?
「可能であれば、ざっとお見積もりを聞きたいのだけれど……」
「少々お待ち下さいませ!」
慌ただしく記されたドレスの見積もりは『高いけど、頑張れば何とか手が届く値段』であった。そしてそれを以て商談は終わった。
三店舗目へと向かい歩きはじめ、店が見えなくなった頃、コーデリアはようやく口を開いた。
「……クリスティーナ様、さっきのお店、少し……妙でしたわね?」
「コーデリア様は、やはり気づかれたのですね」
「やはり?」
「サイラス様からお伺いいたしております。とても、ご聡明だと」
お転婆をしないようにと釘を刺した兄にどう褒められたのか非常に気になるところだが、余計なことを言ってしまわないよう「それは少々大袈裟過ぎますわ」と曖昧に誤魔化した。だがクリスティーナはそれさえ微笑ましいとばかりの様子だった。
しかしその表情はすぐにすっと顔から消えた。
「コーデリア様、お願いがございます」
「いかがなさいましたか?」
「今日の予定が全て終わりましたら、お話させていただきます。それまで、私に合わせていただくことは可能でしょうか?」
眉を少し下げる表情は不安も混じっているが、引く様子を感じさせない。
何の話になるのか?それはコーデリアの知りたいことなのだろう。だがそれを話すと約束してもらう以前に、コーデリアには断る理由などないのだが。
「私は今日はクリスティーナとお話がしたくてやって来ているのですわ。クリスティーナ様の邪魔をするようなことは致しません」
にっこりと応えたコーデリアに、クリスティーナは安堵の息をこぼしていた。
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結局、クリスティーナの目標としていた八店舗を回り切ることはできなかった。
三店舗目が二店目からかなり離れていたことが主な原因だ。それでも弱音など吐かなかったが、四店舗を回ったところで、クリスティーナの足に限界が訪れた。それは単に今日歩き過ぎたという訳では無く、建国祭のフィナーレでもある舞踏会で少々踊りすぎた故の筋肉痛が未だ治りきっていことが原因だった。
「領地での宴ではせいぜい一、二曲しか踊りませんでしたの。ですが、こちらではそうもいかなくて……もう少し鍛えなくてはいけませんね」
そうして恥ずかしそうにクリスティーナは自身の足の調子を短く言った。
四店舗目を回った後、喫茶を予定していた店で菓子を購入したクリスティーナに、コーデリアはエミーナはオルコット邸へと招かれた。菓子は濃厚なチョコレートのムースで、層が三つに分かれていた。三層とも口当たりが異なり、ほのかに香る洋酒が絶妙だった。
「クリスティーナ様は踊りがお好きではないのですか?」
「幼い頃は苦手でしたが、踊ること自体は嫌いではないのです。ただ……少し、恥かしくて。どうしても距離が近くなるでしょう?」
頬を少し赤らめるクリスティーナに、コーデリアも無意識に釣られた。ダンスはそう言うものだとは分かっている。だがそういう表情をされると気恥ずかしさは込み上げてくるのだ。恐らく脳裏に残る前世の『普通』が呼び起こされたのが原因だろう。普通あんな密着なんて起こらない。そんな意識が引きずられそうになったコーデリアは慌ててその意識を振り切った。これは必要な情報ではない。クリスティーナの気持ちが分かるのは嬉しいことだが、この意識を戻してしまえば自分まで踊れなくなってしまうかもしれない。せっかく練習してそれなりに上手に踊れるようになったのに、それは困る。困るのだ。
そうして意識を振り払おうとするコーデリアに、クリスティーナは続けた。
「私、ダンスを習い始めたばかりの頃はレッスンが苦痛で苦痛で仕方がありませんでしたの。ついには拗ねてしまった私に先生はお手上げでしたわ。ですが、そんな先生に代わってサイラス様がお相手をしてくださったこともありました」
「あら、お兄様が?」
「私がサイラス様のいう事なら聞くことを、先生はご存じだったのでしょうね。昔は今よりずっと喋る事が下手でしたが、サイラス様はそんな私に呆れることなく、いつも肯定してくださいました」
その言葉には『むしろ兄もあまり喋らないので、否定するとは思わない』と感じたが、恐らくそう言う意味ではないことが何となく感じられたので、コーデリアは何も言わなかった。しかしこの流れで一つのことには気付けた。
(お兄様、御懸念は必要はないようですよ)
クリスティーナの様子を見る限り、兄が呟いていた言葉……クリスティーナが婚姻をどう思っているかという事に対し、後ろ向きな雰囲気は見当たらない。兄も彼女を気遣っている辺り悪い印象は抱いて居ないのだろうから、平和な夫婦にきっとなるのだろう――なんてコーデリアが思ったのもつかの間、クリスティーナはコーデリアの思っていなかったことを口にした。
「だから申し訳ないのです。サイラス様なら、本当は私よりもっと相応しいご令嬢がいらっしゃるのでは、と」
コーデリアはぴしりと固まった。
「クリスティーナ様?」
「サイラス様が素敵な方であることは広く知られています。若くして副隊長になられた騎士としての腕も、冷静沈着なご判断も。比べて私は、誇れるものが何もありません。私もサイラス様の妻になっても恥ずかしくないよう、教養は身に付けたつもりです。けれど、それ以上のものが何もないのです」
クリスティーナの言い切る様子にコーデリアは戸惑った。
励ます、慰める、考えを否定する。そんな選択肢は浮かび上がってすぐ消えた。言葉が出せない。そんな事は無いと言った所で、クリスティーナのことをよく知らないのだ。そんな中で発した言葉が彼女に響くわけがない。『例えばどこが』と例示できない、いわば上っ面の言葉になってしまう。それに表情が読みづらい兄の気持ちも良く分からないので、軽々しい言葉は安易に口にできない。
しかしそもそもクリスティーナは答えを求めていなかった。
彼女はか細くも芯のある声で静かに言葉を続けた。
「だから――たった一つでも、成し遂げたいのです。私の力で、どこまで通用するのかは分かりませんが……私は、私たちの誇りを守りたい。偽物のフローラ・シルクが何故王都に出回っているのか、という事を」




