第二十三幕 小さな星空
突然気配無く現れた友人にコーデリアは呆然とし、思わず尋ねてしまった……が、彼の姿を見て再び言葉を失った。声でジルであることはわかった。だが、その姿はどういうことだ。
「……狐のお面?」
この世界でその面は見たことが無い。しかし白く、目元に赤い縁取りがある狐の被り物に見覚えはある。少し記憶にあるものとは違う気もするが、イメージはかなり近い。しかしこの国の物ではないだろう。あまりにこの国の文化と雰囲気が違う。それでは何故そんなものをジルが被っているのだろうか?
コーデリアが驚いたのはそれだけではない。確かに面にも驚いたが、しかしそれももう一つの驚きに比べれば面など些細な事のように思われる。本当に驚いたのは、今日の彼には一切気配が感じられないことだ。こうして相手を視覚では認識しているのに、気を抜けば見失いそうな……それ程気配が感じられないのだ。いつもならヴェルノーの魔力の気配を纏っているというのに、その気配すら感じ取れない。
面の下でジルがどういう表情を浮かべているのかは覗えない。
けれど肩が少し揺れたことから笑いをこらえているだろうことはわかった。笑っている場合なのか。いや、笑っている場合ではないはずだ。
「……不法侵入ですわよ、ジル様」
そう、突然の登場も、狐のお面も、気配がない事も、どうして二階なのにあっさりあらわれているのかという事も……何もかも置いておくとしても、まずはそこから問題なのだ。呆れたコーデリアの言葉に彼はゆっくりと面を外した。
「一応無断で敷地に入った訳では無いんだよ。家からの使いで、ヘイル伯爵へ届け物をしに来たからね。まだ帰って無いだけだよ」
「それは時間で言えばどれくらい前のことでしょう?」
「ちょっと秘密かな」
軽く誤魔化そうとしているジルの様子から、コーデリアは例え屋敷に入る許可は得ていても既に去ったものとして扱われているのだろうと想像した。そしてそれでは無断侵入も同然だろうということも。若干胡散臭そうに見るコーデリアに、ジルは少々早口で言葉を加えた。
「ディリィがこの屋敷にいるのはヴェルノーに聞いていたんだ。用を済ませたらすぐ帰るつもりだよ」
「そうですか……と、納得できるとお思いですか?そもそもここの部屋だと分かったのかが不思議ですわ」
この屋敷は広い。例え屋敷にいることが分かっても簡単に見つける事は叶わないだろう。
だがジルはその質問にもあっさり答えた。
「それは難しくないよ。ディリィの魔力は森によく似ているから、辿りやすい」
「……え?」
「私は一度で会ったことのある相手なら……そうだね。相手が気配を隠していない限り、この屋敷の範囲くらいなら多分わかるよ。気配を消されしまうと何となく違和感を覚える程度だけどね」
ジルはしれっと言ったが、その内容はコーデリアには驚くべきものである。
対象範囲があまりに広い。この範囲をたった一人で把握してしまうだけの能力は……無論魔力の消費も高いのだろうが……年齢からは考えられない技である。いや、大人でもこの国で一体何人がそんな技を行使できるだろうか?
「……随分、高度な技術ですね」
「屋敷を抜け出すのに必要なことだから、磨かざるを得なかったんだ。誰にも会わないようにしなければ抜け出せないから、人の気配には敏感だよ」
「ああ……それで気配を消すのも得意なのですね」
とても驚いてしまった直後だが、ジルの理由を聞くと余りにも年相応すぎて逆に納得してしまった。人間欲には素直になるものだ……と納得するには少々規模が大きい気もするが、その目的ならばと妙に納得できてしまう。何せジルと出会ったのも街中だったのだから。
「それで、その随分変わったお面は?」
「最近我が家に、非常に目が良い人材が雇われてしまってね。今までと違って気配を消しても見つかりかねないから、抜け出す時は万が一の保険だと思って被ってる。私がこの面を私が持っていることを、彼はまだ知らないからね」
「……そんなものを被れば余計目立つと思いますが」
「それが案外目立たないんだよ。気配を消している時に限るけどね。この面自体が彼の認識の中に無いものだから、こちらが気づいて欲しいと語り掛けない限り、基本的には透明のように映るらしい」
初めてこの面をつけ気配を消してヴェルノーに会った時、そう言われたよ。
そうジルは悪戯っぽく笑った。初めて会った時、まるでお忍びを理解していない様子だったのが嘘のようだ。もうあれから四年になるといえ、普通より随分抜け出すのが上手くなっているらしい。
「……して、そのお面はどちらで手に入れられたのです?」
「これは市だよ」
「市?」
「もうすぐ行われる建国祭に併せて王都にキャラバンが来ている。珍しいものが多くてね。これを買ってしまったんだ」
その言葉にコーデリアは驚いた。王都へやってくるキャラバン。
もちろんそれを今まで聞いたことが無いと言う訳では無い。建国祭に併せてやってくるのはキャラバンだけではなく、劇団や語り部、大道芸人と芸術を磨く者達も多い事も知っている。だからそれに伴って一般の旅行客も急激に増える。そしてこの時期になると屋敷の使用人達がどこか浮つく事も知っている。
しかし人の出入りが多くなるこの時期は何時もにまして父や兄達が忙しそうだ。だから迷惑や心配をかけぬよう、今までコーデリアは建国祭の期間は普段と同じように、むしろ遠乗りをしないなど常より大人しく過ごしていた。
もちろんキャラバンを含む祭りに興味が無かったと言う訳ではない。ただ、キャラバンについては領内視察で見た多種多様な品物で溢れる市を思い浮かべ、王都で行けずとも領内視察で見て回れると自分に言い聞かせていた所もある。大きな交易の道が交差する所なのだから、比較的距離の近い王都でも品揃えが大きく変わることも無いだろう……等と思っていた節も有る。
けれど現実はどうだ。全く、見たことが無い物をジルは手にしている。
やはり王都はそれだけ人の集まりの規模が違うと言う事なのだろう。
しかしその事実を知ったとはいえ、コーデリアが今年はキャラバンを覗いてみる……ということは出来ないだろう。父や兄に「社会見学のお願い」をすれば叶えてくれるだろうということは分かっている。特にコーデリアの為になることならば、エルヴィスはいつも最善を示そうとしてくれる。だが一年で一番気が張っているだろうこの時期にお願いするのは流石にコーデリアも気が引ける。
(大人になったら、見ることができる世界がもっと広がるのかしら)
そう思うと早く大人になりたい気もするが、もう少し子供として研究に熱中していたいという背反する気持ちもある。
大人になり行動の幅を利かせる事ができるようになるということは、同時に自身の行動に責任が増すと言う事になる。今でも無責任な行動を行っているつもりはない。だが自ら決断せず、判断を仰いでいる事は多々ある。殆どの事柄に於いて責任の所在は未だ自分には無い。常に保護者が側にいる。そう考えると今の状況は有り難く、安心でき、けれどもどかしく、申し訳なく感じた。
そんなコーデリアのぐるぐると回る感情とは別に、堂々と一人で冒険しているジルが――もしかしたらヴェルノーもかもしれないが、何れにしても子供だけという状況に変わりは無い――少しだけずるく見えてしまった。
「ジル様はお忙しいとお聞きしておりましたのですが、案外羽を伸ばされているのですね」
ジルに八つ当たりをするのはお角違いも甚だしいのだが、つい悪態をついてしまう。それにはジルは忙しい様子である聞いていたのに、という思いも交じっている。
そんなコーデリアの様子にジルは少々眉を下げ苦笑するも、一つ咳払いをすると「本題なんだけど」と、改めて切り出した。
「ディリィは夜に外出するのは難しいって聞いたから。それならこれを……と思って。持ってきたんだ。どうしても見せたくてね」
そうして足元から抱えた鉢には肘から指先ほどの背丈の小ぶりな木が植わっていた。
木は白い小さな花を付けている。コーデリアにはこの花に見覚えがあった。
「ジャスミン……?」
「ああ、やっぱり知っていたんだ」
「知っていたけど、どうしても見つけられなかったのです。文献にも生息地域の記載は無く……ジル様は、これをどこで?」
「星降る丘。静かで綺麗な光景だから、ディリィにも見せたいんだけどね」
なるほど、ジルはただ星を見せたかっただけではなく、この花も一緒に見せたかったらしい。行けるとは思わなかったが、星だけでも充分魅力的な誘いだった。そんな上でこの花を見れば現地への思いはより強くなる。行きたい。星と花、その両方を眺めてみたい。そして出来ればもう少し多量の株も持ち帰りたい。
ジャスミンもバラと同じく採油率の少ない花だ。故にその精油は非常に高価になる。
ジャスミンは精油で香りを楽しむことはもちろん、スキンケアや筋肉痛やリウマチ痛を緩和する湿布剤にも使用できる。
一株では精油を採取することなど不可能だろう。けれど一株でもジルが届けてくれたこの花に喜びは隠せない。どうしよう。何から考えよう。いや、考えるまでもない。まずは株を増やす所からだ。相当な量がなければ精油の採取なんて出来はしない。けれど、増やすとしてもどこに増やそう?温室はほぼいっぱいだ。この一株くらいなら全く問題は無いが、増やしていくならどこにしよう。コーデリアは鉢を抱きかかえながら気付けば思考の海へと旅立ちかけていた。
そんなコーデリアをジルは満足そうに見て、笑った。
「実は今日はそれだけじゃなくて……これも、持ってきたんだ。この国では冬を越すことは難しいそうなんだけど、ディリィの使っている温室の技術を生かせばで育てられるんじゃないかと思って」
「……アロエベラ!?」
「君は本当に植物に詳しいね」
驚き目を丸くするコーデリアにジルは少しおかしそうに笑った。
けれどそんな事を気にしていられないくらい、アロエの入手はコーデリアにとって一大事だ。アロエは葉を切り開いてジェルとして火傷の治癒に使えるだけではなく、ジェルをかき集めて弱火にかければローション剤にも変化する。もちろんこのローション剤は先程のジャスミンとの相性も良い。
「これはキャラバンで、でしょうか?冬が越せないんですもの、この国のものではないですよね?キャラバンにはこんな素敵なものも売っているのですか?」
「いや、これはキャラバンではないんだ。この草の効用を知り、かなり苦労して個人的に輸入したという研究者がいるんだけど……気温と魔力のバランスのせいか、そのほとんどが枯れてしまってね。元はたくさん入手したそうなんだけど、これが最後の一鉢で……全部枯れてしまうのは可哀そうだからと言ってらしたんだ」
「……もしかして、ジル様は薬草の研究者とお知り合いなのですか?」
「うん。意外かな?」
「ええ」
コーデリアは悪戯っ子のような表情のジルに素直に頷いた。
薬草は一般的な教養分野では無い。薬剤師や医者を目指すなら分からなくもないが、ジルがそのような話をしていた事は手紙でも無い。だから純粋に驚いた。
「知り合えたのは本当に偶然だったんだけど、なかなか面白い人でね。勝手に先生と呼ばせてもらって時折御指導を賜っているよ」
「ジル様、その方は……」
「本名は私も知らないけれど、緑の魔女と名乗ってらっしゃる。王都にお住まいだ」
「………」
「わかってる。ディリィも会ってみたいんでしょう?」
ジルの言葉にコーデリアは少し肩を跳ねさせた。図星だ。ド真ん中と言っても良い。
しかし興味故に友人の師に会いたいと願い出る事は変ではないかと躊躇もする。図々しくはないか。けれどアロエベラに興味を抱くような研究家だ。他にもコーデリアが興味を抱くような薬草や香り高いハーブも知っているかもしれない。そうであれば間違いなく化粧品改良の役に立つ。けれど基本的に研究者は自分の研究に勤しみたいことが多い。邪魔になっては困る……というより、腹を立てられては話をすることも難しいだろう。
そんな風にコーデリアの若干の躊躇いにジルもやはり気がついたらしい。
「先生もアロエベラを欲しがりそうな少女に会いたいと仰っていた。ディリィの都合がつくようなら、案内するよ。昼間なら……そうだな、ヴェルノーに用件があるといって家を出る事も可能なんだろう?」
「それは……けれど、ジル様はお忙しいでしょう?ヴェルノー様が以前に仰っていました」
「大丈夫。抜け出せない日もあるけど、しっかりとやることをやっていればそう難しくは無いと思うんだ。それに、屋敷の中だけじゃ私も息が詰まるし、頭が固くなってしまう」
それでもこっそり抜け出す事になるけれど。そう続けながらもジルは小さく笑った。
コーデリアはそれを聞いて再び悩む。ジルの言う通り、全く無理ではないと思う。建国祭の時期を過ぎればヴェルノーの家に行く事は出来る。むしろ単独ではないとはいえ、今や王都の外に出る事すら許可が出るのだ。余程特殊な場所でない限り、王都の中で許可が出ない訳がないと思う。
だが、だ。それもあくまで一人ではない。
「……ジル様は、ロニーが一緒でも大丈夫でしょうか?」
「ロニー?」
「ええ。我が家の魔術師です。私の研究の手伝いもしてくれています。そして、私の護衛も担ってくれています」
コーデリアが外出する際に一番気を遣わなくていい護衛は間違いなくロニーだ。
彼は融通が利く。きっとロニーも研究者と会うとなれば面白がるだろう。しかしそれはコーデリア側から見たロニーへの感想だ。ジルが同じ感想を抱くとは限らない。それどころか人に姿を見られたくないだろうジルからすればロニーがどんな存在であっても変わらないかもしれない。ジルはわざわざ偽名で、しかもヴェルノーに協力を仰ぎ姿を変えている。例え仮の姿であっても他人に姿をさらすのは抵抗があるかもしれない。
ジルは一瞬眉間に皺を寄せ、けれどすぐにふっと肩の力を抜いた。
「構わないよ。ディリィの選ぶ人なら問題もないだろうし」
「……無理はなさらなくてもいいんですよ?」
「いや、いいよ。困ることも無いし」
ならば先ほどの難しい顔はなんだったんだと思うが「本当に気にしないでいいよ」と念押す辺り、むしろこのまま断るほうがかえって気を遣わせてしまうのではないかとも感じられる。
「……本当に、よろしいのですね?」
「もちろん」
「では、建国祭が終わればお願いいたします」
「ああ。じゃあ、本日最後の用件を。残念かもしれないけど、最後のこれは草花じゃないんだ。私の工作を見てもらおうと思って」
そういってジルが見せたのは手のひらに乗るくらいの黒い箱だった。
なんだろうとコーデリアは疑問に思いつつまじまじと見つめる。
「これは?」
見る限り、箱だ。もう少しいうなら、固そうな箱だ。金属製なのかもしれない。
けれど用途は全く分からない。コーデリアは箱とジルの交互に視線を送る。
「…………」
「ジル様?」
「ディリィ、ごめん。今、大変な計画不足が露呈した」
「え?」
計画?その箱とどういう関係が?
そうコーデリアが頭に疑問符を浮かべている間にもジルは気まずそうに口を開いた。
「これ、ちょっと室内じゃないと起動できないんだけど……その」
その曖昧な言葉にコーデリアは納得した。
なるほど、それは何かの機械らしい。そして陽が落ちた後のこの時間、小さな紳士は小さな淑女の部屋に入ることに躊躇を覚えるらしい。そのようにしっかりした意識を持っているのに、うっかりと部屋に入らねば意味がないものを持つあたり可愛らしい。一拍置いてコーデリアは小さく笑った。
「私は気にしませんよ。……無論、ヘイル伯爵に知られると宜しくないと思いますが」
もとよりそのような事を気にするジルならば困るようなことは起こらないだろう。
だからコーデリアはそうジルに言った。ジルも家の使いとしてヘイル伯爵に会ったという。恐らく家としても交流があるのだろう。ヘイル伯爵が困るようなこともしない……と思う。もっとも、現在ここに留まっていることがすでにヘイル伯爵にとって困ることである可能性もあるのだが。
「今度はもっとしっかり考えるよ」
部屋に入ったジルは、それでも遠慮しているのだろう。部屋の中央と言うよりはずっと窓際の床に黒い箱を置いた。そして箱の内部を操作する。
箱からはゆるやかな明りが零れた。
「これは、ランプですか?」
「ランプではないんだけど……ちょっとカーテンを閉めるね。部屋の明かりも落としてもらっても……大丈夫かな?」
「ええ。問題ございませんわ」
明かりを落としてもランプが輝いているなら問題ない。コーデリアの返事を聞いたジルはカーテンを引いた。コーデリアも部屋の明かりを落とす。すると箱から洩れる暖かな光がより強調された。ゆらゆらと揺らめく明かりは蝋燭のようだった。
これから何が起こるのだろうとコーデリアはジルを見た。心なしかジルの表情は硬い。先程彼が小さく口にした通り緊張しているのだろう。そして彼は目を瞑り、箱の正面に立ち、両手を重ね合わせ小さく呟いた。
「光の雫、舞い上がれ」
ジルの言葉に誘われるように、零れていた光は水飛沫のように箱から飛び出す。
コーデリアは目を丸くした。驚いた。綺麗だった。光に目を奪われている事に気づけないほど、その光は美しかった。コーデリアは思わず膝をつき、箱に誘われるかのように近づいた。その間にも眩しく優しい光は溢れ続けていた。
どれくらい光が続いていたのか、コーデリアには良く分からない。
けれど最後は線香花火のように落ち着いた光になり、箱から零れていた光は消えてしまった。けれど光が消えてしまったというのに暗闇は訪れない。いや、室内は確かに暗い。けれどカーテンを閉めてしまっている部屋だというのに、箱の存在が目視できる程度に光があるのだ。月明かりが入り込んでいるならともかく、閉め切った部屋では有り得ないことだ。コーデリアは不思議に思い顔を上げると、淡い光を輪郭に受けるジルと目が合った。そしてその後ろに輝く多くの光に気がついた。
彼の後ろだけではない。部屋のあちこちにその光は浮かび上がっている。
「……お星様、ですか?」
「そう。連れていけないって思ったから、作って来た。今の季節の、真夜中の空だよ」
少し照れくさそうに言うジルは早口で「その箱には星の位置関係を記憶させているんだ」と小さく言った。星は本当に遠近感を感じられるもので、到底届かないところで輝いているように見える。
「ジル様はこれを工作と仰いましたよね」
「うん。ディリィに見て貰いたかったから」
「……これは工作では無く、魔法道具の作成でございますよね……?」
「そんな大したことじゃないよ。本物の役立つ魔道具に比べたら子供だましのオモチャだし、楽しいことだから集中できただけだし」
「大したことが無い訳がございません。私はこの様な仕掛けを聞いたことも、思い付いたことも有りませんから」
魔法道具の作成は制御が難しく、新しいものは殆ど作られない。
それどころか既製品すら複製が難しいのが現状だ。その状況から新しいものを創造するのは並大抵のことではない。ジルは生活用品では無いという意味でオモチャと言ったのかもしれないが、それは違う。そんなことで作成の難易度が変わる訳がない。楽しいと言っても難しく、嫌になったこともあるのではないか。しかしそれでも完成させたというのなら、よほどの想いがあったのだろう。コーデリアの言葉にジルは少し眉を下げた。やや照れた表情に見えた。
「星は、ずっとこの世界の事を見てきているから。だから星を見ていると、そんな星達に恥ずかしくないように生きなければならないと思えるんだ。そうすれば……」
「どうされました?」
「……いや。これは言うのはやめとく」
暫く考えたようだが、軽く首を横に振ったジルにコーデリアは首を傾けた。
「内緒ですの?」
「内緒だな。少なくとも今はね」
「では、わかりましたわ……と、言いたくはないですが、分かりましたわ。でも、その代わり星の事を教えてくださいな。せっかくこの様に綺麗な星空を見れているのですもの」
無理に聞き出そうとまでは思わない……というより、無理に聞き出そうとしても今の彼のからは聞き出せる気がしない。穏やかなジルだが、譲れない所には妥協がないような気がしている。お忍びのために高度な技を習得するくらいだ。とくに研究者気質なら余計にそうだろう。
それに今はといっているのだから、そのうち気が向いたら教えてくれるかもしれない。ならば今は先に手が届着そうなところで輝く星々の話を聞いてみたい。
ジルは目を瞬かせた後「いいよ」と目を細め空を指差した。
「そうだね……じゃあ、いくつか。西の空に浮かぶ赤い星と、東の空に浮かぶ青い星。対になっているように見えるだろう?双子星と呼ばれ両方ともとても美しい女神が住むと言われているんだけど、どちが姉かと何時も言い争っているらしい」
「何ですか、それは」
「きっと仲が良いんだろうね。仲が悪いならそのような言い争いもしないだろう」
「確かにそうかもしれませんわね」
導入にしてはいたく拍子抜けする星の話だなと思いつつ、コーデリアは続くジルの話に耳を傾ける。
「その赤星の傍にあるのは大鷲座。大鷲は目の前の砂魚座を狙ってるんだ。砂魚を捕まえたら、赤星に捧げて求婚すると宣言している」
そう言いながらジルは指を宙に滑らせる。
すると星と星が光の線で繋がれ、星座が分かりやすく彩れれた。
「砂魚座は大鷲座よりも大きくありませんか?捕まえるのは大変そうですね」
「本当にね。でも本物の大鷲は嘴が鋭い。だからきっと捕まえられるんじゃないかな」
ふっとジルが指揮棒のように指を握るうと星を繋いでいた線は消える。
ジルはそこで少し考えるように星を見回し、そして「次はあれ」と再び星を光で結ぶ。
「南の空に浮かぶ海神星は唯一地上に降り立ったことのある空の神が住まいだよ。海を好み、海を作ろうと空の星達に呼びかけたと言われている。そして出来たのが明るい天の道……星々の川だ。多くの神々はそのことに喜んだんだけど、川が出来たせいで大鷲は砂魚を捕りにくくなったと言い、海神を大層恨んでいるらしいよ」
「あら……空の世界も、世のバランスは難しいのですね」
「そうだね。多くの人に喜ばれても誰からも受け入れられるということ等、きっとこの世に存在しない。けれど、だからこそ……歩み寄れる可能性を海神も探したと思うんだ。円満に解決できない事であっても、その為の可能性を探すことは決して無駄ではないと思うし、海神は深慮深くもあるそうだから。……まあ、結果はいがみ合ってるという様子だけど」
そう言いながらジルは苦笑しながら部屋の中の星空を見上げていた。
彼の顔からは部屋に入ったばかりの頃の緊張など消え去ってしまっていた。ただ生き生きとした目を空に向けている。
コーデリアはぽつりと呟いた。
「ジル様は本当に星が好きなのですね」
ジルはその言葉に微笑えみで返した。そして再び小さな空を見上げ、軽やかに手を舞わせた。
「最後にもう一つ。私が一番好きな星を紹介するよ。空の中央よりやや北にある星は獅子の瞳と呼ばれ、天上の王、獅子王座の中央になる。そして夜間、全ての人に方角を教えてくれる。獅子王座は……こうかな。そしてこの近くに、とても似た星の並びがあるんだ。獅子王座より一回り小さい……獅子王の子とされる、若獅子の星座だよ。ディリィも知っていると思うけど、この国の若手騎士の所属部隊と同じ名前だね」
そう言うと今まで立っていたジルは片膝を折り、敬意を表すように空を見上げる。
「若獅子は父王に憧れている。そして尊敬される父を敬い、自分も正しい行いを続けていればいつかは父と全く同じ王になれると信じていた。けれど若獅子の視野は狭かった。正論は言えるが、それしかない。自らが想像する父の虚像を追うだけの幼子だ。だからともすれば愚鈍な王になりかねない状況だった。そんな若獅子を止めたのは若獅子のちょうど前にある星」
「前にある……あの、小さな星ですか?」
「そう。小さいけど凄く強い輝きだろう?あれは導きの巫と呼ばれる星だ。巫は若獅子に『獅子王のようになりたければ、獅子王のように人を引き付ける力をつけてからでなければならない。あなたにはまだその魅力がない』と言ったんだ」
「凄く……はっきりとものを言う巫なのですね」
「素敵だろう?私はこの話がとても好きなんだ。身を引き締めなければと思うしね」
肩の力を抜くように、ジルはそのまま腰を下ろした。そしてそのまま天に手を伸ばす。当然その手が光に届くことは無く、ただ星明りに照らされるだけだ。
「あまり……」
「うん?」
「あまり、背伸びしないでくださいませ」
話している時間は決して長くない。それでも前回会った時に比べ話しが出来る今日、ジルが年相応という域からやや抜け出そうとしている様に感じられた。もう四年も前のことになるのに、あの日、少女の前に飛び出して行ったジルがコーデリアの中には一番印象が強いままだった。だから物腰が丁寧で正義感の強い、しかしちょっと単細胞な少年という印象があったのだが……やけに静かな印象も併せ持つようになったと感じた。そう、大人になることをまるで急いでいるようにすら感じられた。
「どうして?」
コーデリアの言葉が意外だったのだろう。首を傾けるジルに、コーデリアは少しだけ迷ったが、まっすぐに言った。
「余りに早く物事を理解し納得してしまう大人になられては、寂しいではありませんか。こうしてお会いできる機会もなくなってしまいますし、”あの時”のジル様も格好良かったですわ。きっとあれは、子供にしかできない事でした。だから急がないでくださいませ」
すこし冗談まがいの言葉だが、そのほとんどは本心だ。もちろん自分でも大人になりたいと思うことが無いわけではないのに、ジルにだけそう言うのは狡いように感じもする。けれどせっかくこのように久々に会えたのだ。もしもジルがこのまま大人らしい道を歩むというのであれば、こうして会えることも無くなるだろう。それに幼いころにも手紙に書いたが、あの時のジルは確かに格好良かった。やはり賢い選択ではなかったと思うが、自らの危険より誰かを守ろうとするその姿は決して格好が悪いものではない。むしろ格好が付きすぎる。それが急ぎの成長で失われるとすれば、少し寂しい気もしてしまう。
しかし妙な沈黙が生まれ、発言は失敗だったかなとコーデリアは思った。冗談です、と、言ってしまえば空気は戻るだろうか。そう思いながら言葉を探していると、ジルが小さく呟いた。
「嬉しいと、思ってもらえているのか?」
「え?」
「いや、そうなら……と……」
少し顔が赤くなっているのは、単に光の加減だろうか。ジルの声は尋ねたというよりは零れたという方が近いようで、彼は口元を手で覆ってしまった。もごもごと、今までになくはっきりとしない様子である。そして何より、何を言っているのかコーデリアには聞こえない。
「申し訳ございません、少し聞こえにくく……何を仰いました?」
「いや、なんでもない。そろそろ帰らないといけないけないや。また、会おう。連絡する」
「ええ?ええ。ありがとうございます」
いそいそと立ち上がったジルに続き、コーデリアもゆっくりと立ち上がった。ジルの真後ろはもう窓だ。見送るというほどの距離でもない。だがジルの足が一歩バルコニーに出たところでコーデリアはふと思い出した。
「ジル様、少しお待ちを」
「うん?」
「これを……お持ち帰りくださいませ」
「これは」
「あまり上手ではないかもしれませんが、獅子ですわ。少し派手ですが……今日のお礼です」
コーデリアが差し出したのは窓近くのテーブルに置いていた獅子の刺繍だ。昼間に縫い終えたそれを、反射的に手を出したらしいジルの手に重ねた。あの時は金色よりも他の糸に惹かれたが、今は星と同じ色の刺繍でよかったとも思う。図案と一緒に提案してくれたヘーゼルに少し感謝した。
しかし図案・色ともこの場にぴったりでも、一つ気掛かりなのは自分の実力だ。
あまり決して特別下手という訳では無い。ただ見栄えがするかと問われれば答えに窮するというのが素直な気持ちだ。それでも獅子を好むという話を聞いた今なら、この作品でも少しは喜んでもらえるのではないかと感じたのだ。もちろん気恥ずかしくはある。それにジルがくれた小さな星空はこんなものとは比べ物にならない。……やはり後日、もう少し見栄えがするものを縫い直して渡した方が良いのだろうか?何となく顔を上げられず、コーデリアは一度床に落とした視線を上げられないでいた。せめて一言言ってもらえれば顔を上げられるのだが……と思っていたが、沈黙の空間が続く。ひょっとして呆れられているのか?そんなにひどい出来ではないと思っていたはずなのに……等と不安になり、意を決して顔を上げた。
そしてコーデリアが正面から見たジルは目を丸くして、両手でハンカチを広げ、刺繍されたを見つめていた。ぽかんと口を開け、少し間抜けな表情の彼はコーデリアが顔を上げたことにすら気づいて居ないようだった。
「……あの?」
「あ、ありがとう……!」
コーデリアの声に驚いたように弾かれたジルはまっすぐコーデリアを見、一言口にすると片手で口元を多い顔を背ける。相当喜ばれているらしいことは、コーデリアにも何となくわかった。それはもう、恥かしくなるくらいに。
「……も、もう少し上手になったら、新しいものと交換させてくださいね」
これ程に喜んでもらえるならば渡して正解だったと思うが、同時にそれならもう少し上手に仕上げていればという後ろめたさに似た感情もある。悪いことをしてはいないのだが、本来そこまで喜ばれる品でもないはずだ。布だって今日使用した練習用に近いものではなく、もっと上質なもので……やはり図案ももう少し練習してからの方が良かったか。
だがそんなコーデリアにジルはとんでもないという目で見た。
「いや、これは返さない」
「なぜですか」
「私のだ」
あまりに堂々と、そしてはっきりと言うジルにコーデリアは一瞬呆気にとられた。
そして……よくわからないが本人がそう言うのなら、良いのだろう。と、納得するような、しないような不思議な気分を味わった。
「……では新しいものは差し上げません」
いずれにしろ、既に撤回は不可能そうだ。
しかし先程までは迷いのなかったはずのジルがコーデリアの言葉に「う、」と言葉を詰まらせた。そして視線を彷徨わせ、どこか迷う様子でもある。
そんな彼の姿にコーデリアは小さく吹き出してしまった。むず痒くはあるが、元よりこれ程喜んでもらえるならば嬉しくないはずがない。
ジルもすこし肩をすくめながら笑った。
「ディリィ」
「はい」
「今日はありがとう。また、近いうちに会えることを願っている」
そう言いながらジルは背を向け、今度こそバルコニーから飛び降りて消えていった。
その姿は前回夜会で見た時の姿と重なったが、その時より慣れた様子にも見えた。短期間で上達するとは、ひょっとして彼かあ高い所から抜け出し始めたというのは最近の事であるのだろうか?……もちろん確かめる術は無いのだが。
元々気配が薄かったジルがその場から離れても辺りを包む空気にあまり変化はない。
けれど姿も声も無くなったことは間違いなく静けを運んできた。たなびくカーテンの音もハッキリ耳に入る。その音を聞いて居て、コーデリアははっとした。
「しまった……私としたことが、ジル様がどうして薬草を、そしてどういう分野に興味を持ってご指導を受けられているのか……お尋ねするのを忘れてしまっていたわ」
次に会った時には聞いてみないと。コーデリアはそう言いながらゆっくりと窓を閉じた。
部屋の中の星々はまだ煌々と輝いていた。




