第二十二幕 令嬢の交流
父の書斎に入ったコーデリアは至って平静に努めていたつもりであったが、それでも微妙な気持ちは父に伝わってしまったらしい。休日でも家いることが珍しいエルヴィスは、今日は珍しく昼間から屋敷にいた。彼は自らの娘の姿を見て神妙な表情を浮かべる。とはいえエルヴィスの変化など余程見慣れていなければ気づかないほどの些細なものであるのだが。だが父の表情などコーデリアに気づけぬ訳がなかった。
(何となく、切り出しにくいわ……)
別に大事だという訳では無いのに、何か重大なことを言いだす目前のようなこの空気。
しかしはそうは思うが、自分が忙しい父の手を止め続けるのは申し訳ない。コーデリアは小さく息を飲みこみ、そして真っ直ぐエルヴィスを見て覚悟を決めた。
「お父様……ヘイル伯爵家の令嬢であるヘーゼル様より、五日後、屋敷に泊りで遊びに来ないかと誘いを頂きました。お受けしてもよろしいでしょうか」
極力感情を押し殺した声をコーデリアは発する。
それを聞いたエルヴィスの疑問は深まる。わざわざ行くための許可を求めているというのに、まるで行きたくないと言っているようだ。
もちろんそのような声になってしまった事はコーデリア自身も気づいている。誤魔化せきれなかったのは自らの弱点だと反省し、将来的には改善しなければならないと心に留めた。……とはいえ、今回はすでに出してしまった表情だ。そもそもただのお願いであるし、父親にならそこまで隠す必要のある事柄でもないと思う。何か尋ねられたら正直に話せばいいのだ。そう思いながらコーデリアは返答を待った。
「…………構わんが」
微妙な沈黙を挟んだ後、エルヴィスはコーデリアの判断に任せると告げた。
エルヴィスには何故だかわからなかったが、娘がわざわざ行きたくないところに行くと言っているのだ。きっと何らかの考えがあるのだろうと考えたからだ。幸いヘイル伯爵とエルヴィスの仲は悪くない。良好だとまでは言えずとも、互いに邪険にするほどでもない。エルヴィスとしても困ることは何らなかった……強いていうなら、なぜヘイル伯爵の娘はそんな変わった招待をするのか、とは思ったが。しかしエルヴィスも長女ならともかくコーデリアが世間の令嬢の基準だとは思っていないので、そういうこともあるかもしれないと深くは考えることをしなかった。もっとも、これで仮にヘイル伯爵家にコーデリアと同年代の男児が居れば多少渋ったかもしれないが……ヘイル伯爵家の嫡男はまだ五歳であるはずだ。
そんな父の胸中を知らないコーデリアは一言礼を言い、父の前から退席すると、やはり許可が出てしまったかと心の中で肩を落とした。
いや、求めた許可が下りたのだ。本来なら喜ばなければならない。
だが断る正当な理由があるのなら断りたいと思う気持ちも確かにあった訳で、それが無かったという事は行くことが決定したというだけであり……
(……絵、刺繍……一応、手習い程度にはできなくはないわ。得意ではないけれど。……けれど……)
恋の話とは、いったい何をするのだろうか。そう頭を悩ます時間がやってきた。
ヘーゼルが友人だと認定してくれ理由は未だよく分からないが、それ自体は有り難い事であるとは思う。だが世間の令嬢が夜通し友と恋を語り明かすという行事は聞いたことが無い。もちろん知らないのは自分が世間知らず故の可能性もある。しかし姉も婚前にそのような会に参加してはいなかったと断言できる。だから一般的ではないだろう……と思いたい。
加えてヘーゼルの話しぶりから察するに、彼女も恐らくお泊り会を催す事は今回は初めてだろう。読んだことが有ると言っていただけなので、参加という形でも経験は無いはずだ。つまりヘーゼルの脳内にしかそのシナリオは存在していない。
「とはいえ宿泊を伴う語らいの計画なのだから……ひとまずは夜更かしの会、よね」
夜通しという話であるし、と、コーデリアは一人頷く。前世で言えばパジャマパーティといったところなのだろうか。……もっとも前世でもそんな経験は無いのだが。
仮にパジャマパーティに類するものであったとして、ヘーゼルが語りつくし、コーデリアがヘーゼルの話を聞くだけならば問題なく凌ぐことは出来るだろう。だが彼女は語り明かすと言っていた……つまり、コーデリアも話をしなくてはならない可能性がある。そうなるとコーデリアには都合が悪い。一体何を準備すれば話に対応できるのかさっぱりわからないのだ。
なぜなら『恋』という単語こそ、今までコーデリアには全く縁が無かった言葉なのだから。
「いやいや恋なら前世での記憶があるだろう」等と突っ込みが入ってもおかしくないことは理解している。だが、生憎記憶に無いのだ。残念なことに。記憶の欠落ではなく、恋らしい恋をした経験がないのだ。前世では中高大と女子校に通っていた。就職してからは研究一筋に生きていた。
「素敵な恋はしてみたいか」と問われれば、恐らく頷いてしまうだろう。
だが現時点で語れるようなものなど無く……そもそも恋というものは周囲がするものであり、聞くものであり、またドラマや漫画やゲームの中の話であり……自身に関わることであるという認識はあまり無く。
(いえ、今生に関してはまだ十二歳だもの。これからよね)
何となく気落ちしそうになる心を立て直しながら、コーデリアは「うーん」と唸る。
「……せめてヘーゼル様の読んでいる小説をお聞きしていれば良かったわね。そうすればどういうお泊り会を考えてらっしゃるのか、どういうお話をしたいのかわかったでしょうし……そもそも恋愛ではなくその小説のお話をすることも出来たのに」
頬に手を当てながらコーデリアは小さく呟いた。ノープラン、ノーシュミレーション。これは未だかつてない程難しい問題にも感じられる。そして同時にこの手の話題を一人で悶々と悩んでいると、どうも気恥ずかしくもなってくる。自然と口元はわなわな動くし、心なしか顔は熱くなっていく気がする。これなら勝負を挑まれる方が気が楽だと思えるくらいには、両手で顔を覆いたくなる。
何を聞かれるのだろう、何を話しなければいいのだろう。まるで面接試験を受けるような気分でもある。落ち着かない。一度目の十二歳であるヘーゼルが嬉々として語りたがることを、二度目の十二歳である自分は全く分からない。どういうことだ。
とはいえ二度目の人生と言っても、コーデリアは自身のことを大人であるとはあまり認識していない。それは年齢というものは単純に生きてきた年数を加算すればよいというものではないと考えているからだ。コーデリアとして生を受けて十二年。当然のことながらこちらの世界ではまだ子供として扱われている。例え大人の議論に混ざったとしても、大人と子供という線引きは確かに見える。精神年齢の成長には相応の環境が必要だ。その中には会話や社交の環境も含まれるだろう。コーデリアが前世の思考を働かせたところで、この世界の常識を併せて考えれば、どう高く見積もっても以前の年齢以上には達せないと思うのだ。それに前世の自分が大人と呼べるほどに成熟していたかというと、即答する程自信がある訳では無い。
……もちろんそう自分に言い訳をしたところで、ヘーゼルより年齢にはゲタを履いていることには間違いは無いのだが。
「あれ、お嬢様?」
「あら、ララ。お帰りなさい」
悶々とコーデリアが考えていると、外出用の服を纏ったララに後ろから声をかけられた。
今まさにアイシャのもとから帰ってきたのだろう。いつもより多少お淑やかに見える装いをしていた。ララは元々の職業柄か余分な動きは少ない分、黙っていればそれなりに令嬢に見ることもできる。あくまで黙っていれば、だが。
「どうしたの、難しい顔してるよね?何か悩み事?」
「……悩みと言うほどのことではないのだけれど……ねえ、ララ。……貴女……恋って何か、知っている?」
一般的なことを聞くように、コーデリアはララに尋ねてみた。期待している回答は「知らない」だ。もしそう答えてもらえればヘーゼルが「ちょっと早熟な感性の女の子」だと納得できると思ったからだ。
だがコーデリアの質問に対しララは答えず……代わりに顔を真っ赤にさせ、口をぱくぱくと開閉させている。……え?
「な、お、お嬢様……!べ、別に私は……!」
「……ララ?」
「ああああ、遅れちゃう!!着替えてきますからね!!」
そしてララは小走りでコーデリアの前から姿を消した。残されたコーデリアは呆然としながら、けれどどうやらララは恋を知っている……むしろ恋をしているらしいことを知った。
そしてコーデリアはとてつもなく置いて行かれた気分になってしまった。
あまりにも予想外の反応である。それに、それ以上に……
「……これは、本格的に予習してから行った方が良いのかしら……」
コーデリアは、自分の方が少数派なのではないかとララの様子を見て感じてしまった。
幸い今日中に急ぎ済まさねばならないことは特に無い。ならば恋愛小説を読み、この世界の流行を掴んでヘーゼルと会話できるようにしておこうと考えた。そう決めてしまえば向かう先は書庫一択である。
書庫に入ったコーデリアは早速小説を探そうとし……そして一つの根本的な問題に気が付いた。
「……何てことなの。我が家の書庫に最近はやりの女性向け恋愛小説があるわけないじゃない」
パメラディア家の書庫には実に実用的な書物や歴史書、それから古くからの文学書は置いてあるが、最近流行りの恋愛小説は置いてない。仮に姉がまだ嫁いでいなければ所持していただろう。事実姉が嫁ぐ直前までの人気恋愛小説らしき書物は書庫の一角を占拠しており、コーデリアも何冊か目を通して楽しんだこともある。だが彼女が嫁いだ以降のものはない。読む者が居なければ買う者もいない。つまり増えないというのが現状なのだ。姉が読んでいたものは恐らくヘーゼルが今読んでいるものとは違うだろう。
コーデリアはがっくりと肩を落とすも、せっかく書庫に来たのだから興味を惹かれる本を何冊か持って帰ろうかと辺りを見回すことにした。まず目に入った古い時代に書かれた軍記物の小説は兄が絶賛していたものだ。だから興味惹かれるのだが……ダメだ。古すぎて、おそらく書庫から持ち出すとバラバラになる危険がある。持ち帰りは出来ない。
「って、こういう事ではなくて……!!」
こんなにも興味惹かれそうなものを持って帰れば、つい読みふけってしまうのは目に見えている。そうなれば考えがまとまらないままヘーゼルの所へ泊りに行く日がまた近づく。……それは非常によろしくない。
しかしそう理解していても尚、書庫には魅惑がいっぱいだ。
「あら……?これは、星座版?」
軍記物をあきらめた直後、書庫に何故これがあるのか、そう思いながらもコーデリアは書庫に突き刺さる星座版を引き抜いた。今までそれほど星に興味を持っていた訳ではないが、全く興味がない訳では無い。単に星座がこの世界にもあると知らなかったこともある。ステンドグラスのように作られたそれは少し重いがとても綺麗で、コーデリアは少し迷った後に一冊の本と共に自室に持ち帰ることにした。一緒に持って帰る本は星にまつわるものだった。
その時ふと思い出したのはジルの誘いだ。
夜に自宅を抜け出す……それはやはり不可能なことであると思う。可能とするならば、自宅以外の場所に居る時でなければならないだろう。
「……かといってヘーゼル様のお屋敷から夜に抜け出す……は、さすがに無理か」
ヘーゼルの家の監視体制は、数度訪ねた限りパメラディア家の監視体制と比べ随分緩やかだ。もちろん要所要所は固めてあるのだろうが、必要最低限であったと思う。それはパメラディア家程狙われる危険性が無いからということもあるだろうが、雇える魔術師が退役軍人であることも影響しているのだろう。ヘイル家は魔術学院卒の新米魔術師を雇い入れることを許された家系では無い。
無論退役した魔術師とはいえ元軍人、戦闘能力は高い。護衛としては十分すぎる程だ。しかし退役後に貴族に雇われる元軍人の大半は研究者気質ではない。軍人から宮廷魔術師に異動したものなら別だろうが、そういう者は勤め慣れた城を離れることなど無い。研究の支障になりかねないからだ。
だから夜に抜け出すのならばヘイル家に滞在する時がチャンスになるのだろうが……万が一にも何かが起こってしまえばヘイル家に迷惑がかかることになる。やはり難しいだろう。
元々コーデリアとてジルには難しいと言っている。行けなくても問題がある訳では無い。
「いっそジル様が女の子なら、問題なかっ……」
途中まで言った言葉を、コーデリアは不自然に途切れさせた。
ジルが女の子だったら?……もしそうなら、そもそも出会えてすらいなかったのではないか。男だからこそヴェルノーと街にお忍びにきていたのではないか。友人になれたのではないか。それに先日に一緒に踊れたのも……
「………や、やめましょう。ええ、考えるのはよしましょう」
誰かに言い訳をする必要があるわけでも無いのに、コーデリアはこほんと咳払いをすると自室のドアを開ける。今更だが、よくよく考えればあのダンスのシチュエーションはまるで恋愛小説に出てきそうではないか。そう思い起こすと気恥ずかしくなる気がする。ジルは慣れた様子であったし、普段からああいう誘いは行っているのだろうか?それならそれで、将来は天然タラシになりそうな気もしなくな……だめだ、これ以上考えてしまえば次にジルに会う時にどんな顔をすればよいか分からなくなる。彼は小さなジェントルマンのはずなのだから勝手な想像をしては失礼だ。
よし、切り替えだ。そしてこの星の本はお泊りの準備をした後に読むとしよう。
「……とはいえ……身支度とは何が必要なのかしら」
簡単に荷物は纏まるのだろうか。さすがに持ち物が寝衣一枚という訳にはいかないだろうからかさ張ってしまうかもしれない。少量にしたい気持ちはあるが、ある程度荷が増えることは妥協せねばならないかもしれない。そんな多少の不安を抱えながらもコーデリアはチェストに足を向けた。自身に必要な荷物以外にも、個人的にヘーゼルに渡そうかと思う手土産がある。それはアロマキャンドルだ。
「お好みの香りはわからないけれど。……ここはこれにしましょう」
コーデリアが手にしたのはラベンダーとオレンジをブレンドしたキャンドルが入った箱だった。ヘーゼルの家ではよくオレンジのタルトやオレンジのジャムが添えられたスコーンが出てくるので、彼女が好みと考えて大丈夫だろうというのがこの香りを選択した第一の理由だ。そして第二の理由はその効用にある。
緊張や不安をほぐし、リラックスが出来るこの香り。蝋燭なので夜の灯りとしてはもちろん使えるし、リラックスできるのならばヘーゼルのテンションも多少は落ち着いてくれるだろう。そうすると夜更かしは少し短くなるかもしれない――など、多少の期待も込めてコーデリアは小さな紙箱に細いリボンをかけた。
そう、恋愛話以前に夜更かしは良くない。良くないのだ。だから彼女には是非眠気を感じてほしい。そう、そしてぐっすり休み、心穏やかに突発イベントを終えてみたい――。
「――なんだか、これでは私は恐れているみたいね」
別に刺されるという訳では無いのに、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。少し心が焦っている気がしなくもないのは何故なのだろう。
コーデリアは箱にかけたリボンに指先で撫でながら、一つ短いため息をこぼした。
++
そして、五日後の昼下がり。
コーデリアはまとめた荷物と共にヘイル伯爵家に降り立った。荷物はやはり前世の「一泊二日の小旅行」なんて量では纏まらなかったのだが、それでも極力コンパクトにはまとめた。
結局コーデリアはここ数日、このお泊り会のことを考えると心が休まらなかった。自分でもよく分からないが、何かむず痒い気持ちが晴れなかったのだ。
しかしそんな気持ちで現れたコーデリアを、ヘーゼルは対照的といえる満面の笑みで迎え入れた。
「いらっしゃいませ、コーデリア様!」
「ごきげんよう、ヘーゼル様。お世話になります」
まるで花が咲き誇るかのような笑顔に、コーデリアは「最初からこの御姿を拝見していたら相当印象変わったでしょうね」と思わずにはいられない。抱き付かんばかりの勢いでコーデリアの手を取るヘーゼルは本当に上機嫌だ。
「私今日のために新しい刺繍道具を調達致しましたの。ああ、客間もコーデリア様のお好みを考えてご用意させていただいたのですよ」
「そ、そうなのですね。ご配慮ありがとうございます」
「堅苦し事はおよしになって!親友ではございませんか」
会わない間に友人から親友に格上げされていた……!
コーデリアは驚きながらも何とか笑顔を返した。あくまで好意であるので悪い気はしないが、なかなか落ち着くものでもない。
手を引っ張られながらコーデリアはまず客間に通される。荷物はエミーナが運び入れ、そのまま彼女は帰路につく。ヘーゼルは「少ししたら参りますね」と言って一旦彼女の自室に戻っている。だからヘーゼルが再び現れるまでの間、一息つこうかと思ったのだが……そう思った瞬間、ドアが丁寧にノックされた。
「コーデリア様、ヘーゼルですわ」
「……早い」
本当に一呼吸程しか置けなかった。そうは思うものの、ヘーゼルのテンションからいえば想定内のことでもある。どうぞ、と声をかければギリギリ慌ただしくないという程度の元気良さで扉は開かれた。
「刺繍の用意を致して参りました」
専用の道具箱のほか、バスケットにも色とりどりの糸に綺麗な白いハンカチが入っている。それはヘーゼルが常日頃から愛用しているものなのだろう。コーデリアが持っている数の数倍はある。コーデリアも決して少ない量しか持っていないという訳では無いので、それだけ彼女が好んで集めているという事なのだろう。
「刺繍……お好きでいらっしゃるのですね」
「ええ。刺繍が出来る女性は男性の理想と、お父様が常に仰っていますからね」
窓際のテーブルに道具を置きながら彼女は得意そうに言った。
「ヘーゼル様もお父様と仲が宜しいですのね」
「ええ。私は自慢の娘ですから」
胸に手を当て堂々と言うヘーゼルは、いつもより少し目元が緩んでいる。本当に仲が良いのだろう。そんな姿にコーデリアは少しだけ親しみを感じてしまった。意外と気が合うかもしれない部分もあるかもしれない。たった一つの言葉ではあったが、多少緊張感も解れた気がした。そして同時にヘーゼルを少し羨ましくも思った。自慢できる娘。そう堂々と名乗れるまでの自信はコーデリアにはまだ足りない。というより、父が自らを自慢するという想定事態を持てず想定していなかったという事もある。あの口数の少ない父が自分を他人に自慢することがこれからもあるかどうかはわからないが、誇らしく思われるようにはなりたいとは思う。だから言い切るヘーゼルがうらやましかった。
そんなコーデリアの様子を気にしないヘーゼルは言葉をつづけた。
「そんな私の父は、母から贈られた青い鳥が縫われたハンカチで婚姻を決断されたそうです。青い鳥は幸せを運ぶ鳥。素敵ですわ」
「お母様も刺繍がお得意なのですね」
「ええ。お母様の刺繍は優しい気持ちになれるんです」
うっとりしながら言うヘーゼルは「私も将来旦那様に……」と、どこか遠いところをキラキラと見つめながら小さく「きゃぁあ」と楽しそうに叫ぶ。
「では、ヘーゼル様は青い鳥を刺繍なさるのかしら?」
「ええ。未来の旦那様に最高のものをお渡しできるよう、日々練習を重ねていますの。いくらでも練習を続けますわ!」
「それは素敵ですね。……では、私は何をモチーフに致しましょう」
幸運の青い鳥も魅力的だが、ヘーゼルが大事にしているモチーフを一緒にするのは少し違うとコーデリアは感じた。一応手習いはしているので、家では花の図案ならコーデリアも良く練習している。だがその図案も「お嬢様は花がお好きでうしょね」と、大概課題として与えられているものなので自ら選んできた訳では無い。だから自分で選ぶのはほぼ初めてのことで、どのようなものを選ぶか迷ってしまう。その上ヘーゼルの持つ糸の色は豊富であるから色の系統まで迷ってしまう。そんなコーデリアにヘーゼルは「では、獅子の図案はいかがでしょうか」と手を軽く頬に当てながら提案した。
「……獅子、でございますか?」
「こちらに見本は有りますし、獅子は騎士の聖獣とされています。お父様にも、お兄様方にも喜ばれますわ」
確かに、コーデリアもそれは把握している。だが、獅子だ。少し難易度が高い気がするのだが……しかしキラキラしたヘーゼルの”名案ここにあり!”という雰囲気からは逃れられそうにない。
「そうですね。獅子は守り神ともいわれていますし、頑張ってみます」
「色は何にされますか?黄金の獅子も、銀獅子も……いえ、黒獅子も素敵ですわ」
「そうですわね……迷うのですが、この、赤か薄桃色に……」
「いえ、やはり金ですわね!輝く金の獅子……素敵ですわ」
「……ええ、では、金で……」
うっとりとしているヘーゼルは、好意的でも押しの強さは相変わらずである。
金色のイメージはあまり父や兄に合うような気はしないのだが、それでも好意からのくるものであれば断るのも忍びない。今回は練習と考え、ヘーゼル提案の金色を受けるべきだろう。後々父や兄に贈るのであれば、再び縫い直せばいいのだ。
練習策はララやロニーに贈るのも悪くはない。あの二人はコーデリアの刺繍をする姿など見たことが無いだろうから、驚くだろう。二人がハンカチを持ったら、即台拭き替わりにされそうな気もしなくはないが、活用されるなら問題は無いはずだ。
「コーデリア様は、将来のお話、お父様とされますの?」
縫い始めてしばらく経った頃、ヘーゼルにそう尋ねられたコーデリアは白い布から視線を上げてヘーゼルを見た。
「時折は。今は将来歩む道がどのような道であっても困らぬよう、多くのことを学んでいる最中です」
「では、お父様とは、縁談のお話などもなさいます?」
「えんだ……縁談っ!?」
普通の将来の話かと思った矢先のその言葉に、コーデリアは思わず声を大きくしてしまった。あまりに予想外のことで、むしろ驚かない方が難しいというものだった。いや、その話でもおかしくはないが、いささか急である。恋の話どころか婚姻の話になっている。しかしそうは言っても少しばかり落ち着きのなさすぎる声だったと我に返ったコーデリアはこほん、と咳払いを挟んだ。
「失礼、縁談のお話はまだ……」
確かに三歳の頃にならあった……というより目指すよう諭されたのだが、恐らく時効だろう。そこから十年近く話が無いのだ。だから縁談の話は無い状態で問題ない。コーデリアはそう思いながら言葉を濁した。……むしろそうなっていないとなると気が気ではないのだが、はっきりと父親の口から聞いたわけではないことが引っ掛かる。もちろん尋ねた訳ではないので、何もしなければ父親から言われることは無いだろうが……正直に言って蒸し返したい話題ではない。縁起が良くない。
「父が、コーデリア様はヴェルノー様か王太子殿下に嫁がれるのではと言っているのを聞いたことがありますわ」
「……ヴェルノー様はあのフラントヘイム侯爵家の一員。彼が心より愛する人以外との婚姻は無いかと。殿下も恐れ多いです」
前半は心からの言葉を、そして後半は希望を込めてコーデリアは言った。
加えるとあれだけ敵意をあらわにした後であるのに、平然とヴェルノーの名前を出したことに少し驚いた。しかし探るような様子でも無い。切り替えが早いと言えばそれまでかもしれないが……早すぎると言えば、そうに違いないだろう。
コーデリアの答えを聞いたヘーゼルはにっこりと笑った。
「私、いっぱいしたいことがございますの」
「それは?」
「恋をして、ライバルと競って、それでも見初められて幸せになることですの。もちろんライバルがいない方が振り向いてもらえる可能性は上がりますが、想い人が多くの方に思われる素敵な方であれば、ライバルも仕方ないと思いますの。私が自分を磨けばよい話ですし、私は負けませんわ」
頬に片手を当て、ヘーゼルはほうっとため息をつく。
ヴェルノーが素敵な方かどうかはさておき、ヴェルノーに憧れる令嬢が多いことは本当だろう。本人は王太子のことばかり聞かれると愚痴をこぼすことも多いが、侯爵家の嫡男だ。おまけに容姿が整っているのだから、あと数年もすれば社交界の華になることは間違いないと思われる。
「コーデリア様も恋愛願望をお持ちで?」
「……具体的には想像もできませんが、一応……そうですわね……」
消え入りそうな返答だったが、それでもヘーゼルには十分届く声であったらしい。
ヘーゼルはにこりと笑った。そして半分鳥が仕上がった布をテーブルに置き、祈るように両手を組む。
「私の両親は、婚姻までに顔を合わせたのはたった三回だったそうです。それでも仲が良い、素敵な間柄です」
彼女はそのまま言葉を続けた。
「貴族の子女たるもの、生まれた時から婚約者がいることも少なくありませんし、私もそれ自体に否定的な感想を持っているわけではないのです。ただ私は恋愛に憧れています。初恋を許されている事が、とても嬉しいのです」
少し目を伏せたヘーゼルはいつになく令嬢らしい様子である。
彼女は「――そして、叶うなら……」と、まっすぐコーデリアを見つめた。
「私も、小説の主人公のように、全力で恋に励み、叶えたいのです。猶予期間はそう長くございませんが、見初めていただける可能性を捨てたくはないのです」
だから、これからも励んでまいりますよ?
そう言い切ったヘーゼルにコーデリアは苦笑した。素敵な心掛けであることには違いないと思うのだが、彼女の本気はヴェルノーを引き攣らせているのもまた事実。世の中バランスというものは難しいなと思ってしまった。同時にこの彼女の表情を見ればヴェルノーも苦手意識を払しょくできるのではないか、と、思ってしまう。静かで強い印象が、今のヘーゼルからは感じられた。
「実は私も、このような話をするのは初めてです」
「どうして、私に?」
「コーデリア様も同じような環境でしょう?同じ伯爵家の令嬢として、通ずるものがあるのではと思ったのです。親友ですし」
ウインクしたヘーゼルは再び布を手に取り続きを刺繍し始めた。
「コーデリア様にも素敵な巡りが訪れるよう、私もお祈りいたしますわ」
「では私もヘーゼル様がご満足されるよう、お祈りを」
「ありがとうございます。けれど、ご協力は求めませんわ。これは私の戦いですから」
その言葉にコーデリアは安心し、けれど申し訳なくもなった。ヴェルノーとも友人である以上、彼の気持ちも汲んでおきたい。だがヘーゼルも信念のもとに行動しており、助けを求められれば手を差し出したくもなるところだ。だからその狭間で悩まなくても良いなら、有難いことこの上ないのだが……やはり少し複雑だ。特に同じ伯爵令嬢の立場を鑑みて、これほど堂々としているヘーゼルに何もできないのは心苦しい。
「ヘーゼル様」
「何かしら」
「何かあれば、お話を聞くことくらいは出来ますから」
コーデリアがそういえば、ヘーゼルは満足そうに笑った。そして「いずれ」と。コーデリアはそれ以上ヘーゼルに何も尋ねなかった。正確に言えばそうする事もできなかった。
「いずれ」と言った彼女が今は話そうとしないだろうというのももちろんあるが、何よりコーデリアには彼女から話を聞くより、先に片付けなければならない問題がある――それは今まさに手にしている刺繍の進捗具合の問題だ。
この図案、あまりにも難易度が高い。人が見ていなければ別の図案に変えたいと思う位には難しい。だから会話を挟むと全く進まないまま時間が過ぎ去ってしまうことが目に見えている。
しかしせっかくのヘーゼルの提案を受けて始めた今、ここで辞めるわけにもいかない。むしろ令嬢としての技量をここで発揮しなければならない。逃げてはいけない。刺繍という強敵を前に逃亡するようでは、令嬢としての品格が欠けるとコーデリアは自分に言い聞かせた。
「……私もお父様に自慢していただけるように、頑張らなくてはなりませんね」
そう、いくら研究を頑張っているとはいえ、令嬢のスキルは基本となるスキルである。これが欠けては研究の成果を持っていてもただの変わり者として扱われてしまうかもしれない。そうすれば父親にも迷惑がかかる。誇られるというどころの話ではなくなる。だからこんなところで白旗を上げるわけにはいかないとコーデリアは気合いを入れなおした。するとヘーゼルは不思議そうに首を傾ける。
「あら、コーデリア様の素敵な御噂は色々ございますよ?お父様としても誇らしいでしょう」
「そうだといいのですが……私自身にもっと誇りがなければ、お父様に誇っていただけないと思うのです。まだまだ足りないと思うのです」
「コーデリア様は自分を誇ることができない程、軟な人には見えませんわ。だって私の永遠のライバルですから」
「……ヘーゼル様の中で私がどんな存在なのか、よくよくわからなくなって参りました」
とはいえ、ヘーゼルにそれほどまでに認められているという事だけはコーデリアにも理解できる。だから浮かんだ表情は照れたような苦笑になってしまった。
そしてやはり人に認められることは嬉しいことだと感じた。
++
その後二人はお茶を挟んで刺繍を続け、外が暗くなったとほぼ同時、客間に運ばれた夕食を味わった。
ヘイル家の食事はパメラディア家の食事に比べ挽肉や魚のすり身といったような、素材を組み合わせることにより味を引き出す料理が多かった。どちらかというと素材そのもの味をより引き出すことに重きを置くパメラディア家の料理とは違っていたが、久々にハンバーグと肉団子の中間のような料理も食べた。聞くところによるとヘイル家の領地に住まう民族の伝統料理らしい。その他には花や葉を象ったり、細工を加えられた野菜や果物など目にも楽しい盛り付けが特徴的だ。
食べてしまうのがもったいないな。そう思いながらコーデリアはふと思いついた。
(クラシックな盛り付けも私は好きだわ。けれど、これもやはり華やかで綺麗)
特に若い女性に好まれそうだと感じた。
そして同時に、例えば今日土産として持参したアロマキャンドルも、このように目も楽しませられれば付加価値つくかもしれないと考えた。
香りはあるが、今は形に拘ったものは作っていない。見かけはただの蝋燭だ。
もちろん将来的に多く流通させるつもりであるなら、今目にしている野菜や果物のように一つ一つに手間がかかることはできないだろう。だが簡単な形なら可能であるだろうし、中には相応の価格を設定して趣向を凝らしたものを混ぜても楽しいはずだ。視覚と嗅覚、両方に呼びかけるのはより興味を引きつけることにつながるだろう。
そしてそう考えたところで、また別のことが頭に浮かぶ。
(でも香りと形……ね。蝋燭だと少し難しい事かもしれないけれど……たとえば石鹸だともっと別の事も出来るかもしれないわ。例えば香り高い石鹸を使ったソープカービングで教室モドキを開くなんて、どうかしら)
香りを楽しみながら石鹸を彫ることで、立体的な花や葉、それから菓子をモチーフにした様々な形を作り出していく。使うのはナイフ一本だ。出来上がった作品はインテリアに向いている。それは新しい娯楽として受け入れられるかもしれない。
そしてそんな手習いを広めれば、自身の情報収集の場も広がるかもしれないともコーデリアは考えた。柔らかい石鹸なら貴婦人の手でも十分彫れるはずだ。同じものが二つと出来ないのは刺繍と同じだ。
上手くいくかどうかはまだわからない。けれどコーデリアは自宅に戻ったらすぐに彫りやすい石鹸の開発と鍛冶屋に彫刻用ナイフの試作依頼を出さなければと考えた。そもそも専門に行っていた植物の扱いと違い、前世でもソープカービングはあくまで趣味の一環だった。目の肥えた貴族に受け入れてもらうには、自らの腕を磨くことも必須になるだろう。時間がかかることかもしれない。
しかし上手くいくかどうかが分からなくても、可能性があるのであれば始めて見ることが大事だ。一度自分が彫って、それを叔母やアイシャといった大人の女性に見せ、反応を窺ってみたい。そして反応が良いようであれば、侯爵夫人であるサーラの目に留まるか確かめてみるのも悪くはない。仮に軌道に乗らなかったとしても、失うものは無いのだ。
そんなことを考えながら野菜を目にし、微笑んでいたのが原因だろう。
ヘーゼルはコーデリアを見、満足そうに言った。
「コーデリア様が我が家の食事をそんなに気に入ってくださったのは、少し驚きですわ」
料理のことだけではなく他のことも考えていたので純粋な言葉にコーデリアの胸は少し心が痛むが、色々思いついたのも料理をみたお蔭である。それに、美味しい。だから間違いではない。コーデリアはヘーゼルに微笑み返す。
「やはり、色々見聞きし経験する事こそ、大切なのだと思いました。我が家の料理とは違い、すべてが新鮮に感じられますわ。とても趣向が凝らされた料理の数々ですね」
しかしその言葉に頷いたヘーゼルは、次の瞬間口を尖らせた。
「逆に我が家は原型をもう少し残しても良いと思いますの。私はバーニャカウダが好きなのですが、我が家では絶対に出てきませんわ。お母様の御実家に遊びに行ったときにしか食べれませんの」
「ならば今度我が家の夕食に招かれてくださいませ。料理人に伝えておきますわ」
「本当ですの!?楽しみにしておりますわ」
そしてデザートに出てきたラズベリーとピスタチオのムースまでしっかりお腹に収めたコーデリアは、すっかりヘーゼルともリラックスして話せるようになってきた……と思っていたのだが、よくよく思い直せばここからが本番なのだ。
そう、一番ヘイル家に来ることを躊躇わせた原因である、ガールズトークの時間はこれからなのだ。いや、昼間も確かに多少は話していたが、以前聞いていたヘーゼルの言葉から考えればあれはきっと前座だったに違いない。夜が本番だ。そうコーデリアは思っていた。
が、ヘーゼルは何と食事が終わりしばらくした頃に「今日はちょっと疲れましたの」と、予想していなかったことを口にした。コーデリアは驚いた。だが彼女が疲れているのであれば是が非にでも休んで頂きたい。その思いからコーデリアは「では、お話はまたの機会に」とほほ笑むと、ヘーゼルは申し訳なさそうに「お言葉に甘えますわね」とコーデリアに告げた。
そうして一番の懸念を回避できたコーデリアはほっとしながら夜を迎えることに成功した。しかし余りにほっとしすぎていた為、
「アロマキャンドル渡しそこねた……」
という事案も発生させてしまっていたが。しかし土産として持ってきた品物は帰る前までに渡せればいい。明日もある。そう思い直し、一人になった部屋でゆっくりとベッドに腰掛けた。
なかなか衝撃的なことも多かったが、普段自分が考えている事柄と全く違う考えに触れる機会が得られたことは貴重だったと思う。
しかし予定が無くなったということは、思いのほか長い夜になりそうだ。
寝るまでに行わなければならないことは、残りは湯で体を拭うことくらいだ。部屋に備え付けられている鈴で使用人を呼べばいつでも用意するとヘーゼルからは言われている。
さて、どうしようか。
コーデリアがそう考えた時、カツンと小さく窓に何か小さなものがぶつかるような音が聞こえた気がした。……気のせいだろうか?そう思っていると、暫くして再び同じ音が聞こえる。一体何だろう?そう思いながら、ゆっくりとバルコニーに続く窓に近づく。
そのような音ではなかったが、万が一鳥かなにかがぶつかったのであれば手当をする必要があるかもしれない。
そっと窓に手をかけ、外の様子を窺ってみる。
そこで目についたのは二つの小石だった。小さいはずのそれは、ゴミひとつない空間では大きな違和感を放っていた。コーデリアは一歩足を踏み出し、屈んで拾い上げた。やけに触り心地の良い石だった。コーデリアは指先でそれを転がしてみながら、首を傾げる。
持ち帰りたいくらい綺麗な石だが、やはりこんな所にあるのは不自然だ。
そんなことに気を取られていたので、全く気付けなかった。
「こんばんは、ディリィ」
よく知った声の主が、完全に気配を消して壁を背にもたれ掛っていたなんて。
思わず指先から石を落としながら、コーデリアは少し硬い動きで声の方に首を動かした。そして発した声は少しどころか大分ぎこちなかった。
「……どうしてここにいるのですか、ジル様」




