第八十八幕 落ち着く日々はまだ訪れず
そして、星見の宴が行われた日から四日が過ぎた。
コーデリアは宴の前と変わらない生活を送るつもりだったが、魔術による攻撃を受けたのだからと翌日からいろいろな検査を受けることとなり、立てていた予定は全て変更する羽目になってしまった。幸いにも特に悪影響は受けなかったと判断され、ようやく昼からは日常に戻ってきたのだが――。
「お嬢様、それ、どうするつもりなんですか?」
「え?」
「その紙、もう使えないと思いますけど」
ロニーの言葉に、コーデリアは慌てて手元を見た。無意識のうちに文章を綴っていた手を止めてしまっていたようで、紙にはインクが溜まってしまっていた。
「……書き直すわ」
「ですよね。まぁ、いろいろありましたし、ゆっくりなさってたらいいんじゃないですか。あ、マントのしみ抜き終わりましたよ。ドレスと髪飾りの汚れは、ちょっと残りそうですけど」
「ありがとう」
さすがは器用な魔術師だとロニーに感謝しながら、コーデリアは先送りしたい問題を突きつけられて思わず溜息をつきたくなった。
(殿下にお会いしなければいけないのよね……)
そう思うと、気が重い。不吉の原因がなくなったとしても、もはや避けたくなるのは条件反射にもなっているし、加えてジルかもしれないと思えばどう話しをすればいいのか、よくわからない。
(仮にジル様だとしたら、もう八年も身分を隠していらっしゃるのよね。私ってそんなに信用がないのかしら……いえ、殿下だって言われていたら絶対に仲良くなることなんてなかったし、まだ確定してるわけではないけれど……!)
こんなことで悩むことになるなど、コーデリアは想像などしていなかった。もっとも、それはジルとシルヴェスターが同一人物だという可能性など微塵も感じていなかったので、当然といえば当然なのだが。ヴェルノーのように髪色程度が違うとなればすぐに分かるが、顔の作りも髪色も目の色も違う――そうなれば、やはり考えすぎだろうかとも思ってしまう。
シェリーについては、やはり呪いがかけられていたとの話をきいている。ただしララにかかっていたような、本人の意思に反する行動を強制させるようなものではなく、相手への憎しみを強くすることで殺傷能力を高めるようなものだということだった。シェリーは『魔術がうまく使えるようになるおまじないをかけてくれた人はいた』と供述したが、術式がドゥラウズの流れを汲む魔術だったということもあり、クライドレイヌ伯爵家にも調査が入った。その際のクライドレイヌ伯爵の意気消沈した姿は見るも無残だったという。当初のエルヴィスからの猛抗議にはクライドレイヌ伯爵も『そちらも悪い』という態度だったらしいのだが、娘の行動によりことが大きくなったこと、自分の描いていたヴィジョンがすべてついえたことのほうがショックだったのだろう。
ただ、ドゥラウズ王国の魔術だということについてはデリケートな問題になるので、シェリーの呪いのことやクライドレイヌ伯爵家の調査が行われたことについては公表されてない。ただシェリーが騒動を起こした事実は消せないため、シェリーについては表向きには精神を病んでいるため、療養が命じられたことになっている。しかし実際には魔術そのものが二度と使えないよう、魔力の封印が施された。夢見の力が失われるかもしれないからとクライドレイヌ伯爵はその命令に最後まで再考を嘆願したが、ついにそれが聞き届けられることはなかった。
「マントの返却の際のお菓子のことも、料理人たちがものすごく張り切って作ってくれてますから何も心配することはないですよ。今日でも明日でも、すぐに用意できますって言ってます」
「そうね」
「使用人の中では話題ですよ。まさか殿下とお嬢様のロマンスが始まるかもしれないとかなんとか。まぁ、俺からみたら仮にそうなってもそんな驚くことじゃないですけど」
「え?」
「あ、旦那様の耳には入らないように噂をしていますから、安心してくださいね」
違う、そこではない。
コーデリアとシルヴェスターが一緒にいる場面など、ロニーが見ていたことはないはずだ。だが、問い詰める前に部屋にノック音が響き、コーデリアは入室を許可すると、そこにはエミーナに案内されたヴェルノーが片手を軽く上げて立っていた。おおかた来訪をコーデリアに伝えに来ようとしたエミーナに、いつも通りそのままついて来たのだろう。
「よう、ディリィ。大書架に行く予定はないか?」
「ずいぶん具体的ですね」
「そろそろどう連絡をつけるか困っているんじゃないかと思ってな。身体に妙な影響はなかったみたいでよかったな」
「おかげさまで」
ヴェルノーの入室と入れ替わり、ロニーは席を外すために部屋を出た。
「お茶とお菓子をご所望ですか?」
「いや、単に俺が今から登城するから寄っただけだ。菓子なら殿下にくれてやれ」
「くれてやれって……ずいぶんなお言葉ですね」
しかし、先延ばしにしても仕方がない事柄でもある。それに混乱を抱えたまま一人で行くよりは、ヴェルノーがいるほうがまだ多少は平常心が保てるとも思ってしまう。
「少しだけお時間をいただけますか? せめてドレスだけでも変えさせていただきます」
「では、その間に俺は菓子をいただくとしよう」
「結局食べるんですね」
「まぁな。ああ、別に気合いを入れて着飾らなくても構わないから、手早くな。ディリィもあまり疲れるのもよくないだろう」
そのヴェルノーの発言にコーデリアはすこし苦笑した。それは魔術を受けたコーデリアが本調子なのかどうかと気遣ってのことなのか、急かしてのことなのか。いずれにせよヴェルノーが菓子に飽きるまでにコーデリアは支度を済ませ、ヴェルノーと共に城に向かった。
城に到着した後はヴェルノーの先導で、迷うことなく数年前にやってきたことのある部屋の前までまっすぐ辿りついた。そこでコーデリアは深呼吸をした。この先にシルヴェスターがいるのはわかっている。だが、ここまで来てもまだ礼以外に何を言うべきか、考えが纏まっていなかった。先送りにすれば余計に顔を合わせづらくなるからヴェルノーと一緒の時の方がいいと思ったが、どうすべきか。ここは一旦、礼だけ伝えてあとのことは考えが纏まったときに確認するべきかとコーデリアが考えているうちに、ヴェルノーが衛兵に入室の旨を伝えていた。そして開かれた扉を潜ったヴェルノーに続いて、コーデリアも入室した。
「いらっしゃい。と……ようこそおいでくださいました」
ヴェルノーはどうやらコーデリアを連れてくることを言っていなかったらしい。シルヴェスターは少し驚きの表情を浮かべていた。コーデリアがヴェルノーを横目で見たが、ヴェルノーは特にそれを気にする表情も見せなかった。
「殿下、お届けものです。あとはお任せします」
「え、ヴェルノー様?」
「俺も一応仕事もあるんだよ。返却くらい一人でできるだろ」
挑発よりは誘導されているようにコーデリアは感じたが、ヴェルノーはコーデリアの返事も聞かず、すぐに踵を返して退出した。殿下の御前だとは思えないほどの軽い様子だ。
「またヴェルノーが無理を言ったんですね。申し訳ございません」
「い、いえ……、突然お邪魔致しまして申し訳ございません」
「お気になさらないでください。もう、身体は平気ですか?」
「はい。こちら、ありがとうございました。あの、お菓子もお持ちしました」
コーデリアが手にしているものを見たシルヴェスターは椅子から立ち上がった。
そしてゆっくりとコーデリアに近づき、それを手に取った。そこで先日のことを思い出したコーデリアは思わず一歩下がりたくなったが、ぐっと堪えた。返却するには下がってはできないし、何よりそんな失礼な態度を取っていい相手ではない。
「確かに、受け取りました」
「汚れは見る限り、落ちていると思いますが……」
「大丈夫です。どうせ内側ですから、誰も気にしません」
そうしてシルヴェスターは笑った。
「そうだ。もし、よろしければ少し休憩につき合ってくださいませんか?」
「え?」
「温室。前はご案内できませんでしたから」
どんな表情をしてもいいのかわからないまま、しかし顔をひきつらせないようにだけ気を配りながら、コーデリアは頷いた。




