【番外編】息子がギラン・バレー症候群になりました。後編
今回は前編につづき、息子がギラン・バレー症候群と診断されてから退院までの記録を綴りました。
突然の発症から日々の回復を見守る中で、母として感じたこと、学んだことをそのままの言葉で残しています。
病院に着いたのは夜の10時半頃でした。
診察を受けはじめてから、時計の針はすでに深夜2時を回っていました。
脳の検査など、さまざまな検査が行われましたが、なかなか結果が出ません。
静まり返った待合室。
私は主人と並んで座っていました。
連日遅くまで仕事をしていた主人は、座ったまま少し眠っています。
近くには外国人らしき人もいて、みんな静かに時間が過ぎるのを待っていました。
深夜2時半頃、看護師さんが現れ、主治医のいる診察室まで案内してくれました。
主治医の先生は静かに言いました。
「息子さんは、やはりギラン・バレー症候群です。このまま入院してもらいます。恐らく軽症とは思いますが……はっきりとは言えません。あとで脊髄もとりますので。」
私は驚き、尋ねました。
「もうすぐ夏休みが終わって学校が始まるのですが、どれくらいの入院になりますか?」
先生は少し考えてから答えました。
「1ヶ月は見ていただきたいです。」
焦りが一気に押し寄せました。
息子の通う進学校は授業の進度が早く、常に予習が必要です。
部活ではようやくレギュラーを狙える位置にいて、友人関係も安定してきたところでした。
退院後、勉強や部活についていけるのか、後遺症は残らないのか……不安でいっぱいでした。
息子はSCU(脳卒中集中治療室)に入院しました。
主治医からはこう告げられました。
「嚥下障害があります。もしもの時は人工呼吸器も覚悟してください。」
息子の不安そうな表情が、今も目に焼き付いています。
入院して3日間は絶食で、点滴のみ。
私は一度家に帰り、入院の準備を整え、中学生の娘を心配させないように声をかけ、再び病院へ向かいました。
入院から1日経ったころ、息子は「お腹がすいた」「つらい」と言いました。
しかし、顔面麻痺が進み、呂律も回らなくなっていました。
もし食べ物を口にしたら、窒息してしまうかもしれない──怖くてたまりませんでした。
それでも息子は少しずつ回復していきました。
幸いにも人工呼吸器を使わずにすみ、やがて流動食を食べられるようになりました。
口が閉じず、ご飯は垂れてしまい、足の力も戻っていません。
それでも息子は前を向いていました。
「勉強道具を持ってきてほしい」と言うのです。
少しでも勉強の遅れを取り戻そうと、リハビリの合間に机に向かう息子。
その姿に胸が熱くなりました。
「文化祭までに治すんだ!」
無理だと思いました。主治医も同じ意見でした。
しかし、若さと強い意志の力は驚くほどでした。
息子はわずか3週間で退院しました。
まだ長く歩くことはできず、心拍数も高いまま。
それでも息子は、「自分の力で行きたい」と言いました。
私は少し迷いました。
まだ完全には回復していない体で、電車に1人で行かせるのは心配です。
でも、本人の“行きたい気持ち”を尊重したい。
無理をしないこと、途中で疲れたらすぐ迎えに行くことを約束して送り出しました。
そして、息子は文化祭に参加したのです。
友人たちは笑顔で迎え、息子も久しぶりに学校の空気を楽しみました。
あの瞬間、母として「信じて見守る」ことの大切さを改めて感じました。
顔面麻痺や握力の低下はまだ残っています。
けれど、彼は前を向いています。
そして夢を持ちました。
「将来看護師になりたい」と。
この夏の経験が、彼を大きく成長させました。
私も彼に負けず、前を向いて生きていこうと思います。
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息子が入院していた間、私は何度も「もしあのとき早く気づいていれば」と自分を責めました。
でも、息子の回復力、医療スタッフの手厚いサポート、家族や友人の支えの中で、息子は少しずつ笑顔を取り戻していきました。
退院後、まだ完全には回復していない体で文化祭に1人で参加したとき、私は少し不安でした。
でも、本人の「行きたい」という気持ちを尊重し、無理をしない約束をして見守りました。
その姿は、親として学んだ「信じて背中を押す」ことの大切さを教えてくれました。
ギラン・バレー症候群は長い回復の道を歩む病気です。
でも、少しずつ前に進むこと、希望を見つけることの大切さを、息子が教えてくれました。
もし今、不安な日を過ごしている方がいたら、伝えたいです。
“明日は、少しだけ良くなる日かもしれない”──と。




